第二十一話
ラルタルはあまりの広大さ故に、他の城塞都市とは構造的に異なる部分がある。通常であれば全周を囲うのみである城壁が街のなかにも縦横無尽に巡らされ、特定のブロック毎に区切られているのだ。
タラジャスク城塞より四ブロック東、ガゼ地区。歪んだ台形を形づくる二重城壁は、内郭のほとんどが要塞でありモスティーユ牢獄として使われている。
全周八キロ。万の破城槌をものともしない、返しのついた壁は高さ七十メートル。七十三基にも及ぶ城塔はさらに高い。その内の一基、死臭横溢する最上階にて、囚われし男女が目を覚ます。
「生きてるか……」
「……どうでしょう」
冷たく、固い監獄であった。殺風景で不衛生な石部屋は、古びた鉄扉が唯一の出入り口だ。頭より少し高い位置にある開口部はダインでもどうにか通れそうな広さではあるが、太い鉄格子で網状に塞がれている。
蔓の神官が言っていた判定神院との交渉のためか、死なない程度の応急処置は施されているが、それでも数え切れない負傷箇所。両の手足首を鉄枷で縛された上に、武器も奪われらしい。流石のフーリンも軽口を言う余裕がなさそうだ。悄然たる表情でぽつぽつと弱音を吐く。
「情けないですね」毛羽だった髪はいつもの輝きを失い、くすんだ獄内を朧気に映している。「あんなに呆気なくやられてしまって、この様だなんて。強引に村から連れ出したあなたにも……力を与えて下さったノルン様にも、この世界にも申し訳が立ちません。全ては私の慢心が招いた結果です……。あんな者に負ける筈がないと驕っていたのでしょう」
いくら気丈な者にも弱さがあると改めて実感させられる。強さを頼みとする者がそれを打ち砕かれたときの喪失感は、よく知っている。下手をすれば泣き出しかねない声音に思え、ダインも満身創痍ながら励ますのだった。
「死のうとした俺を殴っておいて、これしきのことで終わったような口を利くな。愚痴ってる暇があったら脱出するしかねーだろ、馬鹿が……」
馬鹿がよ、ともう一度言ってやると、フーリンが微かに体温を取りもどす気配があった。
「うるさいですね……。分かってるんですよ、そんなことは……」
まずは可能な限り現状を把握することだ。ダインは芋虫のように床を這い、壁にもたれながら器用に立ち上がった。こんなに動ける自分の頑丈さに呆れてしまう。
額の高さの開口部は背伸びしても満足に覗くことはできないが、周辺に建つ城塔の先端が見えた。どうやら随分と高い場所にいるようだ。フーリンが万全であれば壁を破壊して飛んでいくだけなのだが。
「なぁ、空にある俺達の荷物はどうなった」
「心身の衰弱で〝手〟が不自由なので、現時点では感知できません。普段は常に頭の直上に来るように動かしていますが、今は恐らく蔓の神官と戦った場所の上空でしょう。それか――」
「なんだ」
「荷物を保持している風の箱には、半日毎に法力を加えて強度を維持しています。そうしないと箱は制御を失ってしまう。最後に加えたのが、確か……エイルーシャと別れる少し前です」
「蔓の化物にやられてから何時間経ったのかも分からないからな。今頃は落っこちてるかもって訳だ」
鼻を鳴らすダインをよそに、フーリンは自分の髪を口で咥えはじめた。
「……そんなに腹が減ったのか」
「違います!」
しばらく見守っていると、髪が抜けたにしては大袈裟な音が聞こえた。フーリンが唇に挟んでいる銀色の細糸は毛髪に似るが、人工的な鈍い光を宿している。静かに息を吹くと頼りなくも正確に風にのり、鉄扉のノブに絡みつく。もう一方の端が鉄格子の一本に巻かれていくと、細糸は室内を縦断するように張り詰めたのだった。
「張った糸で錠を擦ってください。時間は掛かるでしょうが、断ち切れる筈です」
「これは何なんだ」
