三・刑事の秘密
三週間前のことである。その日の晩、大学時代の友人たちと繁華街にある居酒屋で食事をした洋介は、友人たちと別れるとひとり暗い夜道を歩いて自分が暮らすマンションへと帰路についていた。
帰る途中に長く急な階段があった。重い足取りでそこを上がり切ると、向かい側から酔っぱらった中年男が暗がりから忽然と現れた。彼はふらふらと不安定な足取りでこちらのほうへ歩いてくると、洋介の肩に体をぶつけた。すると男は「おい!」と自分からぶつかった相手に怒鳴りつけた。
「何様だ、おまえっ」
男は酒臭い息を吐き、唾を撒き散らしながら洋介に向かって声を荒げた。
「……すいません」
「すいませんじゃあねえんだよっ、謝って済むと思ってんのかっ」
やれやれ、面倒なことになったぞ──理性を失っている酔っぱらいほど、手に負えない輩はいない。
男はひとしきり怒鳴り散らかすと、洋介のネクタイを摑んで睨んできた。早くこの酔っ払いを黙らせてしまおうと洋介は背広の内ポケットに入れてある警察手帳を出し、それを目の前の酔っ払いに見せつけた。
「私は警察の人間です。これ以上暴れるようであれば、近くの交番まで一緒に来てもらいますよ」
「なにぃ、警察だあ?」
吐き出すようにそういった男は、洋介を突き放した。大人しくなってくれたかと洋介はほっと息をついたが、男はギロリと洋介を睨んだ。
「ろくに仕事もしてねえのに威張りやがって、この税金泥棒がっ。俺に説教してる暇があるんなら、汚職してる政治家を逮捕しろってんだっ」
男は凄まじい剣幕で目の前の刑事に怒鳴りつけると、硬く丸めた拳を洋介の顔面に向けて振りかぶった。しかし洋介は咄嗟に飛びかかってくる男の手首を正面から摑んだ。
「落ち着いてください。あなたがいくら我々に不満を持っていようと、暴力に訴えようとするのは間違っている」
「うるせえっ」
男はそう言い放つと、摑まれていないもう片方の手で洋介の肩を摑み、激しく揺らした。それを振りほどこうと洋介は男の体を力強く突き放した。すると男は体の重心を失って後方によろめき始めた。彼の背のほうにはさきほど洋介が登ってきた、あの長く急な階段があった。
しまった、と洋介は今にも落ちてしまいそうな男の腕を摑もうとした。だが酔っ払いはそのまま足を階段から滑らせると、そのまま呻き声を漏らしながらごろごろと転がり落ちてしまった。その光景を、洋介はただ黙って眺めているしかなかった。
階段のいちばん下まで落ちていった男は、再び動く気配をみせなかった。もしこのとき洋介が救急車を呼んでいれば、彼は助かっていたかもしれなかっただろう。
だが洋介はそうしなかった。たとえ正当防衛とはいえ、民間人に重傷を追わせたという事実は刑事としてのキャリアに大きな傷を残すことになる。それに、あんなどうしようにもない酔っ払いがその原因になるということは、洋介のプライドが許さなかった。
洋介はその場から一目散に逃げ出して、自宅のマンションへと走った。その夜は一晩中眠れなかった。
翌日、夜中にジョギングをしていた近隣住民があの階段の前で倒れている男の姿を発見して、警察に通報したとの報告があがった。目撃者が道に伏せている男を発見したとき、彼はすでに息絶えていたとのことだった。
その後簡単な捜査が行われたが、男の遺体からアルコールが検知されたことから警察は酔っ払いが自分で起こした事故として処理した。担当刑事の誰も、自分たちの同僚が起こした事件だとは夢にも思わなかった。
とはいえ、結果的に人を殺してしまったことの恐ろしさと、もしかしたら誰かにあの光景を見られていたのではないかという不安と恐怖に洋介は苛まれていた。そんなときに現れたのが、あの田中英治だった。
あの事件からちょうど一週間が経った日の夜、マンションの駐車場に車を停めた洋介の目の前に、髪を長く伸ばして金色に染めたチンピラのような風貌をした男が、にたにたと気分を害すような笑みを浮かべながら現れた。
「君は誰だ」
「あんた、刑事だろ」
栄治にそう訊かれたとき、洋介はゴクリと息を呑んだ。
「どうして知っている。それに、私に何の用だ」
「俺は田中英治っていうんだ。それより、あんたにはみてもらいたい物がある」
英治はにやけ顔を浮かべたまま簡単な自己紹介をすると、ポケットから携帯を出してその画面を洋介にみせた。
その画面のなかでは、一週間前の夜に起こった洋介とあの酔っ払いの言い争い、そして彼が酔っ払いを階段から突き落としてしまった光景の一部始終がはっきりと映されていた。ご丁寧なことに、洋介が警察手帳を出した瞬間もその映像のなかには収められていた。
誰かに見られていたとはな──洋介は溜息をついた。
「それで、君は何が欲しいんだ。わざわざ私にその映像を見せに来たということは、脅迫をして何か私からぶん取るつもりなんだろう」
「話が早くて助かるねえ。脅迫じゃなくて、取引といって欲しいけどな」
英治は携帯をポケットのなかに戻すと、取引の条件を洋介に伝えた。
「ずばり、金が欲しいんだ。金額は一千万円。一千万くれたら、この動画を消してやるよ」
一千万円、決して安いとはいえない大金だ。そう簡単に出せる金額ではない。
「少し待ってくれないか。考える時間が欲しい」
