第十九話
同時刻。
夕焼けの残滓も消え、夜となった。ダイン一行はベリアに入り、ラルタルへ向けて北上を続ける。もうじきの到着だ。
「明らかに早まりましたね、時間の流れが」
エイルーシャの浮遊の法力によって、宙にぴたりと固定されたランプが幌内を照らしている。顎に手を当てて訝しむフーリンの顔に、指の影が走っていた。
「そうだな。暗闇になるのは当分先だと思っていたが」
フーリンが眉間にふかい皺を寄せる。
「エイリーが動力の抑制を弱めたか、それとも、抑制がおろそかになるような何かがあったか。そう考えるのが妥当でしょうかね」
「神ってやつも、人間みたいに何かを思い煩ったりするのか」
「勿論です。生きていますから」
「そういうもんか」と長剣の鞘を撫でた。「俺には理解できないような、高尚でデカい悩みなんだろうな」
フーリンは答えなかった。上を向き、不思議そうな顔をしている。
そのとき、どこであろうとも軽快に疾走していたスニルとヨーストが、嘶いて脚をとめてしまった。
「どうした」
御者席のエイルーシャは、震え上がる二頭の尻から心情を読みとったようだ。振り返り、寂しげな上目遣いをする。
「私達は、ここまでみたいだね。もう少しなのに残念だよ」
「もう、そんな場所か」
事前に聞いてはいた。ラルタルには、天界でもっとも優れたスレイという名の馬がおり、他の天界馬はスレイの気配が残る場所には一定距離から近寄ることもできない。それほどに高位な存在だと。
「エイルーシャ」ずっと上の空だったフーリンが、幌から出てきて手を差し伸べた。「ここまで、本当に有り難うございました。あなたの協力がなければ、何倍の時間がかかったか分かりません」
互いの手を握り、
「他人事じゃないからね。でも最後まで連れていけなくて残念だよ。私だけが着いていっても、今はサポートすらできないから」
フーリンが首を振った。
「十分にやってくれました。全てが終わったら、最初に便りをだします。私のたった一人の友人へね」
「待ってるよ。新しい動力神様のために、座席のシートでも貼り替えながらね」
近いうちに再開すると信じている二人には、これ以上の言葉は要らないようだった。短く笑い合っているところへ割り込むのも野暮に思うが、悠長にしていられない。おずおずと手を伸ばす。
「俺からも礼を言わせてくれ。必ずまた会おう」
こちらこそ、と握手を交わしたエイルーシャの手は、幼子のように小さいが皮が分厚く、手綱を持ち続けて擦り切れていた。改めて感謝の念がこみ上げたとき、
「ダイン君。実は兄から手紙を預かってるんだ」
突然であった。
「兄妹がいたのか。……手紙?」
エイルーシャから渡された封筒を開けた。とても短く、達筆なものである。
『ダイン・フィング。まずは連絡が遅くなったことを詫びる。今回の戦いで力になれないことも。
七年前のことだが、きっと今でも苦しんでいるのだろう。
誰にいくら感謝されようが、失ったものの重さには見合わない。当然だ。
それでも、確かに大勢を救ったことを忘れないで欲しい。
落ち着いたら直に出向かせて頂く。急ぐだろうから、ここでは一言にとどめておこう。
本当に感謝していると。
最も勇敢な、二人の戦友へ
グリード・ロウゼン』
淡々とした簡素な文調、頑固さが垣間みえる筆跡から、あのぶっきらぼうな顔が浮かんでくるようだった。塞いでいた記憶の端々が明瞭さを取り戻し、胸に熱を残していく。
「グリードだと? つまり、お前は」
エイルーシャは、御者席で座面のクッションに使っていた衣類を広げた。厚ぼったく、鮮黄色のローブだった。
「隠すつもりもなかったんだけど、何となく言いづらくてさ」
「驚いたよ。そうか、あいつには……こんな妹がいたんだな」
ダインの顔が綻んだのを見て、エイルーシャは胸を撫でおろす。
「戦いが終わったら会ってあげてね。話したいことが沢山あるって言ってた。こんなことは初めてなんだ」
「俺もだ。楽しみにしていると伝えて欲しい」
「わかったよ。今度は一緒に飲みに行こう」
二人が馬車から降り、スニルとヨーストが方向転換した。双方、言うべきことは言ったとして、振り返らずに別の道をいく。すぐに再開できると信じればこそだ。
