第十二話
日当たりの良い森が、快晴色の閃光でさらに明るくなった。倒木が一斉に起きあがり、折れ目は癒着し、積もっていた葉が枝へ帰っていく。誰の力の余波かは明白だ。
まだ遠い。肺が潰れても構わない覚悟で息を切らす。汗が衣服から滴っていた。
再度、地面が鳴動する。膨大なエネルギーの接近を感じ、身構えた数メートル横を衝撃波が通過し、復活したばかりの木々を遙か後方まで押し流す。
鋭く飛んでくる木片をやり過ごしながら、同様の森林破壊音をいくつも聴いた。近づいてくる音と、遠ざかる音。衝撃波は恐らく、先ほどの土柱から放射状に発出している。
これほどの力。異族の最上位の、更に上澄みが大群をなしたか。または異族に非ずか。
森の切れ目が見えてきた。ようやくメアリが泣いていた花畑に出られる――白く柔らかい物体が顔に貼りついた。
攻撃を受けたかと立ち止まり、それを引き剥がす。か細い女の足首だ。
「メアリ!」
森を飛び出す。花畑は面影もなく、殺風景でだだっ広いクレーターだけが地中深くを露わにしていた。四囲の緑にはあらゆる方向に衝撃波の通り道ができている。
霧のような塵芥、クレーターの真ん中に二つの人影。跪くメアリと、少し離れた場所で天を仰ぐ赤髪の女であった。炎熱を帯びていそうな頭髪は背丈に倍する長さで、風もないのにはためいては顔貌を隠す。
線は細いがダインと変わらない長身に衣服は纏わず、裸体を覆うのは壮絶な古傷のみだった。傷跡が多すぎるあまり、ほとんどの箇所が一繋がりの抉れと化している。
「誰なんだテメェ!」
怒鳴りつけても意に介していない。意味ありげに天を仰ぐばかりだ。
人間でも異族でもない。最悪の疑念を抱きつつメアリの元へ駆け寄った。
「おい、大丈夫か」
両膝を着いてうなだれるメアリは、血液を吐き出しつづける右足首の断面をおさえて、荒い呼吸を繰りかえす。歯をがちがちと鳴らして震えていた。
「どうしたんだ……! 早く傷を治せ。死ぬぞ」
力を使おうともせず、唇だけを動かしている。聞き取れない声量で何事か呟いているようだ。
ただでさえ消耗したばかりの心が、決定的に壊れてしまったのだろうか。言葉が届かないことに戸惑っていると、頭上から空気の爆ぜるような音が聞こえた。
虚空より出でた稲光が女の頭上で集約し、一条の槍となって脳天に落ちた。
「無事か」神官が五人、どこからともなく現れた。明るみで見る彼らの立ち姿は、やはり小柄で痩せていて、如何にも虚弱そうだった。
「メアリを連れて引っ込んでろ」グリードが追撃の雷を放ち、舌打ちをする。「人間の手に負える相手じゃない」
無防備に電流を受ける女は、これといった反応も示さない。天に向かって得心いったように頷き、髪をかき上げただけだ。初めて見えた顔貌はやはり傷だらけでひび割れており、しかし美しかったであろう面影も残していた。墨を流したような目は、どこを見ているか判然とせず空洞じみている。
時折、病でも気にするように腹部を撫でていた。
メアリに肩を貸してなるべく遠くへ行こうとしたダインの背を、「そこの人間」と鈴音を思わせる美しい声が撫でつけた。
存外な声色に思わず振り返ってしまう。異族の群も消し炭になる威力の感電を、意に介さず話しかけてきた。
「……何だよ」
かまうな、逃げろ! とグリードが怒鳴るが、脚を竦まされて動けないのだ。
「逃げる必要はない。何故なら私は巷間囁かれる悪神に非ず。〝〝世界そのもの〟からの意志を授かり、それを代行せんとする正しき神なのだから」
「神だと? まさかお前が……アルスか」
緩やかに首肯した赤髪の女――破壊神アルスが、今までにない激越な落雷に打たれた。目の潰れそうな電光の柱に飲み込まれても尚、ようやく表皮が焦げて燻る程度のようだ。
それでも少しは気を散らしたのか、竦んでいた脚が自由になった。
グリードが忌々し気に、
