第十四話
並んで歩いていると、旅を始めたばかりの頃が昨日のことのように感じられ、実は今朝のことだと考えると騙されている気分だった。
路地はよりいっそう閑散としている。たまに人間の遠吠えが聞こえた。中心部は今も同じ状況だろうか。確かめに行こうとは思わない。
やはり見るものはなく、フーリンも伏し目がちに物憂げな顔をするだけだった。時折、辛くて仕方がないといった顔も覗かせるが、決して帰ろうとは言わない。まるでハーノイルの雰囲気を浴びることで自分を罰しているかのようだ。
「どうして歩きたいと思った。こんな縁もゆかりもない土地を」
「なんとなくですよ」
「そうかい」
水路と橋が特に多い一帯にぶつかった。もうドブの臭さにも鼻が慣れていた。何組かの親子連れが楽しそうに水浴びならぬドブ浴びに興じている。皆揃って皮膚が赤いのは、日焼けなのか、ただれているのか。
探してみると、まともな者も少しはいるようだ。数十人に一人くらいだろうか。互いに妙な警戒があって言葉は交わさないが、重度の動力停滞者を見過ぎたため、ちょっとした挙動で心身の具合がわかるのだった。
フーリンが、間を持たすように口を開く。
「さっき、スニルとヨーストの声が聞こえました。怒らせるようなことでも?」
「馬車で寝ようと思っただけだぞ。危うく顔に蹄が埋まるところだ」
「彼らは御者の許しを得ずに馬車に乗ろうとする者を、決して許しません」
「先に言えよ! なんにしたってあの馬共は感じが悪ぃや。特有の愛らしさってものがない」
「天界でも二番手、三番手を争う名馬ですよ。彼らでなければハーノイルまで何ヶ月かかったことやら」
「そうだったのか」
「ええ。なんでも、エイルーシャのお兄さんがとある功績を認められ、さるお方から譲り受けたらしいです」
「へぇ、兄貴がいたのか」
フーリンは相づちを打ちつつ、何故か悲しげな顔をする。
長いこと散策した。とりとめの無い話をしながら、互いにどこか上の空な部分があった。
いくら行けども変わらぬ景色。歩き疲れた二人の足は、自然と宿の方へ向かう。入国時に散見された営業中の店も、今は灯りを消して沈黙している。一軒を除いて。
「まだやってるんですね、あの店」
先刻、怒鳴り声が聞こえてきた居酒屋だ。扉の隙間からゆらゆらと明かりが漏れている。
「らしいな。中はどうなってることやら」
肩を竦めると、フーリンがまた予想外の提案をした。
「入ってみませんか」
「おいおい、酒かよ。流石に……」
「私はとんでもなく下戸です」
「ならどうして」
「気になったことがあるんです。さっき店内から聞こえた何人かの大声……。あれは恐らく、正気の人達です。この居酒屋は、動力未停滞者が肩を寄せあう場所の一つなのかも知れません」
言われてみれば、そういった場所があるのは自然に思えた。知り合いも家族も突然おかしくなり、生活がままならない市民達は互いを頼るだろう。しかし、
「だからって関わる必要があるか」
「このまま行きたくないんですよ」
本人はいつもの口調のつもりだろうが、抑えていた苛立ちの噴出が分かりやすかった。 理由が分からない。ダインは狼狽し、言葉が詰まった。
「確かに、最後の休息にしては良いものじゃなかったかも知れないが……」
「そうじゃないんです」フーリンがうんざりしたように頭を振った。髪がきらきらと乱れる。「エイリーのせいだとしても……こんな……ただ汚くて、臭くて、うら寂しくて、ろくでもない国って印象しかないままハーノイルを出るなんて……嫌なんです」
握った拳が震えている。フーリンには縁もゆかりもない国。その認識が誤りであることを知った。
「何の思い入れがあるんだ、この国に」
聞くべきではないと直感しながら、疑問が口をつく。
「大したことではありませんよ。取り乱しました」
フーリンは案の定こたえない。髪を手ぐしで整えて、
「妙な申し出なのは分かってます。無理にとは言いません。なんでしたら先に帰っててください」
小さな肩を窄めるのが、なんとも小ずるい気がした。こんなところに一人で置いていける訳がない。
「付き合おう。さっさと入ろうぜ」
「いいんですか」
計算尽くだっただろうに、嬉しそうだ。頬に赤みが差す。
「どうなるか分からないけどな」
