第十八話
ノルンは涙が抑えられなかった。流せば流すほど、勢いが増していく。操られ、翻弄され、奪われた男が床を転がる様がぼやける。
確かに世界に仇なす者。自らが悪神と定めた相手だというのに、去来して止まない哀しみ。本当は悪者などおらず、誰もが大いなる流れの傀儡に過ぎない。全員が〝世界そのもの〟の被害者だ。
「ノルン……お前さえいなければ!」
放った剣も拾わず、身一つで突っ込んできた。隙だらけで、攻撃ではなく自殺行為そのものだった。
もう終わらせよう。拳を強く握りしめた。己の感情に逆らい、とどめの一撃を叩き込むために。
腕を闇雲に振りまわすトュールの首に狙いをつける。
「許せ。お前達のやり方を見過ごす訳にはいかないんだ」
「殺してやる!」
手の届く範囲にトュールが入った。万感の思いを乗せ、全力の右拳を放つ。確実に命を奪う出力。天界のどんな物質よりも頑強に握り固められた拳が、無防備な頸部へブレることなく向かっていく。
相手の突進の勢いも手伝い、小さな拳打は喉仏を貫いて筋肉を押しとおり、首の後ろから飛び出す――筈であった。骨の折れる快音をたてたのは、ノルンの手首。あらぬ方向に曲がり、五指をも破壊された。
両者の間に現れた、半透明の壁。それに額から当たりにいったトュールも、予想外の負傷を被ったノルンも膝から崩れおちた。
――奴か
皮を突き破って飛び出した指の骨に舌打ちし、ノルンは思わず頭上を睨みつけた。白く濁った氷のような壁は無機質で、範囲の終わりが不明だ。
隔絶されたトュールが、懲りずに何度も体当たりを繰りかえしている。どういった種類の障壁か、単に物理的なものとは異なる感じがする。向こう側の気配が遠い。
ほとんど様子が窺えないが、暴れていたトュールの動きが止まったようだ。とても静かで不気味な時間が続いた。無音のなか、壁の向こうのどす黒い増長だけを感じる。
「思ったよりも手出しが遅いじゃないか! 〝世界そのもの〟よ!」
吠え立てた声が天井に届くまえに、黒い腕が壁を砕いて伸びてきた。それはノルンの髪を掴んで引きあげ、高く宙づりにしたのだった。離せと殴りつけても、ろくに手応えがない。
「お前の言う通りだ! ノルン!」
大音声の重低音が耳にぶち込まれた。怪我がすっかり癒え、身体がさらに二回りは大きくなったトュールは、何が吹っ切れたのか活き活きしている。血の滴るように赤一色になった相貌には、もう打倒すべき敵しか映ってはいまい。荒く繰りかえす呼吸は飢餓状態の獣の風情だ。
「俺は最初から、エイリーなんかどうでも良かったんだ。ただ、お前を……俺に生きる目標を与えた判定神ノルンを越えたかった。それだけなんだ! どうして今まで気付かなかったんだ、その程度のことに!」
腹を抱えて呵々大笑する顔に、痛々しい血涙が筋をつくっていく。
愉快だ愉快だと破顔しながら、勢いを増す血涙が頬からつたって身体を流れ、足下から床に広がっていく。
笑い声が、慟哭にしか聞こえない。
「目を覚ませ。少しは奴に抗ってみせろ!」
肘関節を下から蹴りあげると把持力が僅かに弱まり、隙をついて拘束から逃れた。抜け落ちた髪毛が床に積もっている。それを踏みしめ、もう一度「目を覚ますんだ」と怒鳴った。殺すと決めた相手だというのに、自分が滑稽でならない。
「目なら覚めている。貴様よりもずっとな。俺は軍神。個の武力でもって戦域を平定せし者。此度は判定神一派を無用な戦乱の元と見なし、討ち滅ぼす。それだけのことだ!」
対抗意識だろうか、やはり素手で立ち向かってきた。肘関節は破壊に至っておらず、腕力すこぶる健在の様子だ。元のトュールとは次元を異にする存在と言える。やはり、どうあってもノルンを勝たせれば都合が悪いのだろう。
異獣の咆哮。決して目では追えない拳の嵐。一発たりとも避けきることは叶わず、直撃を免れても細かな裂傷が増えていった。為す術もなく追いやられていく。
力任せな乱打とは違う。見てくれとは裏腹な、針穴に糸を投げいれる細緻さ。それが圧力を伴ってひたすら前進してくる。
たまらず、壊れた右手も捌きにまわすと、トュールの膨大な手数はそこに集約されるのだ。反応せざるを得ない急所への攻撃で虚実おり混ぜながら、結局は右手を的にしてくる。元より曲がりくねっていた右手首は、飛び出ていた骨も失われて肉だけになり、筋皮だけでぶら下がり、ついには千切れ飛んだ。