「破壊神の言などに耳を貸すな。どんな大義を掲げられたところで、こいつが我々の敵であることに変わりはないんだぞ。さっさと行け、何度も言わせるな」
避難を促しながら、徐々に姿形を変化させていく。他の四人も同様に背丈は四メートル程にまで伸長し、虚弱そのものだった体つきは盛りあがり、膨張し、巌の重厚さとなったのである。鮮黄色のローブは刺々しくも堅牢そうな鎧と化し、やはり稲妻を連想させた。
最も目を引くのが、身長の何倍もある三対の翼であった。如何なる異族等よりも荘厳で、一振りすれば曇天も晴れてしまいそうである。
どんな法力を使えばこうなるのか。絶え間ない放電が見渡す限りの大気を制圧せんばかりだ。こちらの肌までヒリついて麻痺しかけているので、神官達の変わりように驚倒する暇もない。メアリを無理矢理に担ぎあげ、巻き込まれぬよう戦場から離脱。余っている森に駆け込んだ。
しかし深くは進まなかった。先ほどの衝撃波、破壊神の名に偽りなき威力を見せつけられ、距離を稼ぐだけでは無意味と悟ったのだ。
「メアリ、逃げる上で俺は足手まといになる。自分の身を護ることに専念すれば、お前だけなら助かる率は上がる。……行ってくれ」
そうでなくても、敵に一太刀も加えず遁走するのは御免だった。これ以上、剣士の端くれとして恥を上塗るのは我慢ならない。
これが今生の別れか、と哀惜に堪えぬダインをよそに、メアリは相変わらず歯の根も合わぬ怯え方である。ぶつぶつと独りごちては手首からの失血で青白さが増すばかりだ。
「おい、頼むからなんとか言えよ。いい加減に怪我も治してくれ……おいってば」
「……変えられない」
「え?」
「何一つ変えられない。私の考えなんかじゃ、世界も……私にとっての世界も、護れないんだ」
「メアリ……」
寝転がり、手足を投げ出して大の字になった。そして、訥々と語り始めるのだった。
「人も異族も……神様まで、みんな喧嘩ばっかりする。それが悲しかったから、物心ついて自分の力を知ったときに決めたの。誰かにとっての悲しい物語を、少しでも幸福に向かわせたいって。その積み重ねで世の中は変えられるって」
顔の青みが増し、死が近いような落ち着きを見せるようになってきた。動揺するダインを静かに押しとどめる。
「だけどね、この力が原因で皆が争うようになった。何度も傷つけられた。ものを知らない私はただただ痛くて恐くて、皆を治し続けた。私は本当に馬鹿だから……私を殺そうとした人達の命も救って、その度に争いは激しくなって、家族も危険に晒されて、敵は増えていった。私も、私の大切な人も何度も犠牲になって、治して、そんな暮らしを続ける内に争いは収まっていった……」
耳に届く戦闘音だけでも、雷轟と衝撃波が尋常ならざる密度で交錯しているのが想像できる。一瞬先には巻き込まれていてもおかしくない。
すぐ近くに落雷があり、木の焦げる臭いが漂ってきた。
「最初はね、皆が分かってくれたんだと思った。争っても無駄ってことが。抹殺の対象だった私は、国の宝とか言われて祭り上げられるようになった。誰のものでもない共有財産として、兵器として……。変わり身の早い、嘘の笑顔に騙された振りをしながら仮の平和に甘えてた……。そしたら今度は他国の人が私を狙って攻めてきた。私はやっぱり誰が傷つくのも見たくはなかったから、味方も、敵も助けた。敵の軍隊が諦めて帰っていったあと、今度は裏切りの罪で投獄されて、殺しても死なないから国外追放になったの。だけど、そんな目に遭っても胸にある夢を諦めたくはなかった。この力の可能性を……」
手を貸せと言いたげに、右手をダインに差しのばした。立たせようとして掴むと、不意に引っ張り込まれて倒れてしまい、メアリと身体が重なった。
慌てて起き上がろうとすると強く抱きしめられ、足先から首元までの体温が伝わり、鼓動が交換され、頬がつくような真横から啜り泣きが聞こえる。
