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救い手

 車は古ぼけた家の前に辿り着いた。


「さぁ、僕達の家だよ。」


 助手席のドアに回った加瀬が、僕をそっと腕に抱き上げた。


「少しどころか片づけが必要だね。此処は火事が出てそのままだったからね。母屋は駄目でも離れは無事だからそこに連れて行くよ。水道もガスも昨日のうちに手配したから大丈夫。掃除も頼んだけど、そっちはどうかねぇ。」


 僕を抱えて楽しそうに喋りながら僕を運ぶ加瀬は、数歩の所で立ち止まった。

 僕を抱く腕の力が篭る。


「僕から無理矢理奪おうとすれば、玄人君が死にます。」


「ふざけんなよ、若造が。今すぐに死にたくなる目に遭わせてやろうか。」


「それじゃあ、ただのやくざですよ。」


 良純和尚の怒号と髙の呆れ声に僕は噴出せたらいいのに、と嬉しさに目だけを凝らした。

 無精髭と剃ってないボソボソの頭をした破れ坊主。

 僕は思わず手を彼に差し出す。


 あぁ、腕が動かせた。


 僕の姿に目を見開いて驚いた良純和尚であったが、それでも鬼の顔を一瞬で和らげ僕の手を掴もうと彼も手を伸ばした。


 僕達の指先は触れ合い、けれど、僕は後ろに下げられて彼から引き裂かれた。


 加瀬が後ろに下がったのだ。

 後ろに下がり、彼は僕を抱えたまま駆け出した。

 潮の香りがする方向へ。

 全ての命の始まりの場所へと。


「待つんだ。加瀬。僕が生き返らせるから、おい!」


 神埼署長の声だ。

 彼も来ている?

 命を与える?


 彼の使う、鼬。


 暗い暗い世界で、暗い暗い世界で僕はあれに会った事がある?


 ほら、ママが死んじゃったあの時!

 暗い暗い世界で誰かが僕に語りかけたじゃないか。


「まだ君は死なないよ。僕が死なせないからね。」


「ママがママが死んじゃった。僕のせいで死んじゃったよ。」


 真っ暗闇の中で、祖父ではないけれど懐かしい男の人が、泣く僕の背を撫でた。

 父は僕をこんな風に撫でてくれた事は無かった。

 ママがいないのならば、これからはこの人に撫でて貰おう。

 ママがいなくなって真っ暗な世界なんだから、僕が知らない人の言うことを聞くのは仕方が無いでしょう。


 駄目だったら、ママが戻ってくればいいんだ。


「ほら、玄人。この子が君の灯りになって君を体に返してくれるから、この子の後をついて行きなさい。でもね、この子は嘘吐きだからこの子の言葉は聞いちゃだめだよ。」


 僕はママのいない世界で可愛がってくれる人に縋ろうと、彼に答えていた。


「言うとおりにする。」


 すると僕の返事に答える様に、真っ黒の人型から、ヒョイと銀色の小型の獣が躍り出たのである。


「さぁ、あの子の後を付いていきなさい。」


「いや。やっぱり、いや。怖い。」


「行きなさい。ちゃんと僕が見守っているから。ほら。」


 僕は嫌われたくない一心で、その銀色の生き物の後を追いかけた。

 それはひょこひょこと辺りを照らしながら、僕を時々待ちながら、先へ先へと進んで行く。

 後ろを振り返ると、あの男の人の影の存在が消えていた。


「僕は騙されたの?」


 僕が立ち止まると銀色の獣も立ち止まり、僕の方を向いて小首を傾げている。


「ママがいないなら、僕は帰りたくない。お父さんは僕が要らない人なんだ。孝継パパだって僕よりも真くんだもの。誰にも優しくされない世界なんかに僕は帰りたくない。」


 数歩先で僕を待っていた獣は、僕の言葉に小首を傾け、それからつつつと僕の方へ駆け戻ってきたのである。

 そしてその小さな綺麗な獣は僕を見上げると、人間のようにニンマリと口を歪めた。


「皆のことを全部忘れてしまえばいいんだよ。知らない人に嫌われても傷つかないでしょう。ついでに君の力も全部捨てちゃえ。撫でられたいなら赤ちゃんになってしまえ。」


 僕は鼬の言うとおりに記憶を封印して、力もできるだけ捨て去った。

 何も覚えていない僕は赤子のように扱われ、搾取され、そして幸せになった。

 僕が力を失ってどうしようもなくなったからこそ、僕は僕だけを愛してくれる良純和尚に出会えたのだ。


「加瀬君、この不幸は辛いけれど、君が語っていた通り僕達は出会えたし、君も受け入れられて幸せなはずだよ。せっかく今は幸せなのに手放しちゃ駄目だよ。髙さんも、相模原で待つかわちゃんも、君を、僕だけじゃなくて君の帰りを待っているよ。」


 僕はいっそう加瀬に強く抱きしめられ、そして、彼の腕ごとトスンと落下した。

 彼が僕を抱きしめたまま跪いてしまっただけだ。

 彼は僕である僕でない体を強く抱きしめて、子供のように顔を押し付けて泣いている。


「僕はこの目覚めなかった人を愛しているんだ。この人だけを愛しているんだ。なぜだかわからないけど、この人に逢うためだけに生きてきたんだ。全部を失ってもいいから、お願いだから僕だけを愛して。僕を抱きしめて。」


 僕の腕はゆっくりと動き、加瀬が望むように、彼を唯一の存在のように抱きしめた。

 この体が勝手に動き、加瀬を抱きしめて、そして僕は理解した。


 再生と復活を望んだ者の企みを。

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