第十一話
四方八方、瞼を閉じても開いても変わらないような棘の闇だ。目覚め、剣を振り、暗転するまでのテンポが次第に加速していき、ついには世界が小刻みに明滅する――
「嫌……助けて……」
どれだけの時間、生と死のちらつきが続いただろうか。悲痛な声にまた覚醒し、伸びてきた異族の手を咄嗟に斬り伏せた。もう日が沈もうとしている。
薄闇に目立つ新たな敵、否、すっかり棘を発射し尽くした異族共が、白い素肌を剥き出しにして鳴き合っていた。球状の身体は筋肉質であり、人の頭ほどある眼球が突出と陥没を繰り返しては黄色く光っていた。肌からは既に細かい棘がぽつぽつと生え始めている。
足の踏み場もない地面に躓きながら、声のした方に切っ先を向けた。幾多の手に囚われたメアリが見せしめのように大の字に掲げられ、今まさに耳が千切られようとしている。もはや気力も尽き、声も枯れかけている。
「テメェら……!」
敵よりも、自分への怒りに狂う。大きなことばかり言っておいて、何もできていない。非力さ故に、最悪な想像までもが実現されようとしている。朝の会戦から日陰るまでの間、計り知れぬ責め苦を受けさせてしまった。身体は治っても、心の傷が癒える保証はない。一生涯、メアリはメアリでなくなるかも知れないのだ。
脳漿が沸騰した。泡立つ血流が皮を破って噴き出そうとしている。
――全員ぶっ殺してやる
図に乗って棘を撃ち尽くした今こそが勝機。かつてないほど重い長剣を構えなおし、ダインは駆けた。
殺気に感応し、卑劣な敵共はすかさず傭兵達を楯にしてきた。欠片の躊躇もない刃でそれを細切れにし、まだ楯として使われていない者達も楽にしてやった。
数え切れない腕が伸びてくる。いくつもの関節を各々くねらせ、ダインを殴打、捕獲、刺突せんとどこまでも追ってくる。
避けもせず、刃圏に入った全てを一太刀で刎ねていった。下らん拷問用の細腕などマッチに同じだと言わんばかりに吠え立てる。油断して勝ちを確信していた異族共も、手負いの獲物の予期せぬ抵抗に対して奇声を発した。とにかく高音な、不快を極める共鳴だった。
その意味するところも分からず、ダインは白刃を振るう。落ちている棘を剣身で弾き飛ばし、遠巻きにしていた敵にも休息を与えない。
次々と切断された腕が厚く堆積するのはあっという間だった。武器を失った異族共は退避を試みるが、死んでも逃がす気のない男によって果実のように割られては断末魔をあげる。ある者は十分に伸びきっていない棘を発射しようとし、剣の腹で内臓まで叩き戻されては絶叫した。
感情などあろう筈もない悪の群に、確かに見受けられた動揺。メアリさえ封じればと驕っていた報いが、同族の斬殺によって贖われていく。あれほど優勢だった戦況が、歯牙にもかけていなかった男のために崩れてしまった。
刃の台風の中、メアリを捕縛している一体が動いた。戦乱に乗じて退避しようとしたが、生き残っているのは既に自分のみだと気付いたのか硬直する。そんな間抜けの背後に立ち、
「退け」
大腿を刺し貫くと、簡単に跪いた。
「なにを転んでる」
眼球を十字に斬り裂くと、中心から拳大の水晶体がこぼれ落ちた。
たまらずメアリを解放し、見苦しくばたつかせた腕もすぐに刎ね飛ぶことになる。
「俺が未熟なばかりに……」
身動きのとれない異族の腹に長剣を鍔まで刺し込み、体内を混ぜっ返しながら顔を歪めた。敵が大人しくなると、刺さった得物もそのままにメアリの元へ這っていく。酷く進みにくいと疑問に思い、初めて利き腕の脱落を知った。いつからだろうか。
「なぁ、聞こえるか」
生死の判別などつくべくもない、変わり果てた姿。最も恐れていた光景がそこにあった。
打ち捨てられたメアリは微動だにせず、仰向けに虚空を見ている。白いチェニックは土と血液で染め上げられ、ほとんどが破れ去って用を成さず、同色に汚れた肌との境が分からない。
「勝てたんだ……メアリが粘ってくれたから、こいつらは武器を失った……」
完全に日が落ち、手元すら見えない闇が訪れた。勝ちはしたが、死にゆく者が森に二人。
「……ダイ……ン……」
別人のように嗄れた声。顔に触れてきた冷たい〝手〟が、微弱な光を発した。互いの顔が見えるか見えないかの明度。ダインの傷が少しずつだが回復していく。
「やめてくれ。自分にやるんだ……」