「私は間違ってた」すぐ鼻先に、涙で濡れた顔があった。「ダイン……悔しいよ」
「お前は――」
気休めを言うのを待たず、メアリの身体が快晴色に輝いた。徐々に姿の透明度が増し、向こうの景色が見えるまでになる。
「戦わなくちゃ、誰かがずっと苦しみ続けることもあるんだよね。私はそこから目を背けていたのかも……。だから、お願い。弱い私の代わりに、あいつを倒して。全てを預けるから、私の剣になって欲しい……!」
メアリの光が最大に達し、本人の姿は消え去った。
残されたダインは、しかしメアリを探そうとはしない。どこにいるかは分かっていた。長剣に乗り移った光が、意志が、鞘中から迸っている。〝両利き〟であるメアリの、右の〝手〟の力なのだろう。
存在の同一化。元から体内にあった水分のように、最初から二人で一人であったかのように、少しの違和感もなく同調する息づかいがあった。
剣術しか知らぬダインには、まるで未知な感覚が湧出してくる。儚くも混沌とし、優しく力強い感情が血中を満たしていた。
「メアリ、お前は確かに甘い。だが……間違いだとは誰にも言わせない」
――後はまかせろ。
恐るべき身軽さで飛び起き、地面を蹴る。戦場へ駆け戻るダインに脅威など皆無だった。メアリの力が筋力にも付与され、身体能力までが飛躍的に上がっている。
途中、敵か味方かの区別もつかない攻撃が何度も頭をかすめ、指を飛ばし、腹を穿つ。それでも脚は止まらず、無傷のダインは森を抜けた。
「やっぱり俺も混ぜろや」
「お前っ……何故もどってきた」
呆れ顔のグリードは鎧の大半を砕かれ、露出した生身にも重傷を負っている。相変わらず平然としているアルスの周りには、原型のない神官四人が散らばっていた。
「休み時間は終わりだ」
抜いた長剣が快晴色に輝き、死者は堂々たる姿を取りもどす。神官達は刹那の戸惑いを経てアルスの近くから飛び離れ、グリードの元へ身を寄せ合う。
体格差の余り、ダインが人形のようである。自身の装備や怪我もすっかり完治していることを確かめたグリードが、
「ダイン、あの女の法力を得たのか」
「借りたんだよ。あいつを倒すまでの間だけな」
アルスの漆黒の瞳が、微かな怒りに歪んだ気がした。やはり声は美しく、
「揃いも揃って……」蔑みの念があふれ出てやまないといった様子だ。彼女の言葉は神官達に向いている。「繰り返すが、私は悪神に非ず。〝世界そのもの〟の意志に従い、自らの責務を全うせんとする善なる神だ」
戯言かと思えば、グリード達はたじろいでいた。非があるかのように言い返せないでいるのだ。アルスは続ける。
「雷神の神官共よ。貴様らの責務は何だ。たかが空の一端を司るだけの低級神の下僕風情が、人間に情が湧いたあまり私に背くというのか。もう諦めろ。ここは〝世界そのもの〟から不要と見なされ、アルスという形で破滅を宣告された星なのだから」
「黙れ!」
水平に飛んだ雷を、アルスは首を傾げて避けた。
「遅かれ早かれ同じことだ。ここで私を倒しても、〝世界そのもの〟は決してお許しにならない。更なる強硬手段、抗いようのない大いなる流れによって、この世は終末を迎える。あのお方にとっては、瞼を閉じるより容易なことなのだ」
平静な話し口調ではあるが、聞いている側はのしかかる圧力で老いてしまいそうだ。特に、一度殺されて力の差を思い知らされた神官達は、巨体が徐々に縮こまっているように見えた。グリードも下を向き、歯を食いしばるだけだ。
「ようやく理解できたようだな。ならば、大人しく自らの運命を受け入れ、正しき意志の前に頭を垂れ――」
冷淡に諭す神に、斬りかかる無法者がいた。ダインだ。
全体重を乗せた打ち込みは華奢な腕に受け止められ、派手な火花を散らした。しかし軽々と押し返され、ダインは構えを崩さずに後退する。
「邪魔をするな。鉄くずを振り回すだけの人間が」
