第十五話
三人は同じテーブルで向かい合う。ここまで平静を取り戻すのには時間が掛かったが、今は互いに聞きたいことだらけなのだ。しかし、核心に踏み込むのを恐れて遠巻きにするような空気もあった。
いやぁ、とメイトが感嘆する。
「まさか、破壊神殺しのダインさんだとは夢にも思わず。お会いできて光栄です」
「まずは改めて詫びさせてくれ。さっきは申し訳なかった」
「いえいえ、ヘンリーであれば明日には陽気に酔っ払って忘れてますよ。昔からそういった男です」
「どんな関係なんだ?」
「言ってしまえば、浮浪者仲間ですよ。詳しい過去は知りませんが、私が最も苦しいときに助けてくれた唯一の人間でして……。口が悪く怒りっぽいですが、実に良い友なのです。ところで、そちらのお嬢さんは?」
「フーリンと申します。ダインの……姉です」
言うに事欠いて姉かと呆れたが、今はどうでもい。酔い覚ましの水を呷る。
「まず聞かせてくれ。あんたはメアリとどういう間柄だ」
先ほどの無礼は詫びたが、メアリがこの国でどんな目に遭ったかを知っている以上、ぶっきらぼうにもなる。場合によっては――
「私はメアリの父親です。そうはいっても実の親ではなく、その昔、私がまだ現役の釘職人だった頃、当時八歳だったあの子を友人から預かったのです。少しの間だけ面倒を見てやってくれと。何故よりによって貧しい私にと断ったのですが、その悪友は大金とメアリを置いて消えてしまいました。今は亡き妻と二人、最初は困惑しましたよ」
「育ての親。……そうだったのか。あんたが」
地獄のなか、メアリを庇い続けた最たる者ということだ。そんな人間が目の前にいることが、夢か現か疑われるほどだった。偶然にしては出来すぎている。何某かの意志の介入をさえ感じさせる。
あまり見えていないだろう左目を潤ませているのは、当時の記憶だろうか。
「あの子は世間を知らず、人を疑わなかった。どんな人生を送ってきたのかと恐くなるぐらい、晴れ空のような心を持っていました。何もかもが透き通っていて……。子宝に恵まれなかった私達でなくても、メアリを本当の娘として心から愛するのに時間はかかりませんでした」
感情を堪えきれず、言葉が詰まった。代わりにダインが続きを言う。
「あんな力さえ持っていなければ、誰よりも幸せに暮らせる筈だった。その資格がある……そうでなくてはいけない人間だった」
メイトは萎びた左手で顔を覆う。熱い涙が、細枝に似る五指の隙間をつたう。
「事の顛末をご存じなのですね、この国の過ちを。ならば恨んでおいででしょう。あの子を護るどころか、護られるばかりで……挙げ句には孤独な旅に出した私を」
護られるだけ護られて、孤独な旅に出した。
言葉の針が胸を刺す。
「あんたを恨める人間なんか、この世のどこにもいない」
いくら気を張っても声が震えてしまった。
「誰がそう言おうと、私は自分を恨み続けました。ほどなくして妻は精神を病んで自ら命を絶ち、私は死罪こそ免れましたが、国賊を育てたとして十三年間の獄中生活を送ることになったのです」
「十三年か……」
メイトがおもむろに髪を搔き分けた。隠れていた右目は空洞であり、剥き出しの眼窩にたまった埃が燭光に照らし出される。続いて胸の前にあったボロ布の結び目をほどくと、左腕が肩から切り取られているのが分かった。確か、杖をつきながら引きずっていたのも左足だった。
明らかな人為的、悪意的な仕打ち。長きにわたって右半身にのみ頼る生活を強制されてきた人間の、平衡を失った肉体。ただでさえ死の手前と思われる痩躯は、骨や筋肉の比率、臓腑までが極端に右に偏って膨れていた。左半身だけが餓死した子供のようで、もはや機能は失われている。
かような刑罰があろうとは。フーリンが息を呑み、テーブルの下でダインの裾を握りしめた。
メイトが涙を拭う。最期の力を振り絞るかのように、苦しげな饒舌となる。
「劣悪な環境下で虐げられ、『いつまでも生きてやがる。流石はアレの親だ』と言われ続け、自分でも何故死なないのかと不思議で、妙な笑いさえこみ上げるくらいでした。ひと思いに殺してくれれば良いものを、生への執着が砂粒ほどになった頃合いに牢から放り出されました。
国賊の証とされる非対称な身体を晒し、どこへ行っても針のむしろ。誰も相手になどしてくれません。そんな浮浪の身になりながらも、私にあったのは自分の非力さを恨む心だけでした。あの子は、メアリはどうしているかと。探しに行きたくても無理な話です。だから私は、あの子がいつか、ひょっこりと顔を出すんじゃないか……そんな、あり得ない望みだけを抱いて生き延びてきたのです」
返せる言葉など何もない。からからに乾いていた喉に水を流しこみ、話の続きを待つだけだった。メイトが残った左目を閉じた。そうすると眠っているのか死んでしまったのかが判別がつかない。
話は滔々と続く。
「そんな、ある日です。ヘンリーに話していたのが聞こえていたかも知れませんが、私がいつも通り、路傍で影に紛れていた時のことです。中性的で端正な顔立ちをした、一人の少年……変わった格好をしていました。見たこともない、鮮やかな稲妻のような黄色いローブを纏った小柄な少年です。なにか恵みにきたのか、自身より何周りも大きな荷物を背負った彼は私に問うたのです。『メアリという女の親族を知らないか』と」
――黄色いローブ?
