第二十二話
時折の微細なラップ音を除けば静かなものであった。背を撫でるフーリンの息づかいも変調はなく安らかだ。
手元への意識を散らすための様々な思考の内で、いやが上にも頭をもたげる疑問点。先ほどフーリンを斬ったとき、ついでに斬れた床や壁はとても軽微な損傷だった。にも関わらず、フーリンの刃創はその出血量から鑑みるに相当な深手である。
威力にばらつきが生ずるのは今更いうまでもないことであるが、この事象を村での一件とどうしても重ねてしまうのだ。
まだ名もなかった小さな友人。胴を真っ二つに分けて死んだ、白い子猫である。無残な死体を見つけたときは悄然の極致で呆けていたものだが、あれは甚だ妙だった。崩壊したダインの小屋を中心に、放射状に斬り荒らされた草原。それらの脇から一直線に、露骨な指向性をもって子猫のあとを追っていた斬り痕。まるで得物を求める捕食者の足跡のような、獰猛な目的意識に触れた気がした。
力の発現範囲のブレにしては偶然が過ぎる。また、生命反応の有りどころまで威力を延長する性質だとも思いがたい。もしそうであれば数多の命がある草原、森、海等において無限遠に広がってしまう。
では何を選んで斬るのか。分かりやすい判断基準が見えてくる。
ダインにとって、大切な存在だ。
――畜生が……!
三本目の鉄格子が切れた。残りは二本。フーリンだけなら通り抜けられる開口幅だろう。
ピンポイントの筋肉ばかりを酷使する想像以上の重労働に、ただでさえダメージのつのる身体が悲鳴をあげている。茹だる肌からは汗がとまらない。気は急くが少しだけ休もうと、指をほぐしながら、
「寝ちまったか? 悪いな、もうすぐ……」
目に飛び込んだのは、まさに血の海であった。その中心に横たわるフーリンは、左の五指を喉奥に押し入れ、それを右手で押さえる格好で発声を封じていた。天井までもを濡らす血液が額に滴っている。気を失っているのかいないのか、末期患者のように瞳だけが動かずしてぎらつく。
露出している顔面や手が、ほぼ刃創で切り開かれていた。生皮を剥がされたような凄惨さにダインは息を呑む。皮鎧もほとんどが捲れあがり、護られていた柔肌を裂き放題にしていた。
「そんな」
こうなるまで、微かな呻きもあげなかったというのか。異常があれば言うと約束した筈だ。そうでなくても、敢えて別のことを考えていても、フーリンの苦悶の声が毛ほどでも耳に入れば作業を中断するつもりでいた。
第一、室内が斬れるラップ音は本当に時折、計数回のみだった。つまりは、ほとんど全ての斬撃がフーリンに集中したのだ。
「馬鹿野郎が」
血に足をとられそうになりながら駆け寄る。しかし手詰まりだ。ここに治療の術はない。声をかけても反応はない。いっそのこと看守を呼ぶか。判定神院との交渉材料にするならば、フーリンに死なれては困るはずだ。
いや、と首を振る。冷静になる必要がある。とにかく喉に突っこんでいる手を抜こうとした。しかし、よほど強く咬合しているらしく、無理に動かすと肉や表皮が削げそうなくらいだ。それでも窒息の危険性を考慮し、無理に抜き出した。
白魚のようだった手は、どれが噛痕だかも判然としない有様で、裂傷からは骨や腱鞘が見えてしまっている。黄色く固まった浸出液で、指同士がくっついてもいた。
開ききった口からは、さっきまでの軽口どころか呼吸音さえ聞き取れなかった。
「おい、フーリン。返事をしてくれ。こんなところで終わるってのかよ。話が違うだろうが。……俺は、お前まで殺すのか。なぁ、そんな仕打ちがあるか? 例え世界が元通りになっても、そこにお前がいなかったら――」
怒鳴りかけたダインの唇を、またも閉じさせる不可視の力があった。フーリンはあさっての方を見たまま、首を向け直すことすら出来ずに言ってのける。
「……どうしたんです。サボってる暇は……ありませんよ」
ダインは、破裂しそうに脈打っていた胸を撫でおろす。
「無茶をしやがって。ああまでして黙られたら、やりようがないだろうが」
「その甲斐もあって順調ですねぇ……。あと一本じゃないですか。どうぞ続けて下さい。まだまだ……耐えられますから」
果たしてそうだろうか。逡巡する脳裏に、思い浮かんだことが一つ。
「そうだ……確か、前に言ってたな。お前らは分体って奴が出せるんだろ? それに魂を移し替えればどうのって」
