第十話
結果的にだが互いに人的な損耗無し。一人の女傭兵の指示によって幕を下ろした、前代未聞の戦争。この噂は尾ひれ背びれがついて四大陸を駆けまわり、とんでもない女傑を擁するとしてベルナルド傭兵団は一躍有名になってしまった。
メアリは行く先々で同様の行為におよび、無闇なまでに戦争を終結させた。どんな敵であっても理不尽な力によって屈服させ、友軍には形式的な勝利と申しわけ程度の戦利を与えて納得させてしまう。噂の脅威もあってか『平和への通行証』の出番も一度きりで、結局どんな物だったのかは不明だ。
ダイン達は東大陸を横切り、もう二、三日で人間領をでる位置に達していた。現在地は異族領に最も近い国の一つであるボレミア王国跡地。広大な国土を有し、かつては栄華を極めていたがアルスに滅ぼされ、もう見る影はない。
そこかしこから異族の気配がする。常に囲まれているが、二個連隊を相手に怯んで襲ってこないあたり、取るに足らない相手だ。ここはそんな者達が逃げ込んでくるような地域でもある。故に人間軍の姿もない。道中、見る影もなくなった都市の跡が数多く見られた。もう少し進むと、いよいよ破壊神アルスの反応が見られた地域だと説明されたが、下手な嘘である。ベルナルドが「気を引き締めろ」と怒鳴っているのが、裏話を知っているダインには失笑ものだ。
さて、ここは深い森のなかに点在する草原の一つ。いつものように戦場を荒らし、本日はここを野営地と定めたベルナルド傭兵団は、思い思いのグループで自由に過ごしている。メアリのお陰で戦闘による被害は皆無だが、最悪な乗り心地の馬車での旅はこたえるものだ。
「メアリ、お前は本当に何なんだ。滅茶苦茶すぎるぞ」
「良いじゃない。私のおかげで誰一人欠けずにここまで来られた訳だし」
「そうじゃなくてな、一体何者なんだって聞きたいんだよ。やる事なす事が普通じゃなさすぎる。それに……」
声を落とし、それとなく周りを確認してみた。呑気に仲間と談笑しているのは半数程度だ。残りは陰気に囁き合い、メアリを睨んでは眉を顰めている。
「なんか、感じの悪い人が増えたね。なんでだろ」
ダインはおもむろに立ち上がり、首を傾げるメアリの腕を引いて一団から離れた。そしてしばらく考え、思うがままを話してみた。
「分からないか? 傭兵ってのは命惜しみな連中だけじゃない。戦闘に飢えてる、戦場の中でしか生きられない奴もいるんだ。この傭兵団の奴らは特にその傾向が強いらしい。それが今じゃ、居てもいなくても変わらないタダ飯食らいになっちまってる」
メアリが気色ばんだ。
「何が言いたいの? それじゃあ、私に力を使うなって? 人が死んでいくのを黙って見てればいいの?」
「違う。仲間を助ける役割は重要に決まってる。ただ、俺は正直、お前のやり方が完全に正しいとは思えない。あれじゃあ、積み上げた鍛錬も、戦略も、決死の覚悟も、あの力の前では下らない無意味なものになる。お前一人の活躍で形式的な勝利だけを手渡されたって、胸の中のわだかまりが消えない人種もいるんだ。奴ら、今に不満が爆発するぞ」
「男の世界ってやつね。戦を知らない平和ボケした女がでしゃばるなって言いたいの? それこそ下らない無意味なものだと思う。戦いなんかやめて早く生きて帰って、楽しく暮らせたら一番良いんだから。私だって馬鹿じゃないし、自分が戦場にふさわしくないのは分かってる。一部の馬鹿男の生き方も死に方も奪ってる自覚はある。それでも目の前で人が死ぬのは見たくないの。誰が何と言ったって正しい考えだと胸を張れるわ!」
かつてない大声でまくしたてられ、ダインは気圧されて黙り込む。それでも何か言い返そうとしたが、メアリが涙ぐんでいるのに気付いて、はっとした。
「私はね、私なりのやりかたでアルスを止めるためにここまで来たの。いくら悪さばっかりして世の中を破壊しようとしても、私がいる限りは無駄だって分からせてやるの。どれだけ大暴れしたって全部元通りにして、もう馬鹿らしいって思えるまでとことんやってやるんだから」
あの人達にどう思われたって関係ない、と言い残して野営地に戻っていく。ダインは追うことができなかった。
本当に伝えたい話は、これからであった。傭兵連中から悪印象を持たれたところでメアリが堪えないことは分かっている。仮に何かあっても護れば良いだけだ。
ダインが恐れているのは、メアリが未だ出会っていないであろう醜悪な悪意との邂逅だった。いくら強大といっても、決定打に欠けるどころか回復させるのみの力。戦意喪失に期待するだけでは限界がある。あの博愛精神を鑑みれば尚のこと、搦め手はいくらでも思いついてしまう。特段、狡猾な異族などは針穴ほどの隙も見逃さない。今も、否、ずっと以前から弱味を探られていないとも限らないのだ。