よく知っている。よほど質問を挟もうかと思ったが、今はこらえた。
「私は……怪しむ気持ちもありましたが、その何倍も大きな希望を感じました。『もっと早く来るべきだったが、癒えぬ傷を受けて眠っていた』と心底から残念がる彼は、メアリの親族に一言伝えるためだけにハーノイルを訪れたとのことでした。国外追放後のあの子を知る人が現れた。何か手がかりが掴めるかも知れない。私は長い坑道を抜けたような心持ちで、メアリの育ての父であると申し出たのです」
フーリンも汗ばみながら聞き入っている。
「それで、彼は何と……?」
「曰く『メアリの協力がなければ我々は壊滅し、破壊神による被害がどこまで拡大したか分からない。だから、せめてもの礼をしにきた』と。短い言葉でしたが、あの驚きは簡単には言葉に出来ません。メアリは文字通り一国を揺るがす力を持ってはいましたが、まさか破壊神を討つ一助になっていたとは。私は動揺と感動に翻弄されながらも、荷物を置いて去って行こうとする彼に縋りつきました。これだけは聞かなくてならない。あの子はどこかで元気にやっているのか、だとすれば、どんな素敵な女性に成長したのかと。
彼は少し考えた後、『俺から答えれば、奴の責務を勝手に奪うことになる』とだけ意味深に言い残し、神秘的な眩い光とともに消えてしまったのです。残された背嚢のなかには、金品や食料、衣類などがこれでもかと詰められていて。……世にも不思議な少年でした」
「〝奴〟の責務……か」
言動や風貌からしてグリードに違いない。癒えぬ傷とはアルス戦で受けたものだろう。礼を失して説教をされた時分が懐かしく思えた。
「ダインさんには、彼の言葉の真意がお分かりなのですね」
「あぁ、分かる。あんたが知りたがっていることを、俺は全て知っている」
メイトの顔が安堵し、強張るのを繰り返した。捨てきれない僅かな希望、長年にわたる思いが少しは報われても良いはずだという、神への懇願が痛いほど伝わる。伝われば伝わるほど、ダインの責務は重みを増す。
「ならば……ありのままを聞かせて下さい。メアリは、生きているのですか」
フーリンが制止するのを払いのけ、覚悟を決めることを自らに許さず断言する。
「死んだ。破壊神もろとも、俺が斬り殺したんだ」
メイトは首から上を痙攣させ、死にもの狂いで笑顔を作ろうとしていた。乾燥し果てた肌がひび割れていく。
「悪い冗談だ……ダインさん」
「本当のことだ」
「言ったはずです。ありのままを聞かせてくれと」
「あんたの娘は俺が殺した。俺が剣を振るったことで、細切れになって死んだんだ。欠片の偽りもない」
「ふざけるな……」憑かれたように形相が変わってしまった。割れた仮面の内に潜んでいた常闇が剥き出しになる。細り朽ちた歯を食いしばり、渾身の腕力を乗せた杖で床を突き鳴らす。「愚弄するにも限度がある。目的を言え!」
子鹿のように立ち上がってはダインに迫り、必死に、しかし無力に杖を振りおろした。 頭や肩を打ち据える音が空疎に響く。ダインは一切の抵抗をせず、両腕を垂れて下を向くばかりだ。かつ、かつ、と連なる打撃音はすぐに間隔が大きくなり、途絶え、死にゆくような息切れに変わった。
あざの一つもできないダインが、おもむろにカウンターの奥へ向かっていった。未だに呆けている店主の傍に屈み、取り出したのは弩だ。矢を再装填し、それをメイトの足下へ投げてよこす。
「何のつもり……だ……」
肺を押さえてうずくまるメイトが、恨めしげに杖を投げつけた。見当違いな方へ飛び、机の脚で跳ねかえる。
「使ってくれ」ダインは両膝を着き、腕を広げた。「俺がやったこと……あんたが失った希望の大きさ……。言葉では謝罪のしようがない。俺には、他に贖う術が分からないんだ」
「良い度胸だ」
