五・さらわれた女刑事
町外れの閑散とした土地の道沿いに、空き家となっている寂れたテナントがポツンと建っている。かつてレンタルビデオ店が営業されてたそのテナントは十年ほど前に店が閉店して以来、次の買い手がつかないまま手付かずの状態となって放置されていた。中には今でもレンタルビデオ時代の棚が埃を被った状態で置かれている。
そんな建物の横に一台の白いライトバンが停まった。そしてライトバンの運転席から黒色のマスクを付けた金髪の男が周囲の様子を窺いながら出てくると、鍵が開いたままになっているテナントの中に入って建物の奥に隠してある運搬用の一輪車を押してもう一度外に出た。
一輪車を車の横に停めると、男は車の後部座席のドアを開けた。扉を開けるとそこには手足を縛られている若い女がひとり、横たわってぐうぐうといびきをかいて眠っていた。
……どうしてこんなに気持ち良さそうに寝ていられるんだ、こいつ。
目の前でぐっすりと眠っている大川千尋をみて、彼女を誘拐した田中英治は困惑した。
この日、大川千尋誘拐計画の立案者である霧崎洋介の指示で早朝に千尋の住む家まで行った英治は、洋介の指示通り彼女のミニバンのタイヤに千本通しで穴を開け、タイヤをパンクさせた。
そして夕方には友人から借りたライトバンを駅ビルの路地裏に停めて、そこに千尋が洋介の車に乗ってやって来るのを待った。そして千尋が車から出てきたところを、英治はクロロホルムを染み込ませたハンカチを彼女の口に押し当てて眠らせてここまで運んできたのだった。
まったく、どうして俺がこんなに動きまわらなきゃいけないんだろう? あの刑事を脅して簡単に金を手に入れるつもりだったのに──そう思った英治だったが、ここまで乗せられたからには最後までやり切るしか道はなかった。そして、あの刑事には金を一銭も渡さないぞと心に誓った。
英治は一輪車を開いたドアのすぐ横まで動かすと、眠っている千尋の上半身を起こして一輪車に乗せようとした。
「うっ、この女、重いぞ」
千尋は少々肉付きのいい、グラマラスといえなくもない体型をしていたが、その分体重は重く英治は運ぶのに苦労する羽目になった。
英治は千尋の上半身を羽交い締めにして車から引きずり下ろし、一輪車の上に乗せてテナントの中へと運んでいった。千尋を乗せた一輪車を部屋の奥まで運ぶと、これまた苦労しながら千尋を一輪車から降ろし、彼女を近くに置いておいた椅子に座らせて両手両足をロープを使って椅子に縛りつけた。
こんな扱いを受けてなお眠り続けている千尋を起こそうと、英治は彼女の頬をぺちぺちと叩いた。
「おい、起きろ」
栄治が呼びかけても千尋は「ううん」と声を漏らすだけで、目覚める気配を見せなかった。
「ほら、早く起きるんだ、おい!」
「ううん、あたしそんなに食べられないってば……」
「どんな夢見てんだよ! 早く起きろ!」
「あ、あと五分……」
「小学生かあんたは! 早く起きろってんだよ!」
苛立ちが頂点に達した英治は拳を固めて、寝言を繰り返す千尋の頬を思い切り殴った。殴られた千尋は椅子ごと床にバタンと倒れて、ようやく目を覚ましたようだった。
「うう、痛ったあ……なんなの、一体」
千尋は情けない呻き声をあげながら周囲を見渡した。
「あれえ、うち、いつの間にこんなリフォームしたんだろ」
そういってまだ寝ぼけている様子の千尋の頬を英治は平手打ちした。
「あんたいい加減目を覚ませよ! ここはあんたの家じゃないんだよっ」
英治は横倒しになっている千尋の体を起こして、彼女の頬をつねった。
「いててっ、んもう、なにするの……ん?」
意識を取り戻した千尋はきょとんとした顔で、目の前の黒いマスクを付けた男を見つめた。
「ここ、どこ? それにあんた、誰?」
どうやら千尋は薬を嗅がされる前の出来事をはっきり覚えていないようだった。
「自分がどんな立場に置かれているか、よく判っていないみたいだな。俺はな……」
「うっわあ、黒マスク付けてるなんてだっさい!」
「話を聞けっ!」
英治はレザージャケットのポケットに入れておいた小型のジャックナイフをサッと取り出し、それを千尋の首もとに軽く押し当てた。
「なあ、あんた、今どういう状況か判ってんのか?」
ギロリと睨む英治の目と銀色に光る鋭いナイフの刃をみて、千尋の額に冷や汗がひとすじ流れた。
「こ、このナイフ、刺したら刃が引っ込むおもちゃだよね……?」
「引っ込むか試してみるか?」
「けけけ、結構ですっ! だからそれしまってっ」
「きちんと俺のいうことを聞いて、大人しくするんだな?」
「する、するから」
「よし」
英治が首もとからナイフの刃先を離すと、千尋はホッと息をついた。
「いいか、あんたは誘拐されたんだ」
「誘拐……? このうら若き乙女を誘拐して、いったいなにしようっていうの?」
「あんた、うら若き乙女なんて歳じゃないだろ」
「いいんです! 乙女はいくつになっても乙女なんです!」
「判ったから少し黙ってろ! いいか、俺はあんたが余計なことをしない限り乱暴なことをするつもりはない。もっとも、これから行われる身代金の取引で相手側になにか不手際が起こったときは、その限りじゃあないがな」
英治は上着のポケットから、アルミホイルに包まれている小さな板状の物体を取り出した。
「それ、なに?」
「さっきあんたの鞄から拝借した、あんたの携帯電話だ。GPSだとかの電波が漏れないように、こうやってアルミホイルで包んである。まずあんたにはこいつの暗証番号を教えてほしい。もし間違った番号を教えたら……判るな?」
英治はそういって千尋の目の前に再びジャックナイフの刃をかざした。
「う、うんっ、ちゃんというよっ。ええと、0508、0508だからっ」
英治はアルミホイルから携帯を出すと、素早く千尋のいった番号を入力した。そしてロック画面が解除されると、英治は設定画面からGPSの設定を切った。
「あのさ、ちょっと質問していい?」
「なんだ」
「あんた、あたしを身代金目当てで誘拐したんだよね」
「それがどうした」
「いやあ、あたしの身代金、いくらくらいなんだろうなあと思ってさ。いくらなの?」
「そんなこと聞いてどうするんだよ」
「いいじゃん、それくらい教えてくれてもさ」
「あんたな、自分の立場判ってんのか?」
呑気な千尋に英治は心の底から呆れた。
「……二千万円だ」
「えーっ、二千万円! そんな大金、何に使うの?」
「うるさいなっ、そんなことはあとで考えるっての!」
英治は近くの棚から、革紐を通した無数の穴が空いているゴム製のボールを出した。
「そ、それなに?」
「ギャグボールっていうんだ。ようは猿轡ってやつだよ。いまからこれをあんたの口に付ける。大人しくしろよ」
ギャグボールを手に持って近づいてくる英治に向かって、千尋は大声で叫んだ。
「……い、いや、嫌あああああああーっ!」