手首を掴もうとしたが、目で制される。
「これが……本当の戦場なんだね。私が……馬鹿だった……。考えが甘すぎたよ」
すすり泣きながらも治療を止めようとしない。
「いいから力を自分に向けろ。生きることを諦めたのか」
「諦めなくたって……もう死んじゃうよ」
「なに言ってんだよ。俺達は……生き残ったんだ。こんな場所で死んだら浮かばれ――」
メアリの泣き顔が、うっすらと見えてきた。暗さに目が慣れたのかと思ったが、それどころではない明るさで森が照らされていく。
メアリが、空に何かを見ている。つられて上を仰いだ。
満月が浮かんでいた。
三日月や、上弦、下弦の月も出ていた。
夜空を美しく埋め尽くす、夥しい数の異族の眼光だった。
第一陣よりも遙かに多い。同種だが浮遊している。恐らくはこれが本隊。先の異族共がやたらと発していた奇声は、仲間を呼ぶためだったのだろうか。とうとうダインも悄然とする。万に一つも助かる見込みがない。
「俺は、何もできなかったな」
「……覚えてない? 生き返るたびに私を守ろうとしてくれたよ」
優しい嘘だと知りながら、「そうだったか」と答えた。どの道すべては無駄だ。
向こうはいつでも得意の棘を発射できる。二人の寿命はあと何秒だろう。手が触れあい、自然と繋ぎ合った。
「心のどこかで思ってはいたんだ。戦場なんか捨てて、メアリとどっかに行っちまおうかって」
「ほらね、私の言ったとおり。剣より大切なもの……見つけられたでしょ……」
「そうだな。だけど……少し遅かった」
上空より黒い壁が落ちてきた。一分の隙もない、棘の一斉発射である。
無念だった。目を閉じ、メアリの手を握りしめた。しかし、終わりの時はなかなか訪れない。はたまた既に終わっているのか。
恐る恐る目を開けると、すぐ間近で不自然に空中停止する棘の塊があった。それらは獰猛な鋭利さもそのままに、質量を失ったように浮き上がっていく。
にわかに、一帯が昼の明るさになった。空を覆っていた棘が発火し、みるみるうちに灰に帰しては吹き流れる。全てが消滅したとき、先程までひしめいていた異族共も同じ運命を辿ったのだと知った。
代わりに宙を席巻するは、太陽と見紛いかねない雷光の広がり。その中心に佇み、こちらを見下ろしている幾つかの影だ。助けられたには違いないと分かっていながら、人ならざるプレッシャーに呼吸が乱れてしまう。地表の堆積物を這う電流にあてられて、筋肉が縮みあがって軽い痙攣を起こす。
どういった存在なのか。おさまらぬ雷光を従えて降り立つは、鮮黄色のローブに身を包む五人の男女だった。稲妻を想起させる力強い装いとは裏腹に、全員が恵まれない体格をしていた。眩さで面差しまでは判然としないのが、ある種の神秘性を強調させる。
麻痺と森閑。メアリが呟く。
「無理を言って出てきたのに……結局助けられちゃった。ごめんなさい」
言葉の真意を考える間もなく、ダインは意識を失う。
翌朝。よく晴れていた。
深い眠りから覚めると身体が軽い。右腕は復元され、他の怪我も治っている。
すなわちメアリは生きているのだろうと、寝起きの頭で考えた。
「やっと起きたか」
中性的な声の方を見やる。とても小柄な男が一人、膝を立てて座っていた。鮮黄色のローブが昨夜の記憶を呼び起こさせる。
「……何者なんだ」
男が不機嫌そうにダインを睨んだ。幼くも美しい顔貌は、病理性を疑うような蒼白さを湛えていた。
「神官とだけ言っておきたいが、不便だから名乗っておいてやる。グリードだ」
「神官? どこかの教会の人間か」
「無駄話より、助けられたことへの言葉が先だろう。人の営みは『礼』に始まって『礼』に終わると聞いた。俺もその考えを深く支持しているが、お前はどうだ」
人外のような言い草を妙だと思いながら、
「……そ、それもそうだ。昨夜は本当に助かった。心から感謝する」
「女なら向こうにいる」
東の森を指さし、あさってを向いてしまう。命の恩人だが如何にもくせ者という印象を受ける。
ダインはもう一度礼を言ってから東に向かった。途中で方々から感じた強力な気配は、恐らくは他の鮮黄色ローブの者達だろう。
昨夜、メアリが最後に呟いた言葉が胸につっかえている。どういった意味なのか。働きに出されておいて、『無理を言って出てきた』とは。『結局助けられちゃった』との言も、まるで最初から誰かの救助を予感していたかのようだ。
