意固地な男とごろりな男
「ねぇ、いい加減にしようよ。」
俺の仕事場に勝手に入って、いつものように邪魔をし始めた親友が、彼がこの数日間俺に繰り返しているものと同じ言葉を再び繰り返した。
「いい加減も何も、クロが出て行くって出て行ったんだ。以前にも同じ事を言った時は、俺は去るものは追わないってあいつに言ってあったんだから、俺がどうするものでもないだろう。戻りたいとあいつが泣くなら勝手に戻って来ればいいだけの話だろうが。」
乱暴にコンロの汚れを落す俺に、楊は白旗を上げたかのような溜息を付いた。
「チビは戻りたいとも言っていないし、泣いてもいないよ。」
「良かったじゃねぇかよ。独り立ちだ、褒めてやりな。山口と仲良くしていれば奴は幸せなんだろう?」
しゃがんだ姿勢のまま、再び楊は大きく溜息をついた。
「山口は完全に切られた。凄いね、チビは。着信拒否で一切繋がりを切っちゃったからさ、山口は幽霊に逆戻り。移動願いまで出している始末だよ。移動願いは髙と協議して握りつぶしたけどね。」
髙悠介とは楊の相棒で副官の公安出身の警部補である。
身長も体つきも楊と似ているが、楊よりも手足は長くなく、楊と違い一重で地味な顔立ちだ。
楊が派手過ぎる顔なだけだろうが。
しかしながら、髙はそんな派手な楊と並んで霞むどころか、時として楊を消し去るほどの存在感を示すのである。
髙が元公安という経歴の持ち主で、経験値が楊よりも高いためだろうか。
そして、山口が髙が公安時代に育てた手駒であり兵隊でもあるからか、楊までも山口を自分の弟のようにして扱っている。
「お前達がそんなに心配してくれているなら、山口は大丈夫だろ。」
しゃがんでいた楊は、俺の言葉に打ちのめされた風にして、仰向けにその場にぺたりと転がった。
「馬鹿、此処は作業中で汚いぞ。背広の背中が埃塗れになるだろうが。」
寝転んだ楊は、寝ころんだまま俺を無言で見返していた。
「何だよ。」
「俺が心配なのはお前だよ。髭どころか頭も剃っていないじゃんか。そんなに辛いならチビに戻って来いって呼びかければいいだろ。着拒されていてもチビがいる場所は知っているだろ?」
帰って来いと、俺が玄人に呼びかけろだと?
そんな情けない事を俺が出来る訳ないだろう。
それでも楊の言葉に、そっと自分の頭を頭を無意識に撫でていた。
畜生、確かに髪があり、ここ何日か剃ってもいない事に気が付いた。
それは、俺が鏡を見たくないからだ。
あいつが消えた翌日の鏡に映る俺は、見たこともない情けない顔をしていた。
以前に似たような喧嘩をした時の玄人は、俺が引き止めもしないことを知るや、居座ってやる、と家を出て行かなかった。
今回は宣言どおりに一切合財、自分の荷物を引き上げて消えた。
我が家のそこに玄人がいたよすがも残っていない。
いや、ある。
あいつは俺が与えたものは全て置いていったのだ。
帰宅した俺が目にしたものは、ちゃぶ台に転がっている俺の贈ったネックレスだった。
我が家の合鍵は俺が彼に言ったとおりに郵便受けに入れてあり、俺が買ってやった服はきっちりとダンボールに纏められて押入れに入っていた。
そして、俺が設置してやった神棚までも、綺麗に撤去されていたのだ。
あいつの、あいつだけの神様だという神棚。
持って行くには重かったからか、叔父の孝彦に作ってもらったテレビ台と本棚は我が家に置きっぱなしであったが。
俺はあいつがもう二度と我が家に帰る気は無いのだと、悉く受け入れた。
そこで、その翌日にあいつが残した物を捨てようとしたのだが、俺は未だにあいつのものを捨てられずに取ってある。
情けない。
けれども、捨てようとするたびに、我が家に来たばかりのあいつが、僕の思い出です、と言ってそれらを大事にしまっていた記憶を思い出すのである。
その上、俺の情けなさはまだ続く。
俺は朝夕のお勤めまでサボっているのである。
仏間には玄人が消えてから一歩も入っていない。
「俺はあいつがいる場所は知らないよ。あいつが行ける場所は沢山有りすぎるからな。青森の本拠地は勿論、母方の実家の新潟の白波家、白波の従兄は東京にいるから彼らの家かもしれないし、子供同然に可愛がってくれる孝彦叔父の実家の「世界の橋場建設」の本宅などね。橋場の次男の孝継はいつでも養子にしたいと涎を垂らしている状態だ。あっと、孫同然の海運王の早坂辰蔵の家もあったね。あいつは俺と違って何処にも行けるし、何処でも受け入れられるんだ。」
「もー。」
楊はいつもの声を出し、そのままゴロゴロと転がって俺から離れた。