メイトが弩に手を伸ばすとき、ダインの眼光はフーリンを射すくめていた。只者ではないことを改めて思い知らせる抜剣速度にて、自らの頸動脈部に刃筋を添えていたのだ。風により手が振れれば血管は裂かれ、ただちに惨劇が起こるだろう。
「フーリン、すまない」
「二人とも待って下さい!」
フーリンが慌てふためくが無駄だ。割って入ろうとしても眼で制されてしまう。
音を立てて震える弩が、ダインへ矢尻を向けた。今にも引き金が引かれそうだ。
「聞かせろ。どうしてメアリを殺した」
詳しい説明などしようがない。言葉足らずに答えるだけだった。
「アルスへの最後の一撃に巻き込んでしまった」
「ふざけるなぁ!」抱えきれない怒りに、紅潮していた顔はかえって血の気が引いて青みがかってきた。炎の温度が上がるように。「適当なことを言うのも大概にしろ……。あの子が剣で斬られたぐらいで死ぬ筈がない。お前も十分に分かっているだろう。そこまで潔く命を捨てながら、なぜ嘘をつく」
「あの時、メアリの心結晶は無色透明になっていた。前日の朝から戦い通しで、もう余力がなかったんだ」
「嘘だ」
「何度でも言う。俺が剣を振り、そのせいでメアリは死んだ。他に断言できることはないんだ」
「そうか……もういい」ゆっくりと頭を振り、ダインの首に狙いを定める。引き金が軋んだ。「言い訳の一つでも遺すか」
「その資格はない」
ならば死ねと、矢が放たれた――風切り音。
極みじかい穿孔の響き。ダインの流血が布鎧を汚す。フーリンが小さく悲鳴をあげた。
矢は壁に突き刺さり、細かな木屑を吹かせていた。
頸部を掠めた熱さにも反応せず、ダインは死後の面相で言葉を漏らす。
「直前まで狙いは正確だった。明らかに本気の殺意があった筈だ」
膝から崩れ落ちたメイトが、床に弩を置いた。
「ええ、本気でしたとも」恐らくは人生最後となる激情の発散を終え、歪んだ痩躯がより小さく見える。反面、萎んでいた心には張りが戻ったのか、面持ちに清々しさがある。「本気と言えば、さっきのダインさんだ」
吹き出してしまい、喉奥で嗄れた笑い声をあげる。
「なにが面白い」
「ヘンリーがメアリの名を口にしたときの、ダインさんですよ。あの必死な顔ときたら、私達は取って食われるかと思いました」
「……そんなにか」
そんなにです、としばらく一人で笑っていた。〝感染〟したかとすら疑われたが、時間をかけて立ち上がり、半歩半歩と寄ってくる表情は穏やかだ。
「でもね、メアリと聞いただけで、あそこまで取り乱すような人が……あの子を殺そうとする訳がない。そうでしょう」
「……」
ダインの肩に小さな手が乗った。肉感のない軽さだった。
「どうしようもない、何かがあったのですね」
「……あぁ」
手の震えが伝わってくる。メイトは眩しげに目を細め、長く深い嘆息をした。
「だというのに、弁解の一つもなされない。こんな、ろくに動けもせぬ死に損ないなど、無難なことを言って安心させておけば良いものを……。この先、どうあっても生きる喜びなど見いだせず、自己暗示めいた脆い希望だけを抱えて死んでいく老いぼれに、せめて娘の敵討ちをしたと思わせるために命を懸けるなんて」
「あいつを無残に死なせたのは事実だ。いくら足掻いても守れなかった」
「まだ言うとは、まったく呆れた人だ」皺だらけの顔に、一粒、また一粒と涙がつたった。「私には見える。常識では想像もつかない状況で、決死の剣を振るうあなたの姿が」
メイトの泣き顔がぼやけ、言葉に詰まった。
「どんな形であっても、やはり生きていて欲しかった。だけど、メアリの最期に寄り添ってくれたのが、忘れずにいてくれたのが、あなたのような人だと知れて良かった。偽りの希望より、どれほど幸せな事か分かりません。……心から礼を言わせて下さい」
寝ていても、歩いていても、いくら泣いても、時が経っても、紛れることのなかった疼痛。分かちがたい半身となった懊悩が、初めてほんの少し和らいだ気がした。