岩を避け、草木を搔き分けてしばらく進むと、一気にひらけた空間にでた。途端に甘い香りが鼻孔をくすぐる。唐突にたどり着いたのは、腰や頭まである背の高い花畑。森中の鬱屈さとは別世界だった。空に住む誰かが絵の具のコレクションををぶちまけたのか、この場所に揃わぬ色彩はなさそうだと思える。
果たしてメアリはそこにいた。こちらに背を向け、顔に手をやっている。離れていても泣いていることが分かった。髪の乱れや服の汚れ、全身の重傷がすっかり治っていたことには安息したが、どう声をかけたものか、臆病風に撫でられる。
途方もない申し訳なさだ。どんな力でもきっと癒すことのできない、深い傷を負わせてしまった。朝から晩まで極限を味合わせている間、自分は生死を彷徨っていただけだ。そして結局は、そうまでしてメアリがくれた命を諦めた。
挙げ句の果てには、今際の際だとばかりに告白じみた文言を述べ、楽になろうとしたところを他者に救われたのだ。
罪悪感、無力感、羞恥や屈辱がない交ぜとなって足を絡めとる。いっそう小さく見えてきた背中に、しきりに上下する肩に、ダインは近づくことができなかった。メアリは誰も責めないだろう。礼すら言うかも知れない。涙の理由も、自らの非力を嘆いているからに違いない。
この後に及んで、メアリの優しさが弱味に刺さることを恐れている自分に気付き、呆れかえった。こんなにも卑怯で矮小な、絵に描いたような不実を働く人間だと自覚すると、よりいっそう綺麗なものを直視できず逃げ腰になった。
うまい言葉が出ないなら、傍にいるだけで良かったのかも知れない。
しかし、ダインは踵を返した。メアリに気付かれぬよう足音をたてず、背後から呼び止められないかと肝を冷やしながら――。
情けなさに涙が止まらなかった。どこまで利己的な男なのかと悲嘆に暮れるより、陳腐なプライドが勝ってしまった。荒々しい戦場の男を気取っておいて、この様は何だ。
異族や畜生にも劣る愚かさだと自分を罵っては、意味もなく森を歩いた。立ち止まれば気が狂うような気がした。
もらった命。捨て鉢になることもできない。
どれだけ歩いただろうか。四つ目の狭い草原に抜けたとき、そこに待っている男がいた。 髭面の大男だ。
「糞ジジィ、生きてたのか」
悄然と立ち尽くすベルナルドは右腕を失っていた。その他の怪我も外科的な処置のみが施されている。
「まぁな。年寄りだけが無様に生き残った」
「……偶然じゃねえよな。こんな場所で遭ったのは」
「傭兵隊長たる者、部下の居場所はいつでも把握している」
「ぬかせ。部下が消えたことに気付かなかっただろうが」
そう言われると答えに窮する顔をし、すぐに平静を取り戻す。
「ところでだ。貴様はどこへ行く」
「話をそらしやがって。脱走でも疑ってんのか? 気分転換したら戻ってきてやるよ」
「小僧が」いつもの悪態をつくダインを怒ることもなかった。「暇なんでな。話し相手を探してただけだ」
意外なことを言うと、草むらに腰を下ろした。ダインにも座るよう促してくる。
「お前と話すことなんか無い」
「ならメアリとは話したのか?」
「……うるせぇよ」
「まぁ、座れ」
今日のベルナルドには平素の厳めしさがなく、憑きものでも落ちたように穏やかだ。語調もまるで別人である。
調子を狂わされ、仕方なしに少し離れてあぐらを掻く。
「いくら馬鹿でも、心結晶は知っているか?」
何を言い始めるかと思えば、あまりに唐突な話題であった。ダインは鼻白んでしまう。
「だからどうした」
「そいつを手に入れれば、適性次第では元の持ち主の力を得ることができる。故に、優れた法力を持つ者は常に狙われる立場になり得る」
ダインが顔色を変えて睨みつけた。
「誰のことを言ってんだ」
ベルナルドは答えずに続ける。
「それがもし、どんな怪我や破壊でも瞬時に回復する力だったら。それどころか、死者さえもたちどころに蘇らせる力であったなら……。あまつさえ、持ち主がいかにもか弱い、争いを好まないような女であったとしたら。大勢がこぞって狙いに来る」
ダインは跳ねるように立ち上がり、ベルナルドに詰め寄ろうとした。しかし、明らかに普段と異なる雰囲気に気圧される。
「はっきり言えよ。メアリのことなんだろ。あいつは――」