「元々はただの糸です。どこぞの問題児を少しでも女らしくすべく腐心していた優しい神様が、院に住まうお婆さんから譲り受けるまではね」
「裁縫ぐらい覚えろってか」
「ええ、嬉しかったですよ。神器と化した糸は金属にも勝ると知ったときは、よく悪戯に使ったものです」
「泣ける話だ」
張り詰めた糸に手枷を擦りつけると、確かに削れていく手応えがある。かなり頑丈な代物に違いないが、どんどん摩滅していく。うっかりすると手首を切ってしまいそうで注意が必要だ。
慎重に作業を進め、ものの五分程度で手が自由になった。その間にも、フーリンは虚ろな目になっていく。
「……おい、大丈夫か」
「私は平気です。それより早く拘束を」
自分が眠らないために、また、フーリンが眠ったら危ない状態に思え、無理に喋った。
「怪我の具合はどうなんだ」
「四肢に感覚がありません。美しい顔にも傷が……」
暗がりに目をこらすと、頬や額に深浅不明な切り傷がおおい。「よくその程度で済んだな」と平静を装っても、頭の血が沸き上がる。
「水から出された後は、どうにか風のクッションが使えましたからね。意識は朦朧としていましたが、ダインさんの剣だけは空に逃がしましたよ。……やるものでしょう」
「お前……。そうだったのか」
その気まわしがなければ、もっと軽傷で済んだに違いなかった。
フーリンを叱咤した手前、敵にあっさりと敗北したことへの自責の念をぐっとこらえる。今は脱出に専念しようと、背中を床につけて足枷の切断にかかった。余計なことは考えず、無心に脚を上下させた。
ただでさえ腹筋への負担が大きい運動なうえ、動く度に全身の傷が痛むので多大な労力を要する。ようやく足が自由になる頃には汗だくになっていた。
「くそっ、たまらねぇや。待ってろ、そっちの枷も今から……」
動けぬフーリンを背負い、糸まで枷を持って行く。酷く難儀な作業であり、一度の摩擦を与えるにも相当な労力を強いられた。
「苦労をかけますね」
「今さらだ」
やっとのことでフーリンも自由にしたときには、二人とも息があがりきっていた。しかし休んでいる暇はない。
「待ってろ。この忌々しい鉄格子を破ってやるからな。こんな所はとっとと抜けよう」
勢い込んでみたものの、重要なことを失念していた。
格子を切るには糸を左右に引く必要がある。枷の場合と違い、糸に切られる形ではなく、ダインが用いる糸でもって切るのである。
そうなれば力が発現してしまい、機動力皆無な今のフーリンは確実に死ぬあろう。その後、建物の崩壊に巻き込まれてダインも死ぬ。よしんば生き残ったところで、派手なことをすれば敵兵が殺到する。
固まってしまったダインを見て、フーリンが嘆息した。
「……今頃気がついたんですか?」
「ああ……」
「不確かですが、ダインさんの持つ糸で枷を切れば、いつものが起こる可能性が高いでしょう」
「まったくだ。どうすりゃ良い」
疲労とは恐ろしい。極度に達すればここまで脳を鈍麻させてしまう。
鉄格子を切れば脱出できると思ったが、それもご破算だ。頭を抱えるダインとは対照的に、フーリンはあっさり言い切った。
「ダインさんが切るしかないでしょう。鉄格子」
「何故そうなる。他の手を考えるしかないだろう」
「そんな時間はありません。監視体勢は分かりませんが、見回りにでも来られたら終わりです。早くやりなさい」
「しかし……!」
「私に考え……いや、一つの憶測があります。信じる価値の低い憶測が」
台詞とは裏腹に、いくらかの確信がありそうだ。
「ダメ元だ。言ってくれ」
「ダインさんの力は威力が定まらないようでいて、強弱を決定づける条件があると私には見受けられるのです」
「なんだって」
自分の力に対して、忌避しつつ頼るばかりで本質や特徴を深く知ろうとしたことがないダインにとって、まさに思いもよらぬ話だった。