もはや互いに嗚咽を堪えきれなかった。同じ苦しみを共有できる存在は、他にいないのだ。
「礼なんか言わないでくれ。俺は――」
ノブも飛ぼうかという勢いでドアが開かれた。エイルーシャだ。
「ちょっとぉ! 起こしてって言ったよね? 気配を辿ってきてみれば、なんで二人して酒なんか飲みに来てるわけぇ?」
すぐにフーリンが飛んでいき、宥めながら連れ出してくれた。
「お仲間ですか」
店外へ出る体力も残っていないのだろう。腰を気遣い、どうにか杖を拾ったメイトが名残惜しそうに眉をひそめた。
「そうだ。もう行かないといけない」
「やはり貴方には、やるべきことがあるんですね。昔も今も」
力強く首肯してみせた。
「必ずまた会いにくる。その時には流行病も収まっていると約束しよう」
メイトは不可解そうに目を丸くしたが、すぐに柔和な面持ちになった。
「お待ちしています。それまでは生きねばなりませんね」
「互いにな」
この約束を守れる率は如何ほどだろうか。別れ難さを断ち切るように向けた背中を、涙声が後押しした。
「きっと困難に過ぎる道なのでしょう。だけど、誰が何を言おうとダインさんは恩人で、英雄だ。貴方は誰よりも強い……! 絶対に戻ってくると私は信じていますよ」
「任せておけ。……次はあんたを連れていく。メアリが眠る場所にな」
「なんと有り難い……」
しばしの別れだと言い残し、振り返らずに馬車へ向かった。
恩人で、英雄。賞賛が棘となり、肉に刺さって抜けない。
僅かでも躊躇えば、いつまでもメイトの傍にいそうな自分がいた。引力に逆らって強引に足を進める。何より、悠長にしているが時間に猶予はないのだ。
予期せぬ遭遇で気が昂ぶっていればこそ、努めて冷淡な部分を取り戻す必要がある。命を落とさぬためにだ。
「待たせたな」
エイルーシャはむくれていた。散々言い合ったのだろう。
フーリンはといえば、いつになく鋭い目でダインを睨みつけていた。
「ダインさん、話があります」
いっぺんに空気が変わった。気温が下がったような感がある。言わんとすることは分かっていたが、一応の弁解を試みた。
「フーリン……その……」
「エイルーシャ。悪いんですが、馬車の影で目と耳を塞いでいてください」
「へぇ? どうして」
「すぐ終わりますから」
有無を言わせぬ迫力に察するものがあったのか、そそくさと言う通りにするエイルーシャ。
「ダインさん」
非常に分かり易い、怒りの合図。額に浮かんだ青筋。
「お、俺が悪かった。勝手に命を投げ出すような真似をして。だけど……」
「あの場で許しを得ずして、前に進むことはできなかったと」
台詞を先回りするフーリンの右拳まわりに、風が集まっていくのが分かる。
「そうだ。俺は――」
「目を瞑り、歯を食いしばり、左頬を差し出しなさい」
「……わかった」
大人しく従った。いつくるか、頬骨でも陥没するだろうかと顔筋を硬くした直後、鳩尾を突き抜けるパンチ。拳より二回り以上は大きい鉄球の感触だ。いっさい準備をしていない部位への不意打ちにより肺の空気が口から溢れ、情けない声が出た。
加減はしたに違いないが、風力による膂力強化の一撃は想像を絶した。地面に突っ伏し、きりなく垂れてしまう唾液が黒く広がる。姿勢を変えることができない。
「本当に自分の行いを、立場を分かっていますか。あの矢が逸れなければ、どうなっていたか。個人の問題にはとどまらないのです」
フーリンの声は冷たいが、荒ぶる感情を排斥するのに苦労していることが伝わる。それがまたダインの自責をくすぐった。
「……」
「ダインさんの過去を考えれば、この世界にさしたる価値を見いだせなくても無理はありません。でも、あなたは話に乗り、協力者となったのです。ここまで来て全てを放擲するなど、たとえ神が許しても私は殴る」