見たくなかった。人間離れした清廉潔白さが打ち壊され、薄黒く淀む様を。強い信念を持つ者が、へし折れた反動で二度と元に戻れなくなる姿を。
戦いなどやめて平和に暮らせれば一番良い。確かにそうだとも思う。一度ならず考えては振り払った未来。剣を捨て、メアリと共に心安らかに暮らす日々。空想を重ねる度に温かなものが込み上げるような生活。しかし不可能なのだ。ダインもまた、メアリの言うところの馬鹿男に過ぎない。生き方も死に方も奪われた気になって、下手な物言いの末に女を涙ぐませる、剣狂いの性を抑えきれない半人前だった。
「駄目な野郎だ……!」
長剣を抜き、近くの木を斬りつけた。舞った木屑が目に染み入る。
八つ当たりを終えたのは夜も更けた頃。野営地であまりにも目立つ小さな背中が寝息に上下していた。そこから少し離れ、視界に入る位置でダインも横になる。
いくら払い落としてもどこかに付いている木屑に辟易としながら、あちこちの焚火の明度を見比べたり、メアリの後頭部を眺めたりしていた。
苛立ちで眠れず、哨戒当番でもからかいに行こうと思っている内に空が白んできた。どうにも目が冴えるので剣を振りながら、時折メアリの寝言に気を散らされる。ほとんどがダインの悪口だった。
どんな顔で向き合うべきか分からなかったが、言いそびれたことだけはどこかで伝えようと心に決めた。
少しすると、朝の点呼を告げるやかましいラッパの音が鳴り響く。少ない荷物をまとめている間、二人は会話はもなく視線を合わせない。
皆が整列すると、いつも通りにベルナルドが怒鳴り散らす。最近わかったことだが、感情が昂ぶっていなくても大声で喋る人種なのだ。
「うるせえなぁ、偉そうによ」
寝不足なので余計に耳障りに感じる。心底うんざりだと顔をしかめていると、一人の中隊長がベルナルドに何かを報告し始めた。ひどく焦っているようだが。
「なんだと、貴様!」
丸太のような腕が哀れな男を撥ね飛ばすと、気だるい朝の空気がぴんと張りつめた。
のたうち回る部下を蹴りつけ、一括する。
「さっさと探してこい! あんな雑魚共でもタダじゃないんだぞ」悲鳴をあげて逃げる中隊長の背に、追い打ちの罵声。「三十分で戻れ! でなきゃ代わりに頭を割ってやる!」
頭を割るのが好きな野郎だ、と欠伸をしながらも事態を察した。脱走兵だろう。珍しくもない。ただし、こんな地帯でなければの話だ。
「なぁ、糞ジジィ」
「く、糞ジ……?」
ベルナルドがぎょろりと睨む。周りの者が散っていく。ただでさえ機嫌が悪いというのに、どんな目に遭わされるか知れない。
「おかしいと思わないか」
「おかしいのは貴様の態度だ」
「聞けよ。見たところ足りないのは大した数じゃないんだろ。せいぜいが数十人だ」
「若造が口を挟むな。黙って待機だ」
「こんな場所で孤立したら無事じゃ済まない。知性はなくても生存本能だけは優れたアイツらなら、自力で生き残れるタイミングで脱走するだろうぜ。過去に機会はいくらでもあったのに、今ってのは妙だ」
「脱走じゃなければ……何だって言うんだ。まさか」
森から、無数の鳥が飛び去った。脅威的なものに追い払われたような、必死の飛翔と見える。
メアリがダインの腕を掴んだ。どんな攻撃も平気な女が、怯えきって声も出ない。青ざめた顔は、未曾有の良からぬ者の気配を存分に感じているようだった。
「ダイン……」
か細い手の震えに、闘争心を刺激された。危うく遠ざかりかけていた本来の性分が沸き上がった。凍てつき吹きすさぶ殺気にあてられて冷え切った脳が明晰となり、剣身の温度と同期してゆく感覚。
「大丈夫だ。俺とお前がいる」
ダインの荒々しい抜剣を合図とするように、他の者も武器をとった。千人弱は一塊となり、全方位の森を警戒。上空と地中にも意識を張っていたが、どうやら敵の攻めはシンプルな形態だ。
濃すぎる気配に、誰もが逃げ場のないことを悟る。呼吸だけが聞こえる緊張感のなか、包囲網の狭まりを知らせる異族特有の生臭さが鼻腔を突く。肺を侵されそうな悪臭に耐えていると、今度はまばらな小石の雨が降ってきた。
ぱらぱらと、何ら有効打にならない攻撃が、傭兵団を恐怖に陥れた。降っていたのは、切断された指や耳鼻、くり抜かれた眼球や細分化された人骨、歯と歯茎。一部の動揺は全体へ伝播し、取り返しがつかなくなりかけた。
「落ち着かんか! こんなものは在り来たりな揺さぶりだ。貴様ら百戦錬磨の意地を見せろ!」
ベルナルドの怒声でひとまずは士気が戻ったかに思えたが、続いて赤い泥のような半固体が、とろみのある驟雨となって降り注いできた。ダインはメアリを庇いながら、半固体が付着した素肌の経過を観察。毒ではなく摺り下ろされた人肉であり、とろみの正体は浸出液や脂肪分等であることを確認した。