「何かを斬ると、他のものまで斬ってしまう。これは恐らく、類感呪術に似たものでしょう。例えば、雨乞いをする際に水を撒き、雨天時の地面の状況を擬似的に再現することで、実際に雨が降ることを祈るようなことです。ダインさんの場合は自分の意志に関係なく、強制的に術式を行ってしまう」
慎重に言葉を選んで大きなことを隠しているようにも感じられた。ダインは邪推を払い、フーリンの説を咀嚼してみる。
「要するにだ。何かを斬ることで力が発現したときの状況を擬似的に再現したことになって、周りが同じ状況になるように無意識に祈らされてるってわけか? それで術式が完遂されると」
「えぇ、そして……」長く言いよどむ。やはり言葉を選びすぎている。「そして、ここからは更に確度が落ちますが……この説が正しいとすれば、ダインさんが再現する状況が〝斬撃〟から離れていればいるほど、雨の威力も弱まるかも知れません」
過去を思い返してみた。ダインの村で異族の群を斬った際は、強い斬撃の意志でもって、身体に染みついた戦いの型に沿って剣を振るった。その結果として巨大な敵を屠る威力が発現した。島種のときも同様である。
二つ目の村付近で遭遇した岩石の異族を斬ったときは、相手の振るった棍棒を無造作かつ半ば無意識に受け止めたことで力が発現。全ての敵を粉砕し、数十本の木を切断するに至った。恐るべきことではあるが、ダインの村での戦闘時に比べれば遙かに規模が小さく破壊力が劣っていた。
ダインが頭を振った。
「いや、危険すぎる。シチューの具をスプーンで割っただけで、近くの通行人を斬ってしまったこともあるんだぞ……」
「とるに足らない小さなものであっても、曲がりなりにも物体の切断。何より、シチューの具の場合はそこに切断しようという意志が少なからず介在した筈。この呪いが宿主の行為だけでなく意志をも引き金とするならば、おのずと解決策が見えてくるでしょう」
「切ることを意識せず……少しずつ無心で手を動かせってか」
「糸の摩擦で鉄格子を削り切るのは、過去の事例と相当にかけ離れた行為です。どこからが力の発生条件に当てはまるのか、僅かずつ確かめる価値はあるかと。なかなかに難しそうですが、試しにどうです、一擦り」
冗談めかしながら、フーリンは唇を震わせて汗ばんでいる。無理もない。下手をすれば木っ端微塵だ。
ダインは迷いつつも、解いた糸を格子に押し当てた。あとは単純作業。しかし、手が動かないのだった。
どうなるのか、ろくな予想を持てない。力を恐れるだけ恐れ、放置し、忘れようとさえし、まともに検証をしてこなかった自分に憤った。指先の温度が低い気がする。手汗が凍りそうだ。緊張と眠気が互いを増長させ、目が重たく霞んできた。
心を無にしろと言われて、無にできる者がどれだけいるのだろう。ましてや、このような場合にだ。手が動かない。全てが終わってしまうかも知れない。メアリのときのように。
「なぁ、やっぱり――」
他の手を考えるべきだ。そう言おうとしたダインの背に、ふわりと心地よい重みがもたれかかった。首のすぐ後ろに虚ろな息づかいを感じる。
「ダインさん」壊れた肢体を風の補助で無理にうごかし、両腕をダインの腹に回した。「きっと大丈夫です。あなたも私も、こんなところで終わる器じゃない。胸に灯った光が、しきりにそう告げるんです。それに……例えここで胴と首が離れようと、死は元より覚悟のうえ。私は判定神院の女であり、あなたと共に歩むと誓った神官。死なば後顧の憂いなく、あの世でも風を振るう所存ですから」
「ありがとよ……」
緊張がほぐれたと言えば嘘になる。しかし、意識の拠り所がうまれた。糸でも鉄格子でもなく、これまでも何度か実感してきた何某かの想いの萌芽へと、雑念が吸われていく。
