第二十三話
背中を叩きつけられ、衝撃で息が詰まる。起き上がろうにも、先程ぶつかってきた複数の物――今は人体の感触だと分かる――に埋もれてしまい、視界がきかなければ身動きもままならない。下に重なっているフーリンが苦しげに呻いている。
抜け出そうと藻掻くと、顔を出す隙間ができたので、背丈の三倍はある堀底から空を仰いだ。神官達の怒号、法力の光がいくらか明滅し、火焔や突風、投擲武器も頭上を飛び交っていた。空が明るく染まる度に、飛んできた死体の様相が照らされた。ラルタルの市民と思しきが四人、恐らくは生き残った戦闘員だろう。
酷たらしい所業。ほのかに期待した、判定神院からの救援という線はなくなった。
――だったら異族の襲撃か……?
そうこうしていると、今度は四方八方から建物の瓦解する音が伝わってきた。どういった勢力だか検討もつかないが、ダインにとっては天恵だ。騒ぎに乗じて外郭の街へ、入り組んだ場所に逃げこみたい。
まずは堀から抜けるのが先決だ。腹の上に折り重なった死体を、ろくに力の入らない腕で持ち上げようとした時だった。
「生き残りの女はいるかぁー?」
聞き覚えのある声。確か、蔓の神官の一部である、人面花だ。そうすると、いま暴れているのは奴だというのか。力ある市民と交戦するのは分かるが、エイリーの神官を襲うのは何故だ。
ダインは首を引っ込め、死体に潜って顔を隠す。
「みんな死んじまったのかー? 女はいないのか?」
するすると降下してくる。涎の垂れる音が聞こえた。人面花は得意の分裂を繰りかえし、堆積した死体の隙間をぬって、液体が浸透するように近づいてくる。ダインは死人らしく目を閉じ、肩でフーリンの口を塞いだ。ここは犠牲者に紛れてやり過ごす。
青臭さに吐き気を催してしまう。人面蔓の気配は、顔の傍を気が済むまで往復すると、女女とひとしきり呼びかけながら遠ざかっていった。
ようやく消えたかと胸を撫でおろすと、堀の中が一瞬にして水で満たされた。突然の酸素欠乏に頭が真っ白になり、フーリンを引っつかんで水面を目指す。重みを失った死体をどかし、上下も分からなくなりそうな泥水を泳ぐのだった。
ようやく堀から這いでると、外は戦闘の渦中。まず度肝を抜かれたのは、そびえ立つ五つの山。すっかり崩れ去った城壁を踏み荒らし、空から地上から集中攻撃を受けているのは案の定、あの蔓の神官である。増えているのは分体と思われ、以前よりも数段大きく、水の法力による反撃は災害並みだ。
体毛のように伸びる蔓の先の、気孔らしき穴から高音をたてて射出される水礫が、周囲を飛びかう白き神官達を打ち落としていく。あまりに正確であり、直撃を受けた者は影も残らなかった。
地上から応戦する市民は思いのほか多い。停滞した動力下でも戦意を保てる剛の者達。人数は一個大隊を超えている。
観察を遮る、急な第六感。えも言われぬ悪寒に襲われたダインは駆け出す。頬や肩に熱いものが掠っても気付かない慌てぶりだった。なるべく戦火の薄い方へ。そして息を切らしながら瓦礫の山を登った。
直後、水色に輝く球体が地面から無数に出現する。晴天の湖面を思わせるそれは大小様々。ほとんどの者は戦いに夢中で、不吉な異物に気がつかない。ダインが「逃げろ」と声を張っても、種々の轟音で掻き消されてしまう。
球体同士の放つ輝きが何かのルートでも示すかのように繋がり合う段になって、地上で〝手〟を振るう市民達は互いに警戒を呼びかけた。
しかし遅いようだ。高みにいるダインからは、球体の輝きが描きだす、猛獣の凶相を象った紋が市民達をすっかり覆い尽くす様が見えていた。隻眼の虎か、豹と目される。
似た雰囲気を知っている。フーリンが大規模な風を扱う際のような、主神紋の顕現だ。
「お前ら! 早く――」
草むらだった範囲を根こそぎ消失させたのは、予想外の熱さであった。金属も溶かしそうな灼熱の水流は、巻き込んだ地面と一緒くたに内郭側への指向性を持ち、高々と佇立する要塞の一棟を吹き飛ばした。
寸でのところで大きな石材を楯にしなければ、高温の水しぶきを受けて全身火傷では済まなかっただろう。
崩れ落ちていくのは、ダイン達が収監されていた棟のみである。偶然とは思いがたい局所破壊だ。今のが仮にダイン達を狙った攻撃だとしたら、エイリーの意向に反している。やはり裏切りか。