また、あちこちに転がる人体部位は、どれも直ちには持ち主の絶命に繋がらない小さなものばかりであることから、敵の狙いは想像がつく。明らかに、こちらの特定の存在を封じるための作戦だ。
半数の者は耐えきれずに嘔吐し、あてもなく逃げ惑い、狂った者は森に消えて二度と戻らなかった。
腹部が圧迫された。子供のように抱きつくメアリは、ダインの横腹に顔を埋めながら立っているのがやっとな状態だ。
「メアリ、絶対に顔を上げるんじゃないぞ。分かったな」
頷く動作が脇腹に伝わる。
悪臭が強まり、森の奥から苦悶に満ちたうめき声が聞こえ始めた。
人間との戦いでは決して体験し得ない、途轍もない悪逆非道、夜より暗い殺意の渦が、木々の間から姿を現す。
輪郭は、ウニと例えれば良いだろうか。日光を鋭く反射し、神経質に動きまわる棘を含めると、直径は四メートル程度。最も不気味なのは、個体によって本数の異なる白い手足だった。身体に対して極めて細く、人間のものに酷似するが多数の指を持つ。折れてしまいそうな脚部で、しかし安定した歩調で近づいてくる。
思った以上に密な包囲だ。水も漏らさぬ陣形は、一体の環状生物が中央に収束するような具合で隙間がない。さぞや硬いであろう無数の棘が、恐るべき槍衾となって得物を位置を探っている。
「怯むな!」汗まみれのベルナルドが空気を変えようとする。「震えながら死ぬのを待つつもりか。弓箭隊、法力兵隊、撃ち方用意!」
いつもの怒号に、脊髄反射で構えをとった数百人。そんな兵達をあざ笑うかの如く、敵の一手は素早かった。前列の異族達が一斉に棘を射出。漆黒の長槍は三、四人を破壊しても速力が衰えず、人間の集まりに貫入した。
連続的な破裂音の後には二個連隊など無く、血糊が広がるばかりである。生き残ったのは運の良い者か、よほどの手練れのみ。後者であるダインは部隊の損耗が約九割にのぼること、棘をたたき落とした長剣に刃こぼれがないこと、メアリが無傷であることを淡々と把握した。
ベルナルドが生き残っているのが意外だった。あの程度の男に凌げる攻撃ではなかった筈だが、運に救われたか。
異族共は何を思ったか進行をとめ、こちらの動きを窺っている。とにかく今は戦力差を埋め直すのが先決だろう。
「メアリ――」
顔を上げずに力を使え、との指示を待ちきれる性格ではなかった。いつの間にかきょろきょろと惨状を見回し、敵の異形と仲間の残骸を一瞥するや否や、すかさず血の湖に向けて〝手〟をかざした。
嫌な予感にダインが青ざめたが、遅い。異族共の手が赤いものを掴んで伸長し、法力を放つメアリの眼前に、鮮烈な色彩の肉塊を吊り下げたのである。
数十人。恐らくは脱走していた傭兵達。全身の皮をくまなく剥かれ、露出した黄色い脂肪分と、浸出液の滝が滴っていた。その上で筋肉繊維はおろし金に似た物で擦られたのか、荒く削がれて枝毛のように裂けていた。先刻にばら撒かれたのであろう耳鼻や指、眼球はやはり失われ、唇すら奪われて開ききった口内からは唾液と吐瀉物が止めどなく溢れる。更に両手足からは骨だけが抜きとられ、空になった四肢が軟体動物のように曲がりくねっているのだ。
低級な異族にありがちな、戯れの虐殺とは違う。これだけ加害されていながら傭兵達には出血が見られない。敵の体液と思しき白濁したもので意図的な止血を施され、意識を保ち、動かぬ身体の代わりにせめて涙を流し、うめき声をあげて生存を示している。こちらの、主にメアリの精神を責めるために計算され尽くした拷問。
ある程度の予想をしていたダインですら、度を越えた凄惨さにしばし放心の体であった。「ダイン、大丈夫だよ」意外にもメアリは落ち着きを取りもどし、無残なオブジェと化した人体を順調に再構築していた。「私は回復に専念するから……だから、それまで私を守って。お願い」
「任せておけ」
どんな手でも使ってくると良い。そんな気概で長剣を振り回すが、むしろ敵はじりじりと後退しだす。動きが統一されていることから、これもまた術中と思われる。
「ちょっと、やめてよ!」
メアリの叫びに振り返ると、回復途中の傭兵たちが再びの拷問をうけているところだった。人間に似た手は、多くの指を器用に操っては細かい作業を行うのだ。戦闘では役に立つべくもない手指は、明らかにそれ用の器官と思われる。鼻が生えれば千切り投げられ、耳が揃えば毟り取られ、骨が伸びれば抜き出され、薄皮の張った箇所からまた剥かれていく。
阻止すべく斬りかかっても、仲間達を盾にされてしまう。
――どうする……!