「分体の生成は、天界の住民の特権です。私は神官という立場にはありますが、あくまでも人間。どう足掻いても命の器は一つなのです」
フーリンも悔しそうに首を振る。もう腹を括るしかないようだった。
「……分かった。なら、今度こそ約束してくれ。少しでも斬撃が及んだら言うんだ。その度にマシなやりかたを模索していきたい。いいな?」
話し口調ほどは冷静でないだろうフーリンも、考えを落ち着かせたらしい。素直に頷くと、ダインが作業を再開した途端に「二度くらいました」と訴えた。
「なんだと」見てみてもどれが新しい傷なのか分かりかねたが、嘘を言うわけもない。言われてみれば、両耳の裂け具合が進んだようにも思える。
改めて愕然としてしまう。この時点で被害を被っていたのなら、一体どれだけのペースで責め苦を受けていたというのか。それを、指を飲んでまで耐えていた。否、耐えさせていた。
尋常ならざる痛苦を与え続けていたことに言葉もでず、ダインは必死で考えた。これ以上は本当に殺しかねない。
鈍る頭でフーリンの言葉を思い返してみた。この力は類感呪術に似ると推察される故に、平生での物を斬る状況から離れるほどに、発現される状況も弱まる可能性がある。
打開策へのヒントはこの情報の中にあると踏み、何度か反芻する内に、今までは切断にあたっての表層意識ばかりに着目していたが、まだ改善の余地があると気付いた。
長らく培ってきた心の型。対象と相対すれば、どうしても起こる脳の切り替わり。負けぬよう、呑まれぬように整えていく気組み。姿勢。これらによって、作業を始める前から既に呪術発現の条件がある程度成立していたとすれば……。
思い立ったダインは鉄格子に背を向け、後ろ手で糸をつかむ。どんなことでも今は試すべきだ。剣を振るう際にはとても考えられない形。目を閉じ、片足を浮かせて身体の軸をブラし、胸は張らず、肩肘は強張らせ、顔を下へ向け、なおかつ思考は散漫にする。我ながら滑稽な様相で、最後の鉄格子へ挑む。
バランスは悪くとも決してよろけず、力加減を誤らぬよう指先だけを別個の生き物とする。少しずつ、汚れでも落とすように摩擦を加えていく。
冷静に沈着にと心がけても、やはり心拍数が上昇した。今にでも看守が来るかも知れない。目を開ければフーリンが動脈を断たれているかも知れない。
できるだけ焦らず、時間をかけて下端を切り終えた。切れたと思わず、抵抗が消えたことのみを感じた。これで良いはずだ。これ以上にはやりようがない。無事に終わってくれと祈るが、無情にもフーリンの苦悶の声が漏れた。
「大丈夫か!」咄嗟に目を開けると、腹を押さえて身もだえる姿が。慌てて寄ろうとすると、思わず足を竦まされてしまった。フーリンの流す涙によってだ。
全くの想定外で、えも言われぬ感情になった。普通であれば理由は明らかだが、フーリンは痛みで泣くような女ではない。
「気にしないで下さい。今度の傷は浅いですから……」
「……泣く理由はなんだ」
「泣いていません」とくる。こうなっては訊いても話さないので、黙って作業を続ける他なかった。
目を閉じる。暗闇のなか、肉が裂かれる音と嗚咽が混じり合う。五本目の鉄格子が落ちる頃には、嗚咽は慟哭になっていた。
「終わったぞ、ようやくだ。こんな場所……さっさと出よう」
「えぇ……」
頬を、首を流れる大粒の涙が、血も洗い流さんばかりだった。肩を貸して立たせ、出来上がった脱出口へ。地上までかなりの高さがあるのが問題であり、方法は一つしか思い当たらない。ダインは、声も出さず泣きじゃくるフーリンに躊躇いながらも尋ねる。
「着地する直前の一瞬だ。緩衝を頼めるか?」
フーリンが咳き込み、赤い飛沫が壁を染めた。
「当然……です。私が先に……落ちましょう」
二人ともボロボロだ。死線を越えてきた頑丈さと、なけなしの風力の補助があってようやく動ける状態で、開口部へとフーリンをよじ登らせようとする。
互いの血で滑り合いながら、肩車の形で持ち上げていく。足に、胴に、一挙手一投足に伴う激痛に二人して呻く。
「くそっ」普段であれば軽々であるが、今のダインでは一人の人間を肩に乗せて、しゃがんだ状態から立ち上がることが難しかった。中腰と蹲踞の往復がせいぜいで、骨も筋肉も音を立てて軋んでいる。「すまない、登れるか」