いくぞと言うと、うなずく首の動きが伝わってきた。まずは僅かに、右手を引く――
恐る恐る、表面の錆を落としたくらいである。身構えると、室内のいたる箇所からラップ音のような壁鳴りが散発した。壁や床が小さく抉れ爆ぜているのだ。
フーリンの腕に力が入った。
子を背負いながら枝の剪定をするような情景が想起され、どこかが一つでも違えば今頃はそんな生活もあったかという無為な夢想が、切断の意志をうやむやに薄めていく。
妄念を泳いでいると、ふと手応えが消えた。思わず我にかえる。ようやく端の一本を切り終えた。
「フーリン――」
やったぞと振り返ると、フーリンの腕は力を失ってほどけ、貧血を起こしたように倒れてしまった。後頭を強かに打つ音が牢内にひびく。
思わず大声をあげそうになったダインの唇が、上下からの風圧で閉ざされる。
「静かに……。勘づかれます」
顔が苦痛に歪んでいた。
「おい、大丈夫なのか」
抱き起こそうとすると、フーリンの周りに影が広がった。背中から流出する血液だと気付き、ダインはこれまでになく動揺した。既存の傷が開いたのかも知れない。
「まさか、切り終えたときか? 俺が……それを意識してしまったからなのか」
「恐らくそうでしょう」事もなげに言うが、明らかに衰弱が進んでいる。「何してるんです。続けて下さい」
「馬鹿を言うな。やはり意志の制御は難しすぎる。このままじゃ、お前が……」
「構いません」囁くようでいて強い口調だ。「これ以上、あなたの鎖になってはいけないんです。戦いに巻き込んだ私が、戦いの邪魔をするなどあってはならない。いざとなれば……もし今にでも敵に踏み込まれることがあったなら、そのときは――」
「もう分かった……。それ以上は言うな」フーリンに背を向け、再び糸をもつ。手の震えが情けなくて仕方がなかった。「そこまでの覚悟を示されたら、うだうだ言うのは止めだ。どのみち、このままじゃ二人とも終わりだしな」
「仰る通りです」
「ただな、一つだけ言わせてくれ。確かに最初、俺は厄介事に巻き込まれたと思っていた。戦いを終えて静かに暮らしてたってのに、どうでも良い世界のためにまた戦わそうとする、とんでもない奴らに目をつけられたもんだとな」
「……悪かったですねぇ」
「だけど、旅のなかで手痛く教えられたんだ。小屋の中で死んだように回想するだけだった過去……メアリの周囲のこと、メアリが死んだときのこと。俺の力に関しても、なに一つ分からないまま放置していた。終わったと思い込もうとしていた戦いは、肝心な部分が何も解決していないと分かっていながらな。俺はお前に出会うまで、心に引っかかったものから目を逸らして、押しつけられたクソとの無難な付き合いばかりを考えていたんだ。でも、今は違う。強引に引っ張り出されたお陰で、俺は薄汚い穴蔵から、戦いの続きに戻ることができたんだ。だからもう、俺を巻き込んだなんて言うな」
月明かりが雲に遮られた。それでも、フーリンの微妙な表情の変化を感じることができた。
「たまには男前なことを言うんですねぇ。うじうじ男は卒業ですか」
「うるせーよ、まったく」
意を決し、作業を再開する。下端を切り終えた鉄格子の、今度は上端に糸をあてがう。人が通れるようにするには、残り五本は切る必要がある。やるしかないのだ。
「覚悟はいいか。異常があればすぐに声を出すんだぞ」
フーリンが、ふっと笑う。
「えぇ。これ以上に傷跡を増やしたら、尻を蹴ってあげますよ」
「そうかい」
ダインの目は手元ではなく、外に広がる漆黒。その奥に悠然と佇むのであろうエイリーなる悪神を睨んでいた。奴はどんな面構えなのか。相対したとき、なにを語るのか。何故こんなことをするのか。目と鼻の先にせまった巨敵への思いで頭を満たし、不乱に糸を引いた。