億劫を装いながら、ダインとて同じ気持ちだ。二度と来られないかも知れないのだから。 ここに立っていることにさえ実感を見出せず、心がふわついている。現実感がない内に逃げ帰りたくもあった。
色あせたドアノブを引いた。質の悪い油が焦げついた香りが顔にぶつかった。
店内は存外に明るい。テーブル四つにカウンター五席。各テーブルに置かれたキャンドルランタンが客の顔をぼんやりと照らす。こちらを見る者、突っ伏して眠る者、食事に夢中な者と同席で向かい合い、独り言をつぶやき続ける男。老いも若きも水分が抜けたように皺が深く、痩せ衰えて哀れだ。ストレスか、それとも。
杯を傾け、食器を扱う所作は揃って常人のものだ。フーリンの読みは当たったと見て良い。
カウンター席に座ると老いぼれた店主が目を皿にする。視線はダインの長剣に注がれていた。
「二人だ。葡萄酒と、あとは何か……」
注文を遮ったのは、弩に矢が装填される音だ。怯えた店主が、真っ正面から矢尻を向けていた。
「あんたら、どっちだ」ダインが長剣を外し、壁際に立てかけて席に着きなおす。「おい、勝手に動くな」
「心配するな。俺達は大丈夫だよ」
どうすれば信じて貰えるかと思案していると、店主は弩を下げてくれた。雰囲気で察したようだ。
「悪く思わないでくれ。知ってると思うが、この国は流行病のおかげで酷い有様でね。感染者の中には乱暴な奴もいるんだ」
「流行病ねえ……」
「見ない顔だが……。悪い時期に来たもんだよ。お嬢さんは何にする」
「水で」
ぎこちない乾杯をして一口あおる。アルコールは久しぶり、否、今朝ぶり。ぬるい酸味が籠もりっきりだった頃を思い出させ、またハルトや村人達の顔が浮かんだ。今頃どうなっているだろうか。
酔いがまわるばかりの不味い酒だった。舌がヒリつく。
「マスター、ずっとこの国にいるのか」
「あぁ、もう四十年になる」
そうか、と言ったきり二の句が継げなかった。尋ねようとすると唇の筋肉が固まってしまう。メアリという女を知っているか、と。
フーリンも何かを言いかける素振りを見せては口をつぐむ。時間ばかり流れていく。二杯、三杯と呑みたくもない酒が血に溶けていくだけだ。酔った勢いで余計な世間話は弾めど、肝心な問いは言葉にならない。
後ろから、テーブル席の客が食事をかき込む音が聞こえたので、それとなくフーリンの髪に映る背後の二人組を見た。改めて見るとどちらも高齢だ。フォークがうるさいのは皿に顔を突っ込む禿頭の老人。
向かいの老人は、相変わらずぶつぶつと独りごちていた。身に纏ったぼろ布に、寒そうに両腕をしまっている。目を隠すほど長く縮れた蓬髪が見るからに不衛生で、大量の髭の向こうで口がもごもご動いているのだった。本当に動力未停滞者なのか疑わしい体たらくだ。
「あの客達はここに泊めるのか」
「まぁな。家族も皆やられちまって、他に行き場所がない。生憎と宿屋は兼ねてないんだが、昔ながらの止まり木だからな。それに、どいつもこいつも大切な常連だ……」
あまり顔に出ない質らしいが、店主もほろ酔いだった。「いつまで続くのかねぇ」とぼやく。
話し好きらしく、堰をきったように苦労話が始まってしまった。うんうんと聞いていたが長くなりそうなので「いつからなんだ、病が流行ったのは」と問うてやる。
「いつからって、そりゃあ、あんた……」
先週か先月か、数時間前か、飲み過ぎたように呆けて喋らなくなった。隣から伸びてきた手に耳を引っ張られる。冷たい指が記憶に触れた。
『大丈夫。いくらでも治してあげるから』『暴力じゃなくて教育だよ』
思った以上に酒がまわっている。飲み出すと加減が利かないのが、昔から直らない悪癖だ。
「やっつけてどうするんです」
「なぁ、俺達って夫婦に見えんのかな」
「……これだから酔っ払いは」
手を離したフーリンが水を飲み干す。
「俺な、この国には銀髪の奴が多いと思ってたんだ」
「……何故です」
「昔の……傭兵仲間が派手な銀髪でな。そいつがハーノイル出身だった」
「へぇ。いませんね、一人も」
「なんでだよ」
「知りませんよ」
いやに素っ気なくなったのが癪に障った。何故か不機嫌にも見える。八つ当たり気味に「おいマスター」と突っかかる。正体を失いかけているかも知れなかった。こんな店で何をやっているのか、収穫などあろう筈もないと苛立ちが募る。