反論などあろう筈もなく。回復も待ってはもらえず客席に投げ込まれたダイン。
「スニル、ヨーストォ! 出発だ! いざラルタルへ!」
車輪の振動と腹痛が同期する。まともに座れもせず幌に寄りかかった。隣のフーリンはいくら謝っても答えてくれず、あさってを向いたままだった。
「フーリン」
「黙ってなさい。考えの邪魔です」
旅立って以降、これより辛いことがあっただろうか。
――腹立たしいですねぇ
滲んでくる涙を誤魔化すためでもないが、ダインが話しかけてくるのも無視して考えに集中していた。
ハーノイルでの出来事の一連。外野の作為を感じずにいられるものか。
どこからだ、と眉間に皺を寄せる。エイルーシャがハーノイルを休息地に選んだ時点だろうか。そうでなければ、自分がダインと街を巡りたいと思った時点か。
不自然の極みだ。確かに動力未停滞者も少しはいたが、これまでの傾向に違わず若者ばかり。他はほとんどが重度の停滞者という状況で、高齢でかつ魂も弱いだろうメイトが無事だったこと。それのみならず、偶さか見かけた店でメイトに出会ったこと。よりによって、ダインならば確実に命をもって償おうとする人間にだ。
なんと不気味な運命だろう。死者の魂が導いたなどと、戯れた観測に浸る質でもない。悪しき事態が起こりそうだと、先刻の居酒屋で同席しながらフーリンは警戒を怠っていないつもりだった。案の定、ダインの馬鹿正直な告白によるメイトの激昂。そして、猛る相手にわざわざ弩を手渡して窮地に陥る体たらく。
あの愚かな行動に虚を突かれたとはいえ、あそこまで対処を封じられるなど、平素であればあり得ないと断言できる。
メイトが弩を拾い、ダインがこちらの動きを牽制するまでの間。頭に靄がかかったという表現でも足りない、頭を乗っ取られていたとさえ思えるような意識の間隙があった。動力停滞の影響か、自覚している以上にダインの気迫や、メイトの話に動揺していたのか。もはや検証する術を持たない。
最も甚だしきは、矢を放つ前のメイトの様子だ。如何な素人でも分かる程度には、本気でダインを射殺すつもりの殺意に満ちていた。決してあのような美談に転じる感情ではなかった。メアリの名を聞いただけで取り乱す人があの子を殺す筈がない云々、ごもっともであるが、どのタイミングを切り取ってみてもそこまで正常な思考に至っていたと思えない。
しかしながら、引き金を引く直前の表情の軟化、急速に過ぎる心変わり。元から矢を当てるつもりはなかったように振る舞っていたが、そうであれば首筋に掠らせる必要がない。ほんの僅かな怨嗟の顕れだったとして、皮一枚を狙う精妙な狙撃技術がメイトにあったとは考えにくい。やはり何某かの操作が介入したとするのが妥当だ。
これらの違和感だらけの展開の推移。少なくとも二方向の意志が元凶になっていると考えられる。
抗いがたい運命の流れが、ダインを排除しようとした。〝世界そのもの〟の意志がダインを脅威と認めたのだろう。そう考えれば、島種の変異種もどきに遭遇したことも、その意志の一環だった可能性が出てくる。
そして、どちらの場面でも何者かに救われ、流れが変わった。ピリミ大海で水中から掬い上げてくれた者。メイトの心情を操った――と推察され得る力を持つ――誰か。得体が知れないが、〝世界そのもの〟に逆らう勢力なのは確かだ。少なくとも敵を同じくしていると見て良い。ダインに、フーリンに死なれては困るのだ。
判定神院からの助けであれば正体を隠す理由がない。人間の心を操るといった能力もノルンのものとは異なる。
――目星がつかなくはないですが……
胡乱さに嫌気が差し、もう寝てしまおうと思った。
ささくれ立った心を癒やしてくれる、唯一のもの。ノルンからの光が随分と弱まっていた。それは供給の終わりが近いことを意味している。
悟られぬよう努めているが、力への適応に伴う拒絶反応は厳しくなるばかりだ。