利き手を失ったことにノルンが気を取られた時間は、刹那にも満たない。その小さな針穴に、致命の闇が差した。
左側頭部への蹴撃。黒き大木のような脛が、ノルンの頭に絶望的な波動を与えた。脳幹が外れたような、首が粉砕されたような不吉な音を聞いたあとは景色が消え、意識が混濁する。
――所詮、奴には逆らえないのか? 数ある世界の一つで、地を這うだけの小さな神には
だとすれば、どうなるだろう。ともすれば死後の幻視かという空間で、ノルンは薄ぼんやりと考えた。自分が倒れた後のことを。
宣言通りに神官は根絶やしにされるだろう。院に住まう人間達も同様に、一味として皆殺しにされかねない。子供達の顔が浮かぶ。腕にしがみつく体重、泥で汚れた衣服。黙々と仕事に精を出す男女。ネメロス、エレーナ、天界を捨てて着いてきてくれた神官達。
そしてラルタルに帰ったトュールは、エイリーと共にあの二人を迎え撃つ。最後の頼みである希望の剣を――
――フーリン……!
意志の昂ぶりのみがあり、動き自体は無意識だった。未だ側頭部を圧していた蹴り足を抱えこみ、満身の筋力を動員。質量にして自分の十倍はあるだろうトュールの身体を、膂力にものを言わせて背負い投げた。
関節を極めながら受け身も取らせず、確実に脚を破壊した感触はあった。それでもトュールは余裕の高笑いで立ち上がったのだ。綻び歪んだ目顔は、もう二度と正気には戻れない恐怖を訴えているようにも見える。
「すまないな。私としたことが、居着いて力んでしまった。……もう、情などかけないよ。かけてはいけないんだ」
鳴き声とすら言いがたい音を、唾液と共に吐きながら殴りかかってきた。
本気を出すようなことを言ったが、とうの昔からノルンには余力が残されてはいない。
天命尽きる間近の肉体は壊れたら二度と治りはせず、だからとて戦士としての心が衰える道理なし。技で、経験則で、この空間も最大に利用して奴の意志を越えてやる。お優しい〝ノルン様〟は、もう蹴られて死んだ。
「ノルウウゥン……殺してヤルゥアアアアアア」
発狂から、またもや精妙なる突きの連発。正面から受けてはひとたまりもない、神の域さえも越えてしまったと思われる猛攻。
威力は凄まじくとも、所詮は手足が二本ずつ。人間の鋳型となった見飽きた肢体の動きは、弱点は、刷り込まれている。神官として修行中の時分、強さだけを求めていた愚直な時代、高位の存在を目指して戦いに明け暮れていた少女の記憶に。
「私も……戦うだけの馬鹿でありたかったものだ!」
体勢を低く沈めた。歴然たる体格差を逆手にとり、相手の視界から消える。トュールが突きを出すべく体重をかけて踏み込んだ前足を、床に着く直前に蹴り払った。
完璧なタイミングの足払いにより、トュールは宙で半回転してしまう。そのまま背中から落ちていくのを追いかけるように、踵の一点で顔面を踏みつけた。
鼻の潰れる感触。少しも怯まないトュールが、顔に乗った足をつかみながら飛び起きた。宙づりにしたノルンを無軌道に振りまわしては、仕返しのように何度も床に叩きつける。そして壁に向かって容赦なく投げる動作の後、逆にトュールが真っ逆さまになった。
放り出されようとした直前、腕に脚を絡ませていた。トュールは、手から離れると想定していたものが動作の終わりまで組み付いていたことで大きく体勢を崩し、投擲力を利用された形だ。馬鹿げた遠心力とノルンの脚力、そして空中での体重移動によるカウンターの投げ。
落ちた先には、軽く百人は同時に使用できそうな翠の長机。何もなかった筈の床にいつの間にか現れていた。トュールはその角に脳天から突き刺さり、頭がかち割れる。天板に散った血液はすぐに吸収されて跡も残らない。流石に効いたようで、のたうちながら離れていく。
判定の間は、親交ある神々との会合の場でもある。そのための長机は磨かれた石とも金属光沢ともつかない陶器の艶やかさで、脆さを感じさせながらも衝撃に対しびくともしない。