最初の頃のようにフーリンと肩を並べて歩く。後ろへ遠ざかる蹄と車輪の音。前から近づいてくる怖気。
絢爛たる星々と、大きな満月が出ていた。街道の果ての空は、乱反射した月明かりで少しばかり明るい。どこまでも左右に連なる山脈が、黒と乳白色の背景に影を浮き立たせている。
「ラルタルまで歩くとなると、どれぐらいかかるんだ。あと少しって話だったが」
「もう見えていますよ。目の前にね」
そう言われて、よくよく目を凝らすと、山脈の影の大部分に人工物らしい角張りが溶け込んでいるではないか。
徐々につまびらかになる城壁の姿。常識から外れた高さに、終わりの見えない幅。狂う遠近感。ラルタルはすぐ眼前であり、数キロ先でもあった。
「なんだ……これは。こんな国があるのかよ」
城壁に一定距離ごとに配置された側守城塔ひとつをとってみても、通常の主塔が何棟おさまるか知れない規模だ。とにかく全てが規格外である。一体、どれだけの全周を誇るというのか。
「聞きしに勝る迫力ですねぇ」
フーリンは少しも慌てずだ。
「よく冷静でいられるな。こっちは、たったの二人なんだぞ」
「だけど、ただの二人じゃないですよ」
そうでしょう、と言ってのけるフーリンの横顔は神々しい。月明かりに映える女だった。初めて見せた夜の一面は、ダインの心拍を確かに高ぶらせた
「分かってる。言ってみただけだ」
岩陰に潜んだ二人は、フーリンの望遠鏡を代わる代わる覗いては、呆れるほど大きな城門を偵察していた。山火事のような篝火が、堅く閉ざされた金属扉の質感を照らしている。両脇に何人かずつ突っ立つ衛兵が蟻にみえる。さぞ屈強なのだろうが。
うっかり頭でも出せば見つかってしまう距離に思えるも、手前に湛えられた大河のような水堀が遠さを教えてくれた。対岸に上げられているのは、巨人の国から奪ってきたような跳ね橋だ。
「おいそれと入れちゃ貰えないだろうな」
「こちらとて、まともに入ろうとは思っていませんが」
望遠鏡で肩を叩き、腹立だし気に岩陰から出ていくフーリン。「おいおい」と着いていきながら、
「エイリーって奴は、今まで刺客の一人も送ってこなかったな」
「舐められてるんですよ。来たら殺れば良いってね」
草食の巨獣に挑みかかる、興奮状態の狼。そんなものを思わせるフーリンの目は、普段の慇懃無礼な人物像からかけ離れていた。判定神院に流れつく前の、喧嘩行脚の時代の顔だろうかと想像してしまう。
「あぁ、癪に障ることだ」ダインが同調すると、興の乗ってきたフーリンが歯を剥いて笑った。「エイリー先生の鼻を折るプラン、あるなら聞かせてくれ」
「プランその一を発表します」二人の足下を強風が這いずる。「どうせ対空部隊が張ってるであろう領空までかっ飛んで、目でも覚ましてやりましょう」
その二を聞く暇もなく、空の上だった。
あれほど高かった城壁を低きに見下ろし、その向こうに展開する街並みが一望できた。壁に囲まれた大陸とでも形容できそうな国土が、諸々の生活空間で埋め尽くされている。かなりの範囲を俯瞰している筈だが、エイリーがいるであろう城塞は見えない。どの方向に向かうべきか。
二人は、水に飛び込むかのように頭から城塞へ向かっていく。矢にでもなった気分だ。目も開けていられない冷風に、頬肉や髪が暴れた。前を飛ぶフーリンの姿は、月と重なって逆光だ。はためく鏡髪の中に、もう一つの星空があった。
上空を高速飛行することへの恐怖はなかった。柔らかくも力強い庇護を感じる。風という不可視の現象に、こんなにも抱擁感や信頼を覚えるのは何故だろうか。ピリミ大海で、船尾から島種まで飛ばされた際は、失神しそうだったというのに。
何が変わったのか。そんなことを考える悠長さは、けたたましい警鐘音で引き裂かれた。どこかの独立監視塔から、早くも捕捉されてしまったらしい。
「ダインさん、お客人です」
真っ向から接近してくる、白い羽ばたきの群。人をも攫う大型の猛禽か、それに類する異獣か。どちらも否であった。
槍を携え、大声で制止を求めているのは、二対ないし三対の翼をはためかせる人型の影。その数、百は下るまい。翼が白ければ、手にした弓矢や甲冑も透明感のある純白。さながら夜空を彩る氷像である。