タイミングを合わせて中腰になると、フーリンがは開口部に手をかけ、歯を食いしばって這い上がろうとした。血と涙がしきりに降ってくる。
もうすぐ片足がかかりそうだ。そうすれば、後は体重を外側へ預けるだけで落ちられる。「もう少しだ……頑張ってくれっ……!」
跪かぬよう、ダインも必死の形相だ。フーリンの方も、身体の底から力を絞り出しているのが伝わってきた。
「負けませんよ……。この程度の痛みなんか……有って無いようなものです。私などはまだ……痛みを感じることができる……!」
「何を言っているんだ……?」
「どんなに、お辛かったことでしょう。いつも朗らかにする裏で、大いなる意志の進行に……自らの変化に日々、気を揉まれ、戦い……亡くなられたのでしょうね。一体、如何様な最期だったのか。その痛みに比べれれば……それを見届けられず、気配の喪失を感じることしかできない悔しさに比べれば、今の私などは寝ているに等しいのですから」
「まさか、それって」
にわかに力の強まったフーリンがついに片足を乗せ、開口に身を滑りこませた。目を拭い、溢れるものを内に押しとどめようと唇を噛む。
「……すみません。敵陣で泣き言など」
ノルンが死んだのだと、それだけは分かった。蔓の神官の口ぶりから悪い予感はしていたが、やはりトュールという神と相打ったと思われる。
ダインにとっては顔も知らぬ相手だ。しかし、己の全てと言える存在の消滅が、胸にどれだけの空洞をもたらすかは知っている。痺れるような同情が、胃の腑にくすぶった。
言葉が出ずにいると、「感染ったようですね。誰かのうじうじ根性が」ときた。憎まれ口の勢いで、いつもの澄まし顔を少しは作ったつもりだろうか。
「無駄話が過ぎました」頭を振り、半身を外へ投げだす。「それではダインさん、後に続いて下さい。……私を信じて」
躊躇なく落ちていった。刹那でも悲哀を置き去ろうとするように。
ダインも懸命によじ登り、外界へ顔を突き出した。冷風が傷に染みる。
分かってはいたが非常に高さがある。今いるのと同規模と思しき城塔が、佇立して円を描いている。とある地区の、恐らく内郭にあたる場所だろう。
下を見れば谷のように底がない。フーリンは無事か。呼吸を整え、ついに落ちようとしたとき、扉の外から足音が聞こえてきた。ここに入ってくるとは限らないが、そうであれば脱獄は即発覚する。ならば沈黙させてから脱出するか。しかし相手の力量によっては太刀打ちできないだろう。
行く他ない。ダインは空に身を躍らせ、重力に従った。手負いが二人、谷底でどうなることかと青ざめる。頭上から、鉄扉の開く音が聞こえた気がした。
どこまでも落ちていく。着地点が見えない。これほどの高所から飛ぶのは初めての経験でありながら、不思議と恐怖は覚えなかった。圧迫感が消え、楽になったとさえ思う。
死に対する気の緩み。原因は分かっている。我ながら危うく、嫌気がさす。
垂直の旅は不意に終わった。上昇気流による緩やかな減速を経て、背中から草むらに受け止められた。
子鹿のように立ち上がってフーリンを探す。星明かりの下でも艶々と目立つ鏡の頭は、草に埋もれていてもすぐに見つかった。
「おい、大丈夫か」
ぴくりとも動かず倒れている。ダインを迎えるための法力で、流石に体力が尽きたか。
引き起こし、肩に担いだフーリンは実に軽く、細い。ピリミ大海で抱えたときよりもずっと痩せた、ただの女だった。
どちらへ向かえば良いのか。左手に内郭の要塞、右手には外郭への進行を阻む城壁。それらが馬鹿らしい高さの輪郭を浮きだたせるだけの細長い空間。茂る草は隠れるには低く、足を取るには絶好な背丈で揃えられている。
躓きかかったとき、死者も目覚めそうな警鐘が鳴りだした。自分の息づかいさえ聞こえなくなった。何カ所もの監視塔が吠えている。
逃げ場はない。なるべく身を屈め、建物に沿って隅を歩いた。警鐘のおかげで敵の気配や、追っ手の足音なども拾えなかった。外郭への城門を探して進むが、どれだけの奇跡が重なれば通過できるというのか。
鐘音が内耳に刺し貫き、脳をくすぐる。疼痛を伴って骨にまで響く。