巨大さ故、そして数多の神々と共に永らく愛用したことで、神器の中でも随一の凶悪さを誇る。もっとも、武器として使う日が来るとは思っても見なかったが。ノルンはけたたましい怪気炎を発して長机を持ち上げた。左手と、欠損した右手の代わりに歯で齧りついての支持だ。腰を入れ、腕と首の筋力でスイング。
流血で目を塞がれていたトュールには状況が見えておらず、側面が脇腹に直撃。すさまじい自重が仇となり、ろくに吹っ飛ばないのでまともにめり込む。面白いように机の形に凹んだ体内から、内臓の破裂する手応えを得た。
引き、すぐに二発目。腰骨をも凹ませる。膝をついてくれたので、一気に叩き潰すべく、とんでもない得物を頭上に振りあげた。
がら空きになった胴。あからさまな隙にトュールが突っ込んできた。致命傷をまるで自覚しておらず、やや鈍重だ。普段であればこんな誘いには乗らなかっただろう。ノルンは得物から片手を離し、咬合のみで支えてみせる。そして掌中にあった何かを指で弾きとばす。
見事に両目を射止めたのは、トュールをたこ殴りにしたときの鎧体の破片。恨みがましい悲鳴をあげて行動不能に陥ったところに、長机! 絶大な一撃で建屋全体が揺れに揺れた。
天板の下敷きになった怪物からは動きを感じない。この程度で命を絶てていないことは分かっている。乱れた呼吸に改めて衰えを実感しながら、とどめを差してやるべく大物を退けた。格下の身体との接触では傷一つできない筈の神器が、亀裂を広げて崩壊した。
総身もれなく全潰していたトュールは、ぎょっとする早さで立ち上がった。戦闘の構えをとりはするものの、鞭打たれ糸で操られた抜け殻にすぎないと一目でわかる。原型など留めていない、挽肉が殺意を持っているだけの異形なのだ。
「トュール……」
胸奥にしまっていた情と、最後まで油断をしない習慣が重なった。こうなっても半端な攻撃では足下を掬われると察する。なにせ後ろ盾が奴だ。
しかし、もう立っているのがやっとだ。断腸の決断。フーリンへの力の供給を断絶した。その分を左肩から先に充填していく。
「……」
なくなった口が動いた。何故だか言っていることが分かってしまう。胸の中に、直に届いてくる。心を追い込むように。
「言われなくても殺してやる」
左腕だけが別人のように肥大する。筋力の発達というより、幼女の身体に成人女性の腕が生えた具合になった。局所的、一時的な本来の姿への回帰。全身がそこに見合うのなら、今のトュールを超える体格だ。
非常に不均等ななりを引きずり、見えなくなってきた目で標的を捉えた。もう半歩で決着の間合い。
「どうせ、すぐに再会する。そうしたら……昔の話でもしよう」
トュールが何かを言い、ノルンが拳を放った。手中に命を込めて。
胸の中心を突かんとした拳は、再び出現した壁に阻まれる。
――これ以上、こいつを思い通りにさせるか
大いなる意志を、力尽くで打ち砕く。壁は手応えもなく木っ端微塵となり、トュールは上半身を霧散させた。
腕の勢いに耐えきれず、肩甲骨からが千切れて飛んでいく。不思議と痛みがない。
ふと気配を感じて後ろを振りむく。心臓が熱くなった。
空間に亀裂が走り、ガラスのように割れた。大気の質が変わる。夕日。柔い芝生。秋花、土の香り。いつもの庭に両膝をついて、苦しい人心地をついた。
「さて、一矢報いたか……」
もう疲れ果ててしまった。嘆息するノルンの背面から心臓にかけて、深紅の刃が貫通していた。胸から長々と生えた剣身。
先ほど、ここに戻る直前。振り向いた先には、気泡の寄せ集めのような人形があった。丸めて捨てたトュールの分体群が結合し、人の体をなして投擲した刃。折れて転がっていた剣身だ。対処するべくもなかった。
出血も止まる。心結晶の硬化を感じ始めた。
近づいてくる数百の足音。神官達だけだ。院の人間に見せればショック死しかねない光景だと慮ったのだろう。
「ノルン様!」
真っ先に駆けてきたのは、やはりネメロスだった。変わり果てたノルンの姿をみて、死人のように血色を失っている。そのまま胸に飛び込んでくる勢いだったか、どうして良いか分からなくなり、青ざめて狼狽した。
「やぁ、酷くやられてしまったよ。もう歳だな」
「い、今すぐに分体への転移を……!」
神々を初めとして、法力を持つ者の上位の上澄みに限っては、存在の主体、つまりは命を分体へ移すことができる。