「神官のお出ましか」
「小洒落てますねぇ」
短いやりとりが終わる頃には、既に包囲されてた。揃いもそろってよく月光を反射するので大分明るくなった感がある。
長身の女。波打った白髪は男性のように短い。やつれ顔だが目は敵意に燃えていた。彼女が短弓を引きしぼると、周りの者達も一斉に習う。
「動力神配下、ランだ」
「これはこれは、ご丁寧に」
「ここが門に見えるか? 賊共」
「はぁ、開いていたもので」
とぼけて見せたのが開戦の合図。あらゆる方向からの猛射に晒された。矢をつがえ、弦を絞って放つまでの動作の一連があまりに早いので、あっという間に袋のような矢衾に閉じ込められた。逃げ場はない。
案の定、敵方がいくら射てども矢は届かず。フーリンの風に阻まれてことごとく空中で停止してしまう。
敵もさる者で、「お返しします」と飛ばし返した矢を、指先でつまむ手練れさえあった。
ランが距離をとり、不愉快そうに弦を弄ぶ。
「ただの賊ではないようだな。やはり判定神の手の者か」
「この顔を覚えておきなさい。次なる動力神なのですから」
「どうやら脳の動力が停滞しているな。敵ながら心配になるぞ」
「心配といえば、北のどこかに防備が貧弱な大国様があるようですねぇ。主神がお風邪でも召されたんでしょうか」
エイリーがいる以上、こちら側の動きも正体も把握されていて然るべきであるが、ランの反応や出動のタイミングからして、独立監視塔の警鐘があるまで侵入者に気付かなかったことは疑いない。
ランの屈託した表情、フーリンの言葉に対する反応を見るに、エイリーは良からぬ状態にあると見て良いだろう。
「無関係な話だな……。ここでくたばる賊風情には」
「そちらに勝ち目はありません。時間が勿体ないので、武器を下ろしなさいな」
ランがせせら笑った。
「はったりは不要だ。ここまでの多勢に無勢を――」
大気が唸り、乱気流が発生した。敵包囲網が乱れ、陣形を整え直してはまた崩れるほどの風力。無論、自然発生にあらず。
「ダインさん、この場であなたの力は相性が悪い」
「あぁ、そうだな」
敵の防具は神器であり、ダインの長剣では初撃が通らない。力さえ発現されれば相手を問わず斬れることはノルンのお墨付きなのだが。
「どのみち、この程度の相手は私のみで十分。少し休んでいて下さい」
「休むって、一体どこで」と冷や汗を垂らすダインの姿が、アッパーカットのような上昇気流で天へ消えた。何か叫んでいたような気もするが、よく聞こえなかった。
「さて、落ちてくる前に掃除を済ませましょう」
ランが歯噛みし、矢をつがえる。
「とことん舐めているな……!」
「いいえ、少しばかり本気を出しますよ」
これ以上の問答は無用だった。普通の矢では通用しないと悟った神官達は、弓矢に甚だしい光を帯びさせた。弦を引きしぼるに従って輝度が高まっていく。
エイリー配下の専売特許である、光の法力。当てられたものは、あらゆる護りを射貫かれ、虚を照らされ、欺瞞を詳らかに晒される、不可避の力。そんなものに囲まれて、むしろフーリンは夢見心地の惚け顔であった。
――ノルン様。ほんの少し、力を使わせて頂きます
院を出てから常に授かりつづけ、来るべき時のために内に秘めていた法力。不完全ながら心臓に馴染み、滞りなく血管を巡りはじめたそれの一部を発現させる。フーリンの翠の〝手〟が、うっすらと金色をも帯びた。
疼痛を伴い、脳が変化するのを感じる。もはや別の生き物のように感覚が鋭敏だ。幾多の息づかいの奥で、上空から呼びもどした望遠鏡が敵のあいだをすり抜け、自らの手に収まるまでに描いた気流の攪拌の軌跡を、実像があるかのような模様として細部まで知覚できている。
体内の充実、活性化によって毛髪が伸び、足下を越えてたなびいた。髪で全身をすっかり覆い尽くしたフーリンの姿は、敵にしてみれば思いがけず現れた鏡のオブジェである。
激甚に達していた法力の光をそのまま反射され、エイリー配下達は行動不能におちいった。ランの怒号が焦りを含む。
「お前ら何をしている! 早く法力を止めろ!」