洋介は落ち着いた口調でいった。
「そうだな、じゃあ一週間待ってやる。それまでに、どうすれば自分のためになるのか考えなよ」
英治は自分の携帯番号を書いたメモ用紙を洋介に渡すと、その場を去っていってしまった。
田中栄治は多くの前科を持つ男だった。すでに不良となっていた高校生時代には何度もコンビニやスーパーで万引きをしては補導され、学校と家庭から追い出されたあとは女友達の家を渡り歩いていたが、そのなかのひとりの女性に暴行を働き、その女性の友人が警察に通報したことで書類送検され服役。出所後も更生することなく、今度は特殊詐欺グループの一員として活動。しかしこれも警察の捜査により検挙され、再び投獄。
刑期を終えて出所したのは、ほんの二ヶ月前のことだった。
警察署のデータベースで英治の経歴を知った洋介は、どうやってこの件を対処するべきか考えた。今更自分があの酔っ払いを殺したと公表する気にはなれなかった。だからといって、大人しく英治に金を渡す気もなかった。こんな人間のクズに大金を渡してしまうのは癪だし、洋介にとって屈辱としかいいようがないからだ。
そうやってしばらく悩んでいると、洋介の頭にひとつのアイデアが浮かんだ。そのアイデアは少しばかり複雑で、実行するのに多くのリスクが伴うものだったが、彼の興味を強く惹きつけた。
約束の一週間後、洋介は近所にある電話ボックスを使って英治に電話をかけた。
「悪いが、今すぐ金を渡すのは無理だ」
英治が希望した居酒屋で会ったとき、洋介は最初にいった。
「ふうん、じゃあ警察に告発されてもいいっていうんだな?」
テーブルに出された枝豆を食べながら、英治は挑発的な口ぶりでいった。
「いや、正直なところそれは困るし、君だってこのまま金を受け取らないままで終わりというのは困るだろう」
「それはそうだ。だからあんたが金を出せば全部丸く治るんだぜ」
「ああ。だが最初にいった通り一千万円を渡すのは無理だ。しかし君さえ協力してくれば、この一千万円を二千万円にすることができる」
「……どういうことだ、そりゃ」
英治は枝豆を食べる手を止めると、眉を顰めて向かいの席に座る洋介をみた。
「この写真をみてくれ」
そういうと洋介はスーツの内ポケットに入れてある一枚の写真をテーブルの上に出した。そこにはスーツ姿でカメラに向かってピースをしている、ボブカットの女性の姿が写っていた。
「誰だ、この頭悪そうな女」
「頭が悪そうにみえるかもしれないが、私の部下だ。つまり警察官だ。名前は大川千尋という」
「そうか。それで、その大川サンをどうするんだ?」
洋介は溜息を吐くと、睨むように英治と目を合わせた。
「彼女を誘拐するんだ」
「えっ……」
「そして警察を脅迫し、身代金として二千万円を要求する。君は彼女を誘拐し、私は警察で捜査を撹乱させるんだ」
目の前にいる刑事の恐ろしい提案を聞いたとき、英治は最初こいつは何をいっているんだと激しく動揺した。
「正気か、あんた」
「私は至って正気だ。どうする? このまま警察に私のことを告発するか、それともこの賭けに乗ってみるか……」
さあ、これが一番の問題だ。栄治の目に迷いが走るのを眺めながら、洋介は生唾を呑んだ。
かなり危険な計画だ。彼だって、易々と賛同する気にはなれないだろう。しかしあれほど多くの犯罪を犯しておきながら、平気な顔をして生きているこの男なら……
「判った。やってみようじゃないか」
散々悩んだすえ、栄治は絞り出すような声で洋介にいった。
「それは良かった。それじゃあお互い、うまくやろうじゃないか」
洋介は微笑を浮かべると英治に向かって手を差し出し、彼に握手を求めた。栄治は震える手つきでそれに応えた。
それから二週間が経った日の夜、事前の打ち合わせ通りに千尋を誘拐できたという英治の連絡を受けた洋介は、車で真っ直ぐに警察署に戻った。
自分の所属する捜査一課のあるフロアへ戻ると、部下の渡が「霧崎さん」といって洋介のほうに駆け寄ってきた。
「どうした、そんなに慌てて」
「霧崎さんに電話が入ってきたんです。今すぐ出て欲しいって」
「私に? いったい誰からだ。私の知り合いか」
「いえ、そうじゃないんです。電話をかけてきたのは大川先輩の知り合いで……」
「どうして大川の知り合いが私に電話をかけてきたんだ」
「それがどうも、大川先輩と待ち合わせをしているのに約束の時間を過ぎても全然来ないから、それでこっちに電話をかけてみたいです」
「ああ、そういうことか」
大川千尋のデスクの前には、千尋の同期の女性刑事である藤野愛美がデスクにある電話の受話器を手に取って電話相手と話をしていた。
「うん、うん……あっ、今その刑事さんが来たから変わるね」
なにやら馴れ馴れしい口調で電話をしていた彼女から、洋介は受話器を受け取った。
「電話代わりました。県警の霧崎です」
洋介がそういうと、受話器のスピーカーの向こう側から、若々しく、そしてやけに丁寧な口調で話す少年の声が聞こえてきた。
「ああどうも、あなたが大川さんを車で送ったという霧崎警部でいらっしゃいますね?」
「そうですが、そちらは?」
「僕ですか? 二宮といいます。二宮浩太郎と申します」