「邪魔なのはテメェだ。さっきから聞いてれば小難しい御託を並べやがって。生憎だが、世界がどうこうなんて、ややこしい話は俺に通用しない。なにせ鉄くずを振り回すしか能が無いんでね」
大体よぉ、とほくそ笑む。
「鉄くずも案外、馬鹿にならないようだぜ」
人間の武器などで傷つく筈のないアルスの前腕に、極々薄くだが斬り痕が残っていた。
虫に噛まれたような顔をするアルスに、とどめの一言を放つ。
「テメェが頭を垂れろ。手前勝手な腐れ脳味噌、どんな斬り心地だか興味があるんでね。……おい、趣味の悪い真っ黄色共、お前らもシャキッとしな!」
そんな雄叫びを浴びせられては、黙ってなどいられない。グリード達は「場違いな人間風情が偉そうに」と毒づきながらも姿勢を直し、愉快そうに笑った。
「アルスの話は真実だぞ、ダイン」
「スケールが大きすぎてよく分からねえ。俺に言えるのは『そいつは困る』ってだけだ。後のことは、このアバズレを斬ってから考えればいい」
「悪くない馬鹿だ。助けた甲斐がある」
話している内にアルスの姿も急変。別物の輪郭と化す。赤熱する鱗甲が体表に隈なく浮きだしては鎧となり、輻射熱でもって空間を揺らめかせる。
腹部の装甲は特に厚く、防具を重ね着しているが如しだ。
増長していく肉体は背丈だけでもグリード達の三倍を超え、体表も爆ぜんばかりに膨れ上がった筋骨が、振れ幅おおきく脈動をはじめた。顔からも元の面影は消え失せ、ひときわ怒張した頭部が、鱗甲の上からでも血管の形を分からせる。
裂けた口から覗く歯並びは人間のそれに似るのが不気味だった。依然として目だけが黒く、豊かな赤髪は焔の紗となってたなびく。
どれだけ戦い崩れたのか、ほとんど骨だけになった七対の翼を広げ、
「〝世界そのもの〟の意志、改めて代行する」
アルスの手が空を掻き乱す――炎熱を帯びた衝撃波。
全身が焼け焦げたことさえ知覚できず、ダインは死と生を往復した。体感では瞬きの間だが、森は見渡す限り消失していた。クレーターはより深くなり、地中から吹き上がったのであろう岩石が地平線の彼方にまで岩場をなしていた。
グリード達の蘇生も完了していることを目の端で確認。すぐさま二撃目を放とうとするアルスの動きを妨げたのは、多重に絡みつく雷の鎖だ。五人がかりでも片腕を拘束するので手一杯と見える。
「ダイン、気に食わないがお前達の方が相性が良いらしい。破壊と回復という相反する性質の衝突か有効なのか、それとも単に出力の桁が違いすぎるのか知らないが」
「お喋りは要らん。俺を巻き込むことは気にせず、お前らも出力を上げてくれ。一瞬も間も置かずに奴の動きを緩めるんだ」
吐き捨ててから突撃すると、背後から雷の洪水に流された。長剣が際限なく輝きを増す。損傷と同時、或いは早いかと思うほどの回復により、もはや痺れに気付きもしない。電流が自他全てを巻き込むなかでダインは軽々と跳躍。アルスの顔に刃を突き立てようとした。
「調子に乗るな」
頭上からの熱放射。仮に傍から十万、百万倍の動体視力で捉えたならば、頭頂から爪先までが消失しながら再構築されていくダインの姿が、蜃気楼の乱れのように見えたことだろう。
ダインを通過した熱線が荒野を打ち砕く。もうもうと煙る塵芥のなかを電流だけが跋扈し、しばし雷雲の様相を呈す。
果たして、長剣はアルスに届いていた。跳躍の勢いは死んでいたが、落下ざまに足の甲を刺していたのだ。剣身半ばまでが鱗を破って貫入している。
「この……小さな人間が!」
アルスが初めて感情を露わにした。森を荒野に変え、海を砂漠とし、国を落とすための拳を無茶苦茶に振るう。単独で世界を終わらせる破壊神の力。しかし、それを以てして一人の人間を倒せずにいるのだった。
全く異様な光景だった。強大な神の一挙手一投足だけで、虫のように叩き潰される人間。その度ごとに一方的に傷つくのは、神の方なのだから。
世の法則を無視した戦いが、どれだけ続いたか。一時間なのか一日なのか、時さえ破壊されたように判らない。
