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私は牧場を失っただけ

「え、東史雄って放火殺人犯の橋場峰雄が名乗っていた名前だけどさ、本物の本人はすごいおじいちゃんでしょう。」


 楊の言葉を聞いたからか、にこやかに微笑んだ弁護士が席を立った。


「此方の美女はどなたです?私の依頼人が懸想するだけありますね。」


「お前がどうしてまことさんの顔をしているんだ!」


「ちび、真って、あの樺根かばねまこと?本物の橋場の四男。」


 どこかで見た顔だったのは、俺が樺根真の遺影を見ていたからかと気が付き、そして、哀れな真の生い立ちも思い出していた。

 彼は、橋場善之助の妻が緑川という男と浮気して出来た子共であり、産まれた時に緑川の妻の子供と取り換えられて捨てられ、そこで樺根真という名前を与えられて孤児として育ったというものだ。


「こいつの顔は僕のせいで峰雄に殺された真さんの顔です。どうして、どうして!この男の本当の顔が真さんと同じなのはどうして!真さんの血縁上の父親は峰雄と同じ緑丘みどりおか譲治じょうじでしょう。」


 目の前の若い弁護士はやれやれと言う風に首を振り、自分が先程迄座っていた椅子を牢ではなく俺達の方へ向け直すと、そこに再び腰を下ろした。

 真面目そうな姿には似つかない、胸の前で手を組み、足を投げ出した格好で。


「緑丘譲治はね、僕の出来損ないの息子なんだ。」


「何の冗談だよ。お前は本当に八十代の東史雄だというのか。それじゃあ、峰雄が起こした連続放火殺人事件の重要参考人として、逮捕させて貰いましょうか。」 


 楊が玄人を庇うようにして前に一歩出ると、東はにやりと口角をあげ、これみよがしに両手をパシリと打ち付けて音を鳴らせた。


「ぎぃやぁああ。」


 断末魔の叫び声をあげたのは、目の前の弁護士が守っていたはずの男である。


「クロ!」


 俺はとにかく玄人を後ろから引き寄せて、左腕に抱える様にして抱き締めた。

 人間が一瞬で火達磨になったのだ。

 突然の炎が両手両足から噴き出した時点でその哀れな男は叫び声をあげたのだが、その炎の激しさも叫び声もその一声と一瞬だけで、男は後ろに倒れこみ、今や暖炉の薪のようにゆらゆらと燃えているだけである。


 椅子に座ったままの東は、投げ出した足の上に組んだ両手を置いたまま後ろを振り返りもしないどころか、背後で起きている悲劇を喜んでいるかのようにくすくすと笑っているだけだ。


「ちょっと、消火器、どころか、どうしてスプリンクラーも何も作動しないの!」


 事態に茫然としていた俺達のうち、危機管理能力が高いのは楊の方であったらしい。

 彼は声をあげただけではなく、直ぐに手近にあるはずの消火器か何かを取りに走り出し、だが、数歩で彼の足がぴたりと止まった。


「どうした?」

「…………どうしよう。」


 楊の元に行く必要も、楊が唖然としているその視線を追う必要もなく、俺は事態を把握させられたのである。

 俺達がいるのはそれ程広くなく四つの牢があるだけの留置室だったはずが、今や俺達の目の前の牢と俺達が立つ数メートル四方の空間が連続して並ぶミラーハウスのような無限の空間となっていたのである。

 玄人を引きずりながら後退ると、俺の背中は固い壁のようなものに当たった。


「無限ではなく、俺達は数メートル四方の空間に閉じ込められているんだな。どうして、こんな事が。」


「俺が知るわけ無いでしょう。俺は不思議課でも飾りの課長さんなんだしさ。」


「お前がやったのか?」


 俺は俺達を見上げながらも、俺達を見下しているような男を見返した。

 その男は鼻で笑うと、俺の左側へとあごをしゃくった。


「君の隣の男に聞けばいいじゃないか。」


 俺は玄人を見下ろし、しかし、玄人は楊を見つめていた。


「え、どうして俺を見るの?ちび?」


「だって、結界を作ったのは東じゃない。僕でもないし。だから。」


「俺のわけがあるはずないじゃん。それにさ、手下を殺したのはその男でしょう。」


「だって。東が手下を殺したのは、だって、世界が閉じちゃったから。だから、この男は自分のエネルギーの補充に人を殺したの。違う。エネルギーを奪う時に、エネルギーが人の体から出る時に、細胞までも燃やしていまうだけなのですね。」


 男は軽く両の眉毛を動かすと、玄人に対して賛美とも思える表情を浮かべた。


「そのとおり。僕は無駄な殺しはしない。僕はね、無駄に人を殺して恨みや悲しみを増やしたくは無いんだ。だからこっそりと自分だけの牧場を作っていたというのにね、馬鹿な家畜が逃げ出して、僕に成り代わろうとしたんだよ。家畜に名前をつけたのが失敗だ。」


「家畜?緑川が家畜?」


 俺達は東をただ見返すしかなかった。

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