闇夜が真昼になった。途切れぬ稲光。荒々しくも神聖さを帯びる光に、ダインは目を開けることもできず棒立ちになった。この眩さには覚えがある。照射時間に比例して、逃走への意欲や戦意が薄らいでいくのが分かった。
不要になったとばかりに警鐘が止んだ。やっと目を開いたときには、完全な包囲網の中である。空中で遭遇したラン達と同じ、氷雪を思わせる鎧の衆。武器を携え、光の〝手〟を掲げるエイリーの神官が、五十は下るまい。
「まさか、本気で逃げおおせると思ったのか」
高位らしい神官が威圧をかけてきた。翼を出していないが、蔓の神官に負けず劣らずの雰囲気を醸している。背丈はダインより大分ひくいものの、筋肉の要塞が鎧の上からでもはち切れんばかりの存在感を発する。兜で面相は不明。手にした長柄の大槌は、柄の細長さに対して打撃部位の金属塊が巨大に過ぎ、槍に牛でも刺さっているかの如しだ。それは極めて不均等な重量比ゆえに驚くべきしなりを見せ、男が軽く腕を振るうと壊滅的なエネルギーが体表すれすれを鞭の動きで這いめぐるのだった。
草や地面の吹き飛ぶ様さえ視認できない。そして気がつけば、周りに深い堀ができていた。大きな穴の中心で、立つのがやっとの足場のみが残された。半歩でも踏み出せば転落してしまう。
「分かるだろう。お前ではどうにもならない」
男の合図で光がやんだ。力を見せつけた後は、優しく同情的に諭す。
「安心してくれ。エイリー様は、お前達を大切な交渉道具だとお考えだ。決して殺さないし、特に酷い目に遭わせる理由もない。なんなら牢での待遇改善も進言しよう。傷の手当てもしてやる。だから大人しくしてくれないか? 悪い話じゃないだろう」
ダインが唾を吐いた。気力だけで抵抗心を燃やす。
「ほざきやがれ。自分を殺しに来たうえに部下を何匹も潰してる賊を、丁重に扱う道理があるか」
兜を介していても、男が寂しく失笑する気配が伝わってきた。
「泣ける話だが、もはやエイリー様にとっては極一部の神官以外は不要なんでな。お前達にそこまでの悪感情はない筈だ。あの方が見据えているのは、停止後の世界での戦いだけだ」
「話が見えないな」
「ここで説明しても詮ないことだが……。要するにな、本当の敵を倒すための下準備に、お前達が必要なんだ。仮にお前達がエイリー様を討ったとしても、世界が真の意味で救われることはない。だから大人しく捕まれ」
「エイリーをどうにかしても〝世界そのもの〟が意志を変えない限り、戦いは終わらないって話だろ。そんな事は承知の上でここまで来てんだ」
武器を構えなおす音が、さざ波となり連鎖した。今にでも集中攻撃を食らいそうだ。
「これが最後だ、投降しろ。仲間を犬死にさせたくはないだろう。このままでは、お前自身も物言わぬ道具に成り果てるぞ。それどころか、言ってしまえば目的を果たすにはその女さえいれば良い。本当ならお前を殺して無理に奪えば済むところだが、俺はそんな手段をとりたくないんだ」
兜のバイザーを開けて見せた初老の浅黒い顔貌は、本気でこちらを気遣っているように思えた。生かさず殺さず捕らえようとすれば、いつでも出来るに違いないのだ。そもそも、光を当て続けていれば容易く無力化できたところを、敢えて言葉での説得にまわっているあたり、こちらに積極的な協力意識を芽生えさせようという心根が窺える。
この男の言うことが事実であれば、と魔が差しかける。どの道、まともな打つ手はないのだ。ここは従う振りをして隙を突くのが上策か、などと考えるも、口をついた言葉は真逆だった。
「立ち話にも飽きた。さっさとかかってこい」
「なんだと……」
「敵と味方の言葉の、どちらを信じるか。あんたが何時間と講釈を垂れようが、結局はこの選択になる。俺はフーリンを動力神の座に立たせ、それでこそ世界が救われるのだと信じる。だから話は終わりだ」
「そうか、本当に残念だ」
敵は多いが、こちらを殺さないように動く。それが分かっていれば、普段とは違うやりようがある。武器も無く、仲間を背負い、いくら無謀でも後には退けなかった。
「いくぞ……人間をなめるんじゃねえ!」
覚悟が、雄叫びが何処かへ届いたのか。両者の初動は、前触れのない城壁の爆裂によって寸止めとなる。場の全員が吹雪のような石片にさらされ、ダインはなにか温もりのある重量物の直撃を受け、それと共に堀へ落下していく。