空がガラスのように赤くひび割れ、欠片がこぼれ落ちてきそうだ。荒野の果てまでが幾度も熱されて白く流動的になっても戦いは続く。いつしか場違いとなったグリード達は戦線から追いやれられていた。
「一体……何者だというのだ!」
アルスがこめかみまである大口を開けて莫大な炎熱を放射した。まるで流線型の太陽。地が蒸発して足場が低くなっていく絶望的な温度だ。
しかし放射を終えれば、眼前には長剣を振りかざすダインがいた。
「〝世界そのもの〟とやらが何を吠えても、お前の役目は認めない」
失せろ、と喉奥に目がけて刃を突き込む。身体ごと口内に入る勢いで、切っ先がうなじから飛び出した。唾液と体温で身体が燃える。無傷な肌から煙だけを立ち上らせながら長剣を引き抜いた。
ダインが着地し、一拍おくれてアルスが倒れ伏した。
人の背丈ほどもある頭部が、ダインの目の前に差し出される。溢れてどこまでも広がっていく血液に、死を悟った脂汗が浮かぶ。
アルスはしばらく愕然としていたが、やがて何かを哀れむような侮蔑の表情に変わった。
「……愚かさの極みだ。何も変わらないというのに」
「あの世でも同じ事をぼやけ」
背後から青い光。振り向くと、その光は人型に成型されて女の姿となる。
息の上がったメアリはへたり込み、血で汚れるのも気にせずに笑いかけた。
「終わったんだね……ダイン。ありがとう」
ダインも微笑んだ。今日が剣を捨てる日になる。暴力を放り投げて、武器を持たない手でメアリを抱きしめたかった。逃げてしまったことを謝ろう。助けられた礼もきちんと伝えられていない。ぶつけたい本音が沢山ある。
「お前がいてこそだ、メアリ」
剣身には、今も力の残光がある。最後の一太刀を入れるには十分だ。
「アルス、二度と現れるんじゃねえぞ」
長剣を水平に薙ごうとしたときの、極端な笑顔。怒髪天を衝いても大きくは変わらなかった硬い表情筋が、壊れたように、溶けたように口角を曲げて緩んだのだ。その不気味さたるや、背筋が凍り尽くす。
「私が現れるまでもない。それまで……せいぜい楽しめ」
ふと目眩がした。アルスの震える指が、宙を泳いでいる。死に際の足掻きか、意味のあるものなのか。文字や図でも描いているような――
「あばよ」
一閃。側頭部から剣身が侵入し、眼球に達しても表情は変わらない。ついに頭が飛んでも、口角は暫くねじ上がっていた。
戦いは終わった。生ける者の共通の巨敵である存在は、葬り去られたのだ。
長剣の光が消える。
「メアリ――」
敵の命が消えていく。安堵し、相棒に笑顔を向けようとしたとき――視界が斬り刻まれた。巨大な死体は肉の飛沫となって吹き上げられ、岩々が裂け、四囲の荒野は幾多の刃創で掘り起こされた。
状況が理解できない。土塊や鱗が降り注ぐなかに、見覚えのある物の残骸が混ざっている。破れた背嚢、水袋、火打ち石、青い瞳の眼球、皮に付着した銀髪の束……。
「……え?」
どこから攻撃を受けたのか。確かめるまでもなく、敵影はおろか生物の影も皆無だった。
焦熱の地に、ぶつ切りになった肉が焼ける音、髪や皮膚が焦げる異臭のみ。
転がる眼球が沸騰し、破裂した。
いつもみたいに蘇ってくるのだろう。そんな楽観が徐々に翳っていく。焼けていた肉片が炭化し、崩れた。
無色透明の心結晶も、後を追うように消えた。
「おい、冗談はやめろ」
待てども、待てども、煙が漂うだけだった。メアリの痕跡が、白い灰になって吹き流れていく。
「メアリ」
靴が溶け、足裏が焼けていた。灰の集まりへ歩いた。これ以上失われないよう、かき集めて覆い被さる。一陣の強風がダインをせせら笑う。爪の先ほども残さず、メアリを連れ去ってしまった。
身を焦がしながら、ダインはいつまでも跪いていた。脳が働きを止め、心に鉛が注がれていく。
メアリがいた場所を、地面が冷めても見続けていた。