それもまた悪手。光を消して視界を確保した敵群が見たのは、困惑する味方の姿と、闇空のみであった。鏡髪のベールに闇をうつすフーリンは夜と同化し、居場所がまったく不明だった。
すぐ横にいるかも知れない。目の前にいるかも知れない。そんな疑心暗鬼が広まりきったのを見計らい、フーリンが動く。
袋が破裂するような、ぱんという音が一つ。聴覚を損ないかねない鋭さ。
季節はずれの雪が降った。百におよぶ神官達の、粉々になった装備の欠片だった。
「なんだと……?」
降りしきる神器と死体の残骸。独りで取り残されたランは、数瞬前まで周りにいた大勢の部下が雹粒の正体であることを、受け止めきれずにいるようだ。攻撃を受けたと思しき音は、確かに一度だった筈だと。
「おや、お連れの方々はどうされたんです」
どこからともなく冷笑的な声。当てずっぽうで多方面に矢を放つが、くすくすという笑い声は止まらなかった。
「逃げ隠れするな、卑怯者が!」
発狂気味に喚き散らすと、「言われずとも」と素っ気ない返事。ランの頭上に靴が浮かび上がり、脚が現れ、血塗られた望遠鏡で肩をたたくフーリンが少しずつ姿を見せた。風で髪を切り、もとの風体に戻っていく過程である。
「貴様、今なにをした……!」
弓を持つ手が震えていた。
「はて、ぶん殴っただけですが。どこぞの三下さんには、手拍子でも聞こえましたかねぇ」
首を傾げての澄まし顔が、怯える相手すらを逆上させる。
「ふざけるな……ふざけるなよ貴様……! 我々はエイリー様の神官だ。最も強く、気高く、そして世を慮られている方をお守りするための選ばれし存在だ。ノルンだと? 下らん。偉そうに好き勝手に賞罰を下し、人間となれ合って呑気に暮らすだけの愚物にエイリー様の何が分かるというんだ。あんな神が差し向けた者など、この国には一歩も入らせん!」
息巻くランの身体が肥大し、本来の姿になった。案の定の巨体に、腕が六本。それぞれに月をも射ち崩しそうな剛弓を構えている。
「哀れな」挑発文句ではなく、心からの同情だった。「主神が傀儡に堕ちた神官など、敗れる敗れざるに関わらず救いようがない……。私が楽にしてあげましょう」
「訳の分からないことをぬかすな!」
剛弓より生成、発射された六筋の矢は、およそ個があつかう兵器の域を超えた、大規模建造物の主柱を思わせる矢尻つき円柱である。そんなものが流星もかくやという速度、なおかつ蠅のような無軌道さで飛んでくるのだった。
フーリンの姿、再び消える。圧縮空気の噴出音の後には、〝つ〟の字に曲がった極大矢がくるくると宙で回っていた。かなり遅れて、硬質なものがより強いものに打ち負かされる快音が耳に届いてきた。
「馬鹿な」愕然とするランは、フーリンの姿も見えぬまま、自らの胸部装甲が爆ぜる音を聞いた。散った破片が頬をきずつけ、痛みに顔をしかめようとしたが無理である。既に首はとび、放物線を描く最中だったからだ。
フーリンが動きを止め、姿を現す。偶然か執念か、落ちゆくランと目が合う。
「何も考えず休みなさい。終わってしまった神を崇めるより、ずっと幸せです」
雹が降り止み、望遠鏡を血ぶりする。ダインの叫び声が上から近づいてきた。
「……リン……フーリン! はやく受け止めてくれ!」
「おっと、忘れていました」
緩やかに落下速度をさげ、ふわりと迎え受けて立ち姿勢を安定させてやった。ダインの息は荒い。
「お前なぁ、飛ばすなら飛ばすって言うべきだろ。いつもそうだが、心の準備をさせるってことを知らないのか?」
「敵は片付きました。先を急ぎましょう」
「最高な性格だ」
警鐘は依然として鳴り響いている。続々と迎撃部隊がやってくるのが本来であるも、敵増援はいっこうに現れない。元より国がまともに機能していると思ってはいないが、静穏な街並みの中になにかが待っているという怖気を感じる。
しかし、それ以上に自信が横溢していた。いとも簡単に屠ったエイリー配下であるが、地力のみでは苦戦を強いられる相手だった。それでも、ノルンから授かった力を一部開放しただけで圧倒できたのだ。やはり自分は、ノルンの力に順応できる者であると確信に至った。
少し前から助力が停止している。もはや与えるべきは与えたということだろう。機は熟し、ようやく敵の喉元までせまった。