歯噛みしていると空が翳った。生き残って抗戦していた百人弱の傭兵たちが、異族共の手に捕らわれて空を泳いでいる。彼らもまた抵抗むなしくあらゆる解体を施され、声にならない叫喚をあげて、やはりメアリの周りに吊り下げられるのであった。
血だまりから蘇り、徐々に人間の姿を取り戻してきた者達も、意識を持ったタイミングで捕獲されて同じ運命をたどる。
今や、残っているのはダインとメアリだけのようだ。奮闘していたベルナルドも気がつけば消えていた。
いつしか、逆さ吊りの半死人で造られたドームが、たった二人を覆っていた。回復しては傷つき、再生しては壊される仲間達。メアリは無自覚のうちに、終わりなき大拷問に加担させられていた。
千の苦悶の大合唱だ。地獄なる世界が実在すれば、こんな光景なのだろう。メアリは回復を続けても止めても結果が同じである現状を、どう打破したものか皆目見当がついていない。憔悴して別人のようにやつれている。清廉な思考回路では想像だにしない精神攻撃の極致に、人格が呑まれようとしている。
重奏的な悲鳴のドームが狭まってきた。やがて至近、所によっては息が届く距離が肉壁に満たされる。むせ返るような生臭さ。
仲間達の切実な望みがはっきりと聞こえるようになった。皆一様に、早く殺してくれと懇願していた。
メアリの法力が完全に止まった。止めざるを得なかった。すると敵も加虐の手を休めて様子を窺ってくる。膠着の間、仲間達の声が神経を刺す。
「メアリ、もう奴らを救うのは諦めろ」
この短時間で目が落ちくぼみ、頬さえ痩けたかに見えるメアリは、気の毒なほど盛り上がった鳥肌と、血の抜けた青白さで立ち尽くす。このままでは壊されてしまう。懸念していたことが悉く現実になっていく恐怖に足が萎えてきた。
「私は……私はどうすれば良いの……」がちがちと歯の根も合わず、溺れるような泣き顔でダインを見た。「分からない……助けて」
「これ以上は敵の狙いに落ちるな。異族の忍耐力に限界はない。このまま消耗戦を続ければ必ず負けるぞ」
「でも……」
「こいつらは、お前さえいなければ勝負がつくことを理解している。まともにやったらキリがないことも。だから心を狙いにきた。絶対に潰されるなよ……。そうすれば希望は見える筈だ」
「分かったよ……ダイン」
酸素濃度が薄まってきた。弱々しくも荒い多人数の呼吸が、思考能力を鈍らせてくる。様々な液体を浴びて全身が粘つく。気がおかしくなりそうだ。
「俺がこの壁と、敵の包囲を切りひらく。背中から離れず、俺が死んだら死体を奪われる前に蘇生してくれ」
「……うん」
不安げに首肯した。
ダインが克服すべき邪念は、この突破が失敗した際の映像だ。真っ先に捕らえられたメアリがどうなるか。自らの力のせいで延々と責め苦を与えられ、やがて心が摩滅して醜い姿で息絶えるのだろう。
「させるか異族共がよぉ!」
余計な考えを怒りで掻き消す。意を決したダインが躍りかかった――長剣を振り下ろすより先に肉壁が爆裂した。呻く仲間達を突きやぶって、一本の棘が飛来してきたのである。
棘は正確にダインの鳩尾を貫き、背後にいたメアリの腕をも刎ねた。
不意打ちを受けたダインは胴の風穴から臓腑を撒き、倒れる衝撃を最後に痛覚が遮断され、何も見えなくなった。と思った瞬間には目覚め、こちらに〝手〟をかざすメアリが首を貫かれて死んだ。
「メア――」
立ち上がりかけた膝を吹き飛ばされ、額に硬いものが当たる感触を覚えると、再び世界が暗転した。次に目覚めた直後には四肢の根元を破壊され、多量失血で三度薄れゆく視界のなかでメアリが串刺しにされていた。