「すまないな。私にはもう、そんな力も時間も残されてはいない」
「そんな、嫌です。ノルン様ならどうにかできる筈です!」
ネメロスにも分かっていた。移転するための分体は、現状の半分以上の魂でもって投影したものに限られ、なおかつ幾日もの時を要することを。
ましてや命の尽きかけたノルンでは、魂を分けた時点ですぐに死にいたる。
「君には、いつだってそんな顔ばかりさせているな」
途切れがちな目線の交差。続けかけた言葉が、血の池に沈んでしまう。
エレーナを先頭に、他の者も大挙してやってきた。命令とはいえ、神官の身でありながら主神のみを戦わせ、挙げ句が瀕死の再会。二人を囲む彼女たちは、情けなさと悔恨のあまり、歯を食いしばって感情を殺していた。こうなった原因は己の無力さゆえ、おめおめと泣く資格などないとの考えだろう。皆一様に頬が震えている。
全員が懐からナイフを取りだし、自らの心臓に切っ先をむけた。それを見たネメロスは、神官長としての恥ずべき失態を省みる。ゆっくりと目を閉じ、開いたときには冷徹な戦士の顔であった。そして、同様にナイフを取り出す。
「ノルン様。天界から人間界までお供してきた我々一同。これからも行き先は同じであります。あちらでは、必ずや……もっとお役に立って見せます」
今にも集団自決という緊迫のなか、ノルンの乾いた笑い声。
「なんだろうなぁ。私がそんなこと許さないって分かった上でやるんだもんな。うちにそんな過激な掟はないってば」
喋っていられるのが不思議な状態にも関わらず、その呑気な声を聞いた者達には、意外と平気なのかと楽観してしまうような錯覚が湧きかける。
「お許しになられなくとも、我々の意志は変わりません。こればかりは」
「こればかりはって……。いつものことだろう。君は特に感情的になると話を聞かないんだから」
「……そんなことはありません」
「八つ当たりだってする。あれがまた、迫力が凄いんだ」
手首のない右手を挙げて、怒れるネメロスの顔真似をする。目に見えて痩せていくのを誤魔化すように。
「貴女という方は……こんな時にまで」
「今だけは、聞いてくれないか。これが最後だから」
最後と聞いて、奈落の底まで落ちたような顔をするネメロスに続けた。
「次なる判定神、ネメロス・ソルーテ」誰も驚きはしない。木枯らしが落ち葉を騒がせた。「私の死後……この心結晶の宿り先は、君と決めてある」
「私などに、いえ、他の誰にもノルン様の代わりは務まりません」
「代わりなんて要らない。口が悪くて乱暴なくせに甘えん坊で、やかましくて誠実な君が皆と一緒に居るだけで良い。これまで通りで良いんだ」
「そんな私でいられたのも、ノルン様の寛容さがあってのことです。とても大きな拠り所に、すっかり身を預けていたのです」
平静らしく持ち直した面構えに、涙だけが流れていた。
「泣くこともない。綺麗なことばかり言いながら、結局は判定神としての苦悩や責務を押しつけて、身勝手に逝くだけの話。何もかもを君に委ねておいて、格好つけて消えようって腹だ。涙で見送れたもんじゃないだろ」
ノルンが穏やかに笑いかけると、ネメロスも微かに相好を崩してみせた。
「身勝手だなんて、今更なにを仰るんです。住人の喧嘩の仲裁や、神官の兵法指南。ノルン様が悪酔いしたときのお世話に、部屋の片付けだって、いつも私にばかりやらせていたじゃありませんか。それこそ、これまで通りですよ」
「これは、始めて一本とられたな」手があれば頭を掻いていただろう顔で「どうか……宜しく頼む」
「お任せ下さい。一切の心配はご無用です」
力強い言葉を聞けば、もはや後顧の憂いなし。死にゆく者とは思えない晴れやかな面持ちで、神官達一人一人の顔をじっくりと見納めた。
「神らしくない私を、こんなにも慕ってくれて感謝する。どうせまた会えることだし、もの悲しい別れは言わないよ。ただ、子供達には、知人に招かれたとでも……」
今まで話していたのが嘘のように、すっと目を閉じた。とうとう眠気を堪えきれなくなったとばかりに。
静かな最期であった。看取る神官たちの声なき慟哭が、いつまでも庭園を漂いつづけた。
やり場のない怨嗟に燃える顔も、一つや二つではない。