三・秀才の買収
特別棟から走り去り、校舎にある自分のクラスの教室まで戻った智和は大急ぎで帰る支度をした。教室には彼以外誰もいなかった。
こんな所に長居は無用だ。騒ぎが大きくなる前にとっとと学校から逃げ出さなければ。
テキスト類を乱雑に鞄へ詰め込んでいたその時、智和はとても重大なことを思い出した。
まずい! あの女のことを忘れていた!
彼が思い出したのは先ほど風紀委員室に入る前に、部屋の前で顔を合わせた女子生徒のことだった。
あの時彼女は智和に向かってお辞儀をし、わざわざ彼に挨拶までしてきたのだ。顔は確実に見られてしまっただろう。もし彼女が事件の起こる前に智和を目撃したと証言すれば、彼の立場が危うくなるのは間違いない。
それに気がついた智和はすぐさま教室から飛び出し、学校中を駆け回ってあの女子生徒を探し始めた。
しかしそう簡単に彼女を見つけることはできなかった。なにせ名前を知らなければ、所属している学年やクラスも知らない。手がかりは特に特徴のないあの容姿だけだ。
それに加えて下手に怪しまれたらまずいので、人に尋ね回ることもできない。そんな状況下で彼女を探し出すのは至難の技だ。
もしかしたら、もう学校を出て帰ってしまったという可能性も十分にあり得る。だとしたら彼女に会って口止めをするのはもう不可能だ。もし彼女に自分のことを証言されたらと想像した智和の背中に冷たいものが走った。
校舎の中を回っていると、廊下で教師と何人もすれ違った。恐らく風紀委員室での事故を聞きつけて、大急ぎで現場に向かっているところなのだろう。
職員室の近くまで来ると、部屋の中は大騒ぎになっているようだった。青ざめた顔をしてデスクに置かれている電話でどこかに連絡をしている教師、部屋の中から飛び出してくる教師と、その光景をみて智和は今更ながら自分の起こした事態の大きさを改めて認識することなった。
そのなかで、ある教師が女子生徒となにやら話をしていたのがみえた。よくみると、教師は智和のクラスの英語担当の松浦秀義だった。そして彼の話し相手である生徒の顔をみて、智和は目を剥いた。
間違いない、さっき風紀委員室の前で出くわしたあの女だ!
彼女たちが何を話しているのかは全く聞こえなかったが、秀義が周囲の空気に影響されたのか慌てて話を切り上げると、女子生徒は教師にお辞儀をして、傍に置いてあった自分の荷物を持って部屋から出ようとした。
一連の光景を見た智和は近くの物陰に隠れ、目の前を彼女が通るのを待った。そこで彼女を待つ間、彼は一秒が過ぎるのに一分もかかっているように感じた。
そして問題の女子生徒が視界に入った時、智和は「君っ」と慌てて彼女に声をかけて手招きをした。
女子生徒がぽかんとした顔でこちらのほうに来ると、智和は彼女に尋ねた。
「君、俺のことを覚えているか」
その問いに彼女は「ああ!」と声をあげてぽんと手を打つと、先程と同じように智和に向かってお辞儀をした。
「どーも」
やはり、ばっちり顔を覚えられていたらしい。もし見つけられなかったらどうなっていたことか。
「挨拶はいい。それより俺から君に受け取って欲しいものがあるんだ」
そういって智和は制服のズボンのポケットから財布を出すと、そこから五千円札を出した。さっき芹澤に渡すつもりだった金だ。
「受け取ってくれ」
そういわれた女子生徒は、智和から差し出された紙幣を不思議そうに眺めた。
「その代わり、今日俺の顔を見たことは誰にもいわないでくれ。頼む」
智和の頼みに対して、彼女がなにかを言いたそうに口を開こうとした。だが智和はその口に手を当てて制した。
「悪いけど質問はなしだ。とにかく、黙っていてくれればそれでいいんだ。どうだ、頼めるか」
どうだ、うまくいくかと智和はごくりと生唾を呑んだ。もしここで拒絶されれば万事休す、もはや打つ手なしである。彼の生殺与奪の権限はいま、彼女の判断に握られていた。
すると彼女は微笑みながら智和の差し出した金を受け取ると、それを自分のスカートのポケットの中に入れた。
「ありがとう」
思わず感極まった智和は目を潤ませながら、彼女の手を両手で握った。
「それと念のためだが、もしこのことを誰かに漏らしたら……判ってるよな?」
最後に脅し文句を付け足すと、誰かの足音がこちらのほうに近づいてきた。
それに気がついた智和は彼女に向かって「頼んだからな」と言い残すと、急いでその場を離れた。足音の正体は職員室に向かって走っていた教師だった。運のいいことに、いまの智和たちの取引の様子には気がついていないようだった。
とにかく、彼にやれることはすべてやり尽くした。あとは事件が事故で処理されるのを待つだけだ。そうすれば彼の罪を暴く人間は誰一人居なくなるというわけだ。
様々なトラブルはあったものの、これで再び陰で人知れず努力する秀才に戻ることができる。智和にとってこれほど嬉しいことはなかった。
死んだ芹澤には気の毒かもしれないが、あの程度の提案を受け入れられないほどお堅い人間だった彼女のことだ。たとえ今回殺されなくとも、どのみち将来どこかで誰かの恨みを買って破滅していたはずだろう。うん、そうに違いない。
仕方ない、最初からあいつはそうなる運命だったのだと、智和は殺人の罪を犯した自分を納得させ、それはそれとしてカンニングなんて二度とやるものかと堅く心に誓った。
懸念材料が全て消え去り、智和は軽い足取りで教室に戻った。廊下を歩いているとき、外から救急車のサイレンが鳴る音が聞こえてきた。
さてと、早く帰ってしまおうと智和が鞄を持って教室から出ようとしたその時だった。
「針山君」
彼の目の前に黒い人影が現れた。自分にとってどこか不吉な雰囲気を漂わせる人影の正体は、学ランを着たあの忌まわしい男子生徒だった。
「ああ良かった、ここにいたんだ」
そういって喜ぶ二宮の姿が目に入ったとき、智和は戦慄した。そして彼を無視してここから立ち去って逃げようと彼は試みたが、二宮は智和に向かって大きな声で呼びかけてきた。
「針山君。僕、君のことを探していたんです」
「……おまえが俺に、何の用だよっ」
「いくつか君に訊きたいことがありましてね。ちょっと時間取れるかな」
「俺は忙しいんだっ」
「そんなこと言わずに。すぐに終わりますから。ねっ」
そう呼びかけてくる二宮の声は、智和に「逃げるな」と暗に命じてきているように思えてならなかった。
そして、それと同時に警察のパトカーのけたたましいサイレンの音が智和の耳に入ってきた。