「自分を狙う連中同士も、もちろん絶えず争う。たった一人の女の心臓を狙って、ときには殺し合いも起こる。家族や友人も敵となり、犠牲となる。本人はこう考えるはずだ。自分さえいなければと。ごみ貯めの中で、自分こそが諸悪の根源だと思い詰める」
「……」
「生まれ持った優しさも手伝って、深く絶望した筈だ。しかし彼女はそこで終わらなかった。痛みを強さに変えて立ち上がったんだ。それどころか、圧倒的な非暴力で破壊神さえ止めて見せようと決意してしまった。だが、今ひとつ欠けている部分がある。非暴力の一辺倒ではどうしようもない、想像を軽々と超える暴虐や、卑劣な悪意に対する免疫と戦略だ。俺はどこまで非道に堕ちても彼女にそれを克服させ、次に進ませようとしたこともあるが、昨今はもう考えを改めていた。今回も……こんな筈ではなかったんだ」
ダインはもう、我慢の限界だ。
「だから、テメェはよぉ……一体、メアリとどんな関係だ! 何もんなんだ、答えろ!」
混乱を誤魔化すように大声をあげると、なんとベルナルドは両手を地について頭を垂れたのだ。ダインは混乱を通り越して思考が真っ白になった。
「今はなにも聞かず、メアリのところに行ってやってくれないか。俺の過ちによって傷ついたあの娘を慰めてやれるのはお前だけだ」
「俺は……あいつから逃げた男だぞ」
「メアリはお前を待っている。俺には分かるんだ……痛いほどにな」
ベルナルドの額が地についた。ダインは正視に耐えず、舌打ちを禁じ得ない。
「後で必ず話してもらうぞ。お前とメアリのことをな」
約束だぞと念を押し、元来た道をもどる。背後から「生涯を懸けてでも礼をする」と張りのない声が追ってきた。
草木を撥ねのけながら全力で走った。
メアリという女の、病的なまでに闘争を嫌う性情。生まれついての潔癖か、よほどの温い環境で育まれた世間知らずの成せる業だとばかり思っていた。人の汚らわしさなど知らない世界で生きてきたのだと。それが思わぬ相手に蓋を開けられてみれば、戦場に産み落とされたに等しいではないか。
そんな中でも決して折れず、曲がらず、心を保つなど想像を絶する。あの優しさや真っ直ぐさが、今は焼けただれるような痛切さで沁みいってくる。
「なにが……生活が苦しくて売りに出されただ。清々しい面で嘘ばっかり言いやがって」
やたらに遠い。こんなところまで無意味に歩いてきた自分を張り倒したかった。
方向感覚もあやしい。本当にメアリの方へ向かっているのか。何故だか、一刻の猶予もないような気がしてきた。鬱蒼とした森の薄闇が焦燥に追い打ちをかける。
何かが終わりかけているような、既に手遅れのような、足裏からのぼってくる怖気に突き動かされた。
より足を速めようとした矢先、木の根に足をとられて転倒してしまった。一回転したかと思うほど盛大に。慌てていたせいで受け身をとりそこね、少しのあいだ土を見つめることとなる。
無様さに苛立ち、顔を上げた――。
薄暗かった筈の森が、光に満ちていた。木々が葉を失っていたのだ。
露出した枝の逆光が晴天を黒々と這う。いつの間にかダインの身体にまで降り積もった落葉は青く、強大な腕力を持つ誰かが幹を揺らしたような有様だった。
目を疑っているうちに乱立する幹も朽ち果て、ぐらついては次々に倒れていく。
毒に類するものか。狼狽して息を止めた矢先、地面が大波のように峻烈に跳ね上がった。ダインは垂直に飛ばされ、森を広く見下ろせる高さにまで達してしまう。突如として冬枯れ同然となった茶色い景色。
打撃を効かされたように星が散り、共に舞い上がった落葉と戯れる。どんな超常現象なのかという驚きのあまり、じきに訪れる着地衝撃を忘れるほどだった。
上昇がとまり、落下に転じると頭部が下を向く。逆さまな世界の、数キロ遠方。ダインが向かおうとしていた方角に、天にまで届く土柱が突き立った。それは数百の樹々を取りこんでは竜巻さながらに渦をうねらせ続け、入道雲に風穴をあけた。
現実を受け止めきれずにいる間に、気付けば墜落間近だ。咄嗟に木の枝をつかみ、落下速度を緩めて着地する。
膝に響く衝撃も無視し、ダインは嫌な予感に導かれて走った。倒木から倒木へ飛びわたり、茨のように道を塞ぐ枝々を踏み越えていく。
次元の異なる何者かが暴れている。メアリは必ずそこにいると直感していた。