何にしても逃げる好機。蔓の神官はこちらに気付いていない。どさくさに紛れて戦場から離脱すべく、流れ矢などをかいくぐって進むダインに立ちはだかる者があった。
「あれー? どこぞで見た顔だなぁ?」
人面花。相も変わらずニタニタと、肩越しのフーリンにばかり視線を注いでいる。生え際の方を見れば本体が死闘を繰り広げているが、それには一切興味がないらしい。
「道を空けろ」
「ずぶ濡れだなぁ。水堀でも泳いだか? こんな時に呑気だなぁ。余裕じゃねぇか」
ただでは退きそうもない。
さりげなく足下に目を走らせる。少しでも切れ味が期待できそうな、鋭い形状の物を探す。爪先の横に、良い具合の石が一つ。
「神官ってのは人の姿に似るものと聞いたけどな。お前は醜い例外か」
無駄な感情の揺らぎを期待したが、むしろ嬉しそうに語り出す。
「そうだろ? やっぱり何事にも例外はあるからなぁ。ディーロは……俺もディーロだが、強者の失敗作ってやつだ。力はあった。だけど足りなかった。神とも、神以外ともつかない中間。そんな、〝世界そのもの〟の過ちが生んだ狭間にピッタリきっかり当てはまっちまう奴らがいる。そういったものは本来なら生まれ得ないことになっているが故に、姿を成形する器が用意されていない哀れな魂。末路は俺のような化物ってことよ」
「お前が哀れなことは分かった。退け」
石に足をにじり寄らせ、靴の先で捉えた。あとは踏みつけて地面に刺せばいい。足でやったことはないが、意志や気組みを整えれば可能な筈だ。しかしディーロの水の法力の速さを知っている手前、また、フーリンを力に巻き込まないための根拠薄弱な対処法を試すのに覚悟を要し、慎重に機をうかがった。
「んでなぁ? ぐっちゃぐちゃな俺は、ご丁寧に膨大な力や自意識までぐちゃぐちゃに分割されちまったんだ。本体らしきアイツには、怒りの感情と森・水の〝手〟が。俺には喜悦の感情、そして炎の〝手〟が割り振られた。残りはというとー?」
したり顔を見て、不覚を察する。会話によって隙を生ませるつもりが、相手の時間稼ぎに付き合わされていたのだ。
急いで石を刺そうとした足は、背後から巻きつくものによって雁字がらめにされてしまう。ほとんど同時に、背負っているフーリンもろとも四肢を拘束された。
ニヤつくディーロの横に、新たに三本の人面花が並び、それぞれ表情に見合った苦悩・悲哀・狂気の語調でまったく同時に喋る。
「勢揃い。これら全てが、ディーロって訳だ」
「俺達を殺そうというなら、牢にぶち込む前にやれたんじゃないのか」
これには悲哀のディーロが、啜り泣きながら答える。
「最初は殺すつもりなんかなかったさ……。だけど、エイリーの奴が……」
「おい」と苦悩のディーロが、
「余計なことを言うな。懊悩が増すだけだ」
「わかったよ……」
「なんだこいつら」ダインが呆れる間にも、締め付けは強くなる。このままでは死ぬが、さほど慌ててもいなかった。「やっぱり、あいつらとは考えが対立してる訳だ」
「あぁー? あいつらだぁ?」
胸いっぱいに息を吸い、狼の遠吠えを思わせる絶叫。
「このままじゃ殺されちまうぞぉ! いいのかオッサン!」
氷塊が落ちてきたが如しだった。牛に槍を刺したような武器を取り回す、先程の神官が見参した。人外の作用力に場が制圧され、人面花はちりぢりに刻まれていった。間一髪で難を逃れた喜悦のディーロがなおもヘラヘラと笑う。
「ダヴィッドじゃねーか。元気にしてたかぁ」
「黙れ謀反者。悪いがこいつらを消されては困る」
「謀反だぁ? 俺はエイリーに仕えた覚えはないね」
交戦しだした両者の後ろで、拘束から逃れたダインはフーリンを寝かせて布鎧を脱いだ。
「助かったぜオッサン。あばよ」
後ろめたい卑怯だが、元より多勢に無勢。先程の鋭い石を、飛び散ったディーロの肉片に刺した。微傷を負わせる手応え――ぶつかり合っていた二つの影は千々に斬り捨てられ、跡形も残さず果てた。瓦礫の山は更に細かい石粒と化して降りそそぐ。
睨んだとおり、力の発現範囲は狭い。半径十メートルと伝播しない分、とある標的に熾烈な斬撃が集まった。そのことを十分に予見していたダインは、既にフーリンに覆い被さっていた。覆いきれない箇所を補うため、脱いだ布鎧も用いて全身を保護。
