一・刑事、霧崎洋介
ご無沙汰しております。皆さん、お元気でしたか?
突然ですが、お祭りの代名詞と言えばなんでしょうか。花火? 盆踊り?
どちらも代名詞と呼ぶにふさわしいものですが、僕にとっては広場に並ぶ屋台です。りんご飴、フランクフルト、焼きそば、イカ焼、チョコバナナ屋なんかありますね。ちなみに僕が一番好きなのはクレープ屋です。
食べ物もですが、遊んで景品がもらえる屋台もあります。的当て、輪投げ、金魚すくい。さて、その中で一番気をつけなければいけない屋台が何か皆さんご存知ですか?
千本引きです。ひもに括り付けられたたくさんの景品が並んでいて、その先に伸びているごちゃごちゃしたひもの束の中から一本を選んで引いて、お目当ての景品が引っ張られるかドキドキするアレです。
しかしですね、みなさんは実際に千本引きでお目当ての景品を引いたことがありますか? もしかしてハズレの残念な景品ばかり引いて何回もやっていたら、財布の中が空っぽになってしまったなんて経験があるんじゃないでしょうか。
僕も昔そんな目に遭いました。本当に当たりの景品に結ばれたひもが、あの束の中にはあったんでしょうかね? もしかしたら当たりのひもなんて一本も無かったなんて話も十分あり得ます。
つまり僕がいいたいのは、世の中には最初から勝ち目のない賭けがあるということで──
三ツ谷市神山町に住む六歳の少女、森川紗月ちゃんが何者かに誘拐されたのは昨日の午後四時ごろのことだ。
誘拐される数時間前、紗月ちゃんは自宅から五百メートルほど離れた場所にある公園へ友達と遊んでくるといってひとりで出かけた。紗月ちゃんが出かけるまえ、母親は彼女に暗くなる前に帰ってきなさいといったが、日が暮れてしばらく経っても紗月ちゃんは家に帰ってこなかった。
紗月ちゃんがなかなか帰ってこないことに不安になった母親は、一緒に遊ぶといったその友達の家に電話をかけた。するとその友達は紗月ちゃんとはずっと前に公園で別れて、もう家に帰っているはずだといった。
不安が募る母親と娘の身を案じる父親。そんなとき家のリビングにある固定電話の呼び出し音が鳴った。
父親が電話に出ると、受話器から甲高い金属的な声が聞こえた。そしてその声の主はこういった。
「おたくの紗月ちゃんを誘拐した。返してほしければ身代金として一千万円用意しろ。金の受け渡し方法などについては追って連絡する。当然だが、警察にはいうな。以上だ」
父親は震える手で受話器を戻すと、妻に脅迫電話の内容を伝えた。すると母親は顔をサッと青くして、そのままショックで倒れこんでしまった。
気を失った妻を休ませ、混乱と怒りが頭のなかで渦巻くさなか父親はこのことを警察に伝えるべきか迷った。電話では誘拐犯は警察にはいうなといってきたが、誘拐犯の指示に大人しく従って身代金を払ったところで娘が無事に帰ってくる保証はないのだ。
けっきょく彼は再び電話の受話器を手に取って、一一〇番をダイアルし警察に通報した。
父親の連絡を受けた警察は早速捜査本部を立て、捜査一課の大塚郷家警視をはじめとする刑事数名が森川家で待機し、逆探知装置などを準備して誘拐犯からの連絡を待った。
警察が駆けつけてから一時間ほどたったころ、電話の呼び出し音が鳴った。それを聞いた郷家警視は父親に目配せをし、合図を受けた父親は受話器を取って電話に出た。
誘拐犯の指示は以下のようなものだった。
「明日の正午、バッグに現金一千万円を詰め、名和駅の東口コインロッカーまで来い。そして四十七番のロッカーを開けろ。暗証番号は三七二〇だ。もう一度いう、三七二〇だ。くれぐれも妙な真似をするな。以上だ」
誘拐犯は指示を伝え終えると、すぐさま電話を切ってしまった。通話時間が短かったので逆探知するには時間が足りなかった。
いまの連絡を聞いた警察は、すぐさまコインロッカーの様子を録画した監視カメラの映像を駅に問い合わせて確認した。映像を確認すると、一〇時間ほど前によれよれのコートを着た、長髪で髭面の男がロッカーを開けて手に持っていた紙袋をロッカーのなかに入れている様子が確認された。
映像を見て、警察にこの男が誘拐犯だと思う者は殆どいなかった。この髭面の男は誘拐犯に雇われた駒であろうという意見でほぼ一致した。
その男を追ってみたところ、彼は近所の川の河川敷で暮らしている平次という名前のホームレスだと判った。三日前にサングラスをかけ、マスクをつけた背の高い痩せぎすの男に、この紙袋を駅のコインロッカーに入れてくれと頼まれたという。
ずいぶんと妙な頼み事だと平次は思ったそうだが、依頼主に報酬として十万円を渡すといわれたので、その金に誘われて男の頼みに乗ることにした。
ここまで話したあと、「いっけね、あの金って口止め料も入ってたんだった」と平次は笑いながらいった。
その後ロッカーの中に入っていた紙袋を調べたところ、袋の中には小型の耳に装着するタイプのインカムと、その受信機が入っていた。つまり、父親にここまで来させた後、インカムを装着させて次の指示を伝えるという算段なのだろう。
