二・助けられる女
紗月ちゃん誘拐事件の三日後。霧崎洋介は警察署の自らのデスクで、誘拐事件の報告書をパソコンのワープロソフトで作成していた。
今回の誘拐事件の犯人である二人組の男の犯行動機はギャンブルの失敗の穴埋めとのことだった。大学のサークル仲間だというこの二人は両方ともギャンブル中毒者で、それも困ったことに下手の横好きだった。何度大負けしては家族や消費者金融から金を借り続ける日々を送り、そんななかで彼らは本当に来るか判らない一攫千金のチャンスを常に狙い続けていたという。
その悪癖のお陰で二人は家族から縁を切られ、その上闇金融にまで手を出してしまった。巨額の負債を抱えてついに後がなくなってしまった末に今回の犯行は行われたのだという。
洋介が報告書を書き終えると、既に終業の時刻を少し過ぎていた。とはいえ、部署にいる同僚の殆ど全員はまだ残って仕事をしていた。
そのなかでひとりだけ帰る支度をしている刑事がいた。大川千尋警部補だった。彼女はバタバタと慌ただしくデスクの上の荷物を片付けていた。
「ああ、もう。急がなきゃ遅れちゃう」
そういって落ち着きのない様子の千尋に、彼女の隣のデスクに座っている堂本渡が話しかけた。
「大川先輩、さっきからそんなにドタバタしてどうしたんですか。そんなに早く家に帰りたいんですか」
「違うって。六時から駅ビルのスイーツバイキングの予約があるんだよ。前にもいったでしょ、駅ビルにある『スイートヘヴン』」
「ああ、一ヶ月前から予約してるって話でしたっけ」
「そう。だけど今朝の件で車が使えなくってさあ。なおさら急がなきゃいけないってわけ」
「先輩の車のタイヤに穴開けられたって話ですか?」
今朝のことだ。大川千尋は始業時刻を大幅に過ぎて署に現れた。なぜ遅刻したのかと上司である大塚郷家警視が彼女に問い詰めたところ、出勤に使っている買ったばかりのミニバンのタイヤが夜中に何者かのイタズラで穴を開けられてしまったからだという。
そのせいで千尋は仕方なく電車を使って出勤しなければならなかったのだが、車での出勤に慣れていた彼女は以前まで毎日していたはずの電車通勤の感覚を完全に忘れていたのだ。
久々に味わう地獄の通勤ラッシュと満員電車に苦しめられた千尋がやっとの思いで仕事場にたどり着いたのは始業時刻から二時間も経っている頃だった。当然郷家警視にはなぜ早く連絡しなかったのだと咎められ、同僚には上司同期後輩問わず笑われる始末であった。
「ほんと、誰がやったんだろ。見つけたらとっちめてやる」
千尋はそういいながら自らのショルダーバックのなかへ乱暴に荷物を詰め込んだ。その光景を千尋の向かい側のデスクから眺めていた洋介が彼女に話しかけた。
「大川。おまえ車が使えないといってるが、どうやって駅まで行くつもりなんだ」
「えーっと、タクシーでも捕まえるしかないですかね……だけどタクシー代、高くつくんだよなあ」
「そうか。だったら、私の車で送ってやろうか」
「えっ、いいんですかっ」
千尋は目を輝かせながら洋介にいった。
「ちょうどコンビニへ買い出しにでも行こうと思っていたところだったからな。もののついでだ」
「ありがとうございます、助かりますっ」
洋介は署の駐車場に停めている自分の愛車に千尋を乗せると、目的の駅ビルに向けて車を走らせた。
「それにしても霧崎さんって、意外と優しいんですね」
向かう途中、助手席に座る千尋が洋介にいった。
「その口ぶりだと、大川は私のことを優しいと思っていなかったみたいじゃないか」
「い、いやっ、そういうつもりじゃないんですけど、霧崎さんがあたしを送ってくれるなんて思ってもいなかったから、ちょっとびっくりしただけで……だって霧崎さん、いつも冷たそうだし」
「酷いことをいってくれるな。私にも、困っている部下を助けてやろうという人情は持っている」
「あはは、そうですね。こういっちゃあ何ですけど、わたし、霧崎さんのこと、見直しちゃいました」
「お前も、私に見直されるような働きぶりをみせろよ」
話しているうちに、車は目的の駅ビルの近くまで来ていた。洋介は車をビルの路地裏に入れると、そこでブレーキを踏んだ。
「ビルの前だと人が多いだろう。少し暗いが、ここでいいか?」
「ええ、ぜんぜん大丈夫ですっ。わざわざありがとうございました。また今度、お返ししますね」
「気にするな」
──これから何倍にして返してもらうんだからな。
千尋が車のドアを開けて薄暗い道へ出ていくのを眺めると、洋介は車を大通りに向かって発進させた。アクセルを踏むとき、近くに白いライトバンが停まっているいるのがみえた。
大通りを出て、洋介は警察署に戻る途中にあるコンビニで車を停めた。コンビニでコーヒーや惣菜パンを買って車に戻るとき、スーツのポケットに入れている携帯に着信が入った。発信元は公衆電話だった。
「もしもし」
電話に出ると、携帯のスピーカーから男の声が聞こえた。
「霧崎さんだな。上手くいったぞ。あんたの指示通り、女刑事を誘拐した」
電話相手である田中英治からの報告を聞くと、洋介は「そうか」といった。
「それで今の状況は?」
「さっき女を車に乗っけて、いま監禁場所に向かっているところだ。そっちはどうなんだ」
「外へ買い出しをしたところだ。これから署に戻る。予定通り、電話は大川の携帯を使ってきっかり七時に入れてくれ」
「判った。それと、もう一つ聞きたいことがあるんだが」
「何だ」
「……本当に上手くいくのか」
どこか不安げな英治の声を聞いて、洋介は鼻で笑った。
「上手くいくさ。それに、失敗して一番困るのは私だ。何が何でも成功させるさ。では、健闘を祈る」
洋介はそういうと、電話を切って携帯を上着のポケットに戻した。