この力が本当に呪いだとしても、これまで宿主を傷つけたことだけはない。肉体は勿論、衣服や持ち物もである。ならばこの方法での守護が可能と踏んだ。
顔を埋めてうずくまる。産毛の末端を鋭いものが掠めていく。嵐が去るのを待ち、怖ず怖ずと確認したフーリンは果たして無事であった。肩の力みが消える。
恥も外聞もなく、この場を生き延びた。今だけはプライドに殉じる訳にはいかないのだ。冷めやらぬ争いを背に、物陰から物陰へ。身を低くして街へ向かう。
フーリンが目覚めるまで、進むべき方向は分からない。ダインは墨色のなかを彷徨う。
追っ手を気にして振りかえるのすら骨だ。転ばぬように歩いた。
痛覚がぼやけてきた気がする。睡魔に蝕まれた脳に抗い、安全な休息地を探す。休息するだけではジリ貧だと気付くには、疲れすぎていた。
めぼしい物を求めて民家をあさる。せいぜいが包帯や、効果の怪しいニガヨモギ等の薬剤。焼け石に水だ。
縫合針を見つけた。そっと投げ捨てる。
ついに、ダインの頭上にも限界の二文字が浮かんできた。否、もうずっと前から心だけを杖にしていた。
立ち止まり、膝をついた。あんなに軽かったフーリンを、もう支えることができない。 石畳の冷たさが濡れた身体に染みる。心なしか風が強まった。歯の根が合わない凍えに皮がつっぱり、ヒリついた。
俯き、悪あがきのように顔を上げなおすと、例えではなく死の臭いが漂ってきた。臭気の元は前方にあるようだ。気配が濃くなるにつれ、少しずつ見えてきた緑色の影。
聞こえてきたのは二足歩行の足音。ディーロだろうか。いずれにせよ普通の市民とは考えにくい。
――ここまでか……?
もはや身構えもしないダインの前に現れたのは、革袋を引きずる小柄な少女だった。薄汚い服装は緑一色であり、長いこと切っていないだろう黒髪が脂ぎっているのが暗くても分かる。盲目らしく目は閉じられており、壁伝いに手探りで歩いてきた。敵意は感じないが腰には鎌が一振り。
「……刑吏か」
刑吏。市街地の掃除人であり、拷問・処刑請負人。人体を熟知するが故に医者を兼ねることもある賤民だ。
「酷い血の臭い……かなりの重傷だね。二人で間違いないかな」意外にも明瞭な声質である。物怖じしない気の強さを感じた。「ここら辺は皆あいつに食われたみたい。貴方たちもあの異族にやられたんでしょ。大きなものが、ずっと暴れてる」
「そんなところだ」
「私はこの区画を担当する刑吏のフィーナ。家まで来て。すぐそこだから……ほら、女の人? は私が背負うよ。歩ける?」
「大丈夫だ。本当に助かる……」
幸運に感謝する裏には、船酔いに近い嘔吐感があった。誰かの掌で好き勝手に転がされ、平衡感覚もなにもなくなった千鳥足。
極端に市民が減った広大な国で、こうも都合よく生き残りに出会う確率。ましてやそれが医療に秀でた刑吏であり、とても生き残れそうもない盲目の少女である確率。
革袋の中は死体だろう。このような非常時に、命がけで仕事をするなど狂っている。
思うところあれど、着いていくしかない。
特筆すべきことは起こらぬまま、家まで五分と歩かなかった。助かると思えば足も動くものである。
上流住宅街から孤独に離れた、しかし他よりも幅広な石造り四階建て。導かれるまま中に入ると、高価な家具や調度品が並ぶ。差別を受けながらも経済面では裕福なのが刑吏の常である。
格調高くも、散らかっていた。脱ぎっぱなしの衣類に、卓上で汚れたままの食器。荷物をまとめた形跡はない。防臭処置はしているようだが、それでも満ちる腐敗臭には閉口した。
逃げもせず死にもせず、普段通りの生活を続けているのか。近隣の家からは案の定、命の気配が途絶しているというのに。
よほどの強者なのか、特殊な法力の持ち主か。止まらぬ勘ぐりと疲労が交錯する。施術室のあるという地下階へ通され、二床あるベッドへそれぞれ寝かされた。落ち着かないダインを尻目に、見えているような慣れた手つきで治療具を揃えている。
「決まりだから一応は説明しとくね。私は治癒の〝手〟を持ってるけど、外科的処置も並行して行う。法力だけに頼れば身体が持つ本来の治癒能力が弱っちゃうからね。ご了承いただける?」
外科よりも内科が尊ばれ、肉体に直に触れる医術は下賤なものとして拒否する者が多いので、事前の確認は必須である。