「この国には、どうして銀髪が――」
「やかましい! お前は!」
酔いも覚める大声を背に浴びせられた。こちらに言われたのかと驚いて振り向いたが、他の客はいつものことだとばかりに動じていない。声の主は食事を終えた禿頭の老人であり、独り言の激しい髭の老人に赫怒したのである。
「メイト! お前の現実逃避に付き合う気分じゃないんだ。良い加減に黙れ……ウンザリだ。感染者の中に放り出してやろうか!」
勢い余って立ち上がると、無毛の頭部に刻まれた深い皺が、燭光の加減で克明に黒く浮かび上がる。顔を茹で蛸のように赤くして、拳でテーブルを叩き始めた。かなりのご立腹だ。
メイトと呼ばれた方はさらに深く俯き、だが今度は聞き取れる声量で、
「でも……本当のことだ。私は嘘を言っていない。ヘンリーなら分かってくれると思うから話すんじゃないか」
「どっちでも良い!」皿を床に叩きつけた。「下らん。お前という奴は、昔のことを毎日毎日……いつまでも。そんな話が何になるというんだ。お前だって苦しいだけじゃないのか。忘れてしまえ……他の奴らと同じように」
「それこそが現実逃避じゃないか」
ダインが鼻白む。何だか知らないが、年寄りが古い話で揉めている。こんな時に口論とは図太い神経だと呆れてしまった。
「もう帰るぜ。勘定」
店主はまだ頭を抱えている。病の流行が顕著になったのは先月だったか、先々月だったかと考え込んでいた。もう戻ってこなさそうだ。
埒があかないので適当な金額を置いて帰ることに。フーリンと目配せして席を立った。
立てかけていた長剣を腰に戻すのも、ままならない。悪酔いだ。先を急がねばならないというのに。図太い神経はどっちだと自己嫌悪に陥る。吐き気がこみ上げた。足下がおぼつかない。出入り口までが遠い……。
老人同士の口論は続く。メイトが静かだが懸命に語る。
「険しく真っ直ぐな……戦士の目をした、信頼できそうな少年だった。彼が、確かに私に言ったんだ。あの言葉が嘘だったとは思えない」
もういい、と首を振り、ヘンリーは虫でも払うように手を振った。
「成る程な。要するにメアリは、異族がうようよいる時代にたった一人で生き延びて、ついでに破壊神と戦ったって言うんだな」
あ? と素っ頓狂な声が腹から飛びだす。聞き違いかと訝ったのは、身体が勝手に動いた後だった。ヘンリーの肩を掴んで力尽くでこちらを向かせる。
「おい! 今なんつった!」
「な、なんだ貴様は」
武器を帯びた筋骨隆々の男に急襲され、ヘンリーは血の気をなくして椅子から転げ落ちそうになる。只事ではない形相を見て「感染者だ!」と喚くと、他の客は恐れをなして店を出て行った。
「ダインさん!」見えない力に引き剥がされて尻餅をつく。フーリンの風だ。「何をやってるんです。落ち着いてください」
「ヘンリー、大丈夫か」
メイトが鈍い動作で席を立ち、杖をついて少しずつ歩み寄ってくる。身体が大きく傾いて非常に歩きにくそうだ。蓬髪から覗く左目が小動物のように弱々しい。「騒がしくしたことは謝ります。どうか許してやってください」
ダインは、たった数秒間で濡れ鼠のように汗だくだ。必死に呼吸を整え、フーリンの手を借りてやっと立ち上がる。
「いきなり恐がらせる真似をして……本当にすまない」
完全に無意識下の行動だったことが自分でも恐ろしかった。ヘンリーは乱れた服装を整え、無様に怯えたことで傷ついたプライドを取り繕う。
「お、俺が一体なにをした。若造、説明次第によっては許さないぞ」
憤懣やるかたないといった風だが、ダインの表情に感じるものがあったようだ。疑問が怒りに勝っていくのが分かる。
「教えて欲しい……。今、もし俺の聞き違いでなければ、メアリと言ったな。この国を追い出されて、破壊神と戦ったと」
「あぁ、言ったとも」
「ひょっとして、そいつは銀髪で、争いが嫌いで、とんでもない法力を持つ女だったか……?」
二人の老人の顔が、驚愕の一色に染めあがった。口を揃えて、
「メアリを知っているのか?」
「あぁ。俺はメアリと同じ傭兵団にいた、ダイン・フィングという者だ」
メイトは腰を抜かしてへたり込み、ヘンリーは一目散に店外へ逃げていった。「見逃してくれ」と泣き叫びながら。
名が知れ渡っているのを忘れていた。