「了承も何もない……全てを委ねる」
「毎度」
右手から治癒の〝手〟を出したフィーナに、まずは見たこともない香草を嗅がされた。黄色い針葉の束は、鼻がもげるほどの甘い芳香を放つ。鼻腔から脳までを突き抜ける刺激は、萎れていた気をたたき起こす苛烈さ。意識が冴え冴えとし、首から上の筋肉が発熱している。痛みや疲れは溶解され、思考明瞭ながら身体はベッドから浮いている感覚だった。
フーリンからにしてくれと言いたくても喋れなかった。鈍くなった皮膚に、貫入する針や卵白の冷たさを感じる。創部を焼く焦げ臭さ。包帯の締めつけ。時折、懐かしい温かさ。快晴色に近い光。
どれだけ時間がかかるかと憂慮したとき、フィーナはフーリンの施術へと移行した。こちらはもう終わったのだろうか。驚くべき早さだ。
先程の香草を数えながら、フィーナの背中が言う。
「怪我の具合はあなたの方が深刻だった。動けるのが信じらんないよ」
「……」
もう少しで口が回りそうだ。
フーリンの全身にくまなく手をかざし、肉や衣類の裂傷をふさぐ。
「この人の方が傷だらけだけど、致命の深さじゃない。どちらかといえば……なんだろう。本人は消耗してるのに、むしろ内在する力だけが増してってる。酷く不安定で、それを安定させるためにずっと体力を奪われていたみたい」
ノルンから授かった力のことだろう。ランを討ってから、やけに動きが鈍かった理由を理解した。
「そこまで分かるんだな。少し診ただけで」
フィーナの肩が大きく跳ねた。背は向けたままだ。
「もう喋れるなんて驚きだよ。普通は何時間もかかるのにさ」
「そうなのか……?」
濃密な経験が、普通という言葉の指す地平をあやふやにしていた。
「何者なの? なんとなくだけど、ラルタルの人じゃないよね。二人とも」
「南大陸から来た。……身内を訪ねにな」
「南から? 私と同じだね」
「ここの生まれではないのか」
「まぁね……」
それより気になることがある。
「フィーナは逃げないのか。ここにいれば、いずれ殺されるぞ」
何とはなしに、空気が色変わりした気がした。不思議と、上階へ行く階段との位置関係を確認してしまう。狭い動線はフーリンが眠るベッドに塞がれているので、必ずフィーナの傍を通る必要がある。
治療の腕は抜群だったらしく、身体が動く。有事の際はすぐ戦える。警戒している理由が自分でも分からない。ディーロの大出力攻撃を察知したときのような、第六感。
「どうして逃げないかって……?」包帯が痛々しいが、フーリンは目に見えて回復していた。「それは、願いを叶えるため」
「願い……?」
施術を終え、ほとんど首だけを回してダインを見据えたフィーナは、妙なことを口走りながらも平静だった。
「あるお方の言葉を信じてるの。私は神様からのお告げのように思ってるわ。だから、ずっと信じてきた。どんな時でも真面目に、誇りをもって仕事に邁進すれば良いって。どんな身分になっても、街の皆から蔑まれても構わない。ここが私のいるべき場所なんだって、何年も思い続けてきたの」
明らかに様子がおかしい。動力停滞の影響が顕れた者とは、また別な雰囲気がある。命の恩人に対する態度ではないとの自責があるも、ダインはそそくさと退散を試みた。
「そうだったのか。……治療を感謝する。用事を済ませたら、必ず礼をするからな」
今はどうしても行かなくちゃならないんだ。そっか。とやりとりは打ち切られ、ベッドを降りた。思った以上に足取りが軽いことに感嘆し、フーリンを抱き起こす。まだ意識は戻っていない。
「気をつけてね。くれぐれも」
「そっちもな」
あっさりと見送ってくれそうだ。杞憂だったかと、フィーナに少し悪い気がした。
背負ったフーリンが、もぞと身じろぎした。夢の中にいるのだろう、うなされ声で呟いたのだった。
「大丈夫ですか……ダインさん」
どこからか、潮目の変わる音が聞こえた。
思わず飛び上がるような轟音。階段の出入り口が、鋼鉄の落とし扉によって塞がれた。危うく挟まれそうになり、たじろぐダイン。
「成る程ね……。やっぱり間違いじゃなかったんだ」
氷水のような声だった。フィーナは天井から垂れ下がる、落とし扉の滑車と繋がっている縄から手を離し、腰の鎌を抜いた。数秒前までとは別人な、如何なる残虐も厭わないだろう面構え。死刑を執行するときの雰囲気である