一応、インカムの入手経路を辿ろうと試みたが、ありふれた量産品であるためそれは不可能だとすぐに判断され、インカムはそのままロッカーのなかに戻された。指紋が付着していないかも調べられたが、まったく痕跡は見当たらなかった。
結局この日はこれ以上捜査が進展することはなく、取引の時が来た。
用意した一千万円をバッグに詰め、父親は家を出て車に乗って駅へ向かった。そして警察は覆面パトカーで父親の車を追う。
数台の覆面パトカーのうちの一台にいる、県警きっての若きエリート刑事、霧崎洋介警部は持ち前の鋭い目を瞬きさせることなく、薄い紺色のフレームの眼鏡越しにみえる目の前の父親の車と周囲の車両を観察していた。
「いまのところ、特に目立った動きはないようですね」
車を運転している角刈りの新人刑事、堂本渡巡査は助手席に座る上司にいった。
「しかし酷いことをしますね。汚い金儲けのために、何の関係もない子どもを巻き込むだなんて。卑劣な所業だ」
「子どもだろうが大人だろうが、誘拐は卑劣な所業だろう」
洋介は義憤を漏らしている部下に対して、視線を向けずに声を漏らした。
駅の近くまで来ると、父親は車をコインパーキングに停めて金の入ったバックを持って車から出て、そのまま駅のほうへ走っていった。
その姿をみた刑事二人は同じコインパーキングに車を停めて父親の後を追った。
「こちら霧崎、車から降りて被害者を尾行中です」
洋介は耳に装着しているインカムで、捜査本部となっている被害者宅で司令塔になっている上司の郷家警視に告げた。
『判った。そのまま尾行を続けろ』
「了解です」
二人の刑事は指示通り父親を尾行し続けた。約束の時刻が迫ってきていた。
特に何事もなく駅までたどり着くと、インカムに郷家警視から連絡が入った。
『駅の構内は既に数名の刑事が見張ってる。お前たちは外で待機しろ』
駅の周りでは日曜の昼間とだけあって、多くの人々が行き交っていた。
「誰か怪しそうなやつ、いませんかね」
渡がそういって周囲の人々を見回しているのをみながら、簡単に見つかったら苦労はしないだろうと洋介は肚の中でいった。
洋介が渡と同じように周囲を観察していると、人々に交じって自分たちと同じように待機している同僚の姿がちらほらと見えた。
洋介たちと同じくスーツ姿でいる刑事もいたし、私服を着て周りに溶け込んでいる刑事もいた。なかにはロングスカートにブーツという服装の女刑事もいた。洋介より五歳年下の大川千尋警部補だった。誘拐犯が現れたとき、あれでどうやって犯人を追うつもりなのだろうかと洋介は呆れながら思った。
すると駅の構内から父親の姿が現れた。耳には件のインカムが装着されている。スピーカーから伸びているコードが上着のポケットに入っている受信機に繋がれている。
父親は耳のインカムを手で押さえながら足早に人混みの中に入っていき、洋介たちはそんな彼を追った。ほかの捜査員も少し距離を開けながら父親のあとを追う。
何度か見失いそうになりながらも辛うじて父親についていくと、駅の前にある広場がみえた。広場の中央には噴水があり、その周りを囲むようにブランコやシーソーといった子どもの遊具やら、木製のベンチなどが置かれている。
洋介は広場から少し離れた場所で立ち止まり、バックを持って広場に入っていく父親の姿を眺めた。父親は広場に入ると誰も座っていないベンチに座った。
私服の捜査員が少し遅れて広場の中に入っていき、噴水の縁に座って上着のポケットから取り出した携帯の画面を眺めているふりをしながら、彼は父親のほうに視線を向ける。続いて広場の中に入っていった大川千尋は広場にあるブランコに揺れてはしゃいでいた。視線はちっとも父親のほうに向けておらず、完全に自分の世界に入って楽しんでいる。
「あの人、一体何やってるんですか」
千尋の部下であるはずの渡は彼女の姿をみて、完全に呆れていた。
だが洋介は能天気な女刑事の姿など眺めている暇はなかった。なぜなら父親は持ってきたバックをベンチの下に置いて、その場から立ち去ってしまったからである。
するとサングラスとマスクを付けた男が広場に入り、ベンチに座ってその下に置かれてあるバックを取り出した。男はバッグのファスナーを開けて中身をちらりと見ると、そのままベンチから立ち上がって広場から出ようとした。
「間違いありませんね、あいつが誘拐犯だ。さあ、早く捕まえましょう」
そういって渡は広場のほうへ駆け出したのだった。
しかし洋介は一連の様子を見て違和感を抱いた。バックを持ち去ろうとしている男の体格は、中肉中背だった。
「待て、堂本っ。早まるなっ」
洋介は渡に向かってそう叫んだが、彼に上司の呼び止める声は聞こえなかった。
誘拐犯と思われる人物に、インカムをコインロッカーへ入れるよう頼まれたホームレスの証言はこうだった。マスクを付け、サングラスをかけた背の高い痩せぎすの男──いまバックを持っていっている男とは体格が違う。
目の前で渡が男を捕らえたとき、洋介のインカムから郷家警視の声が流れた。
『大変だ。いま誘拐犯から父親に連絡が来て、いますぐ仲間を解放しなければ娘の命はないと──』
そこまで聞くと、洋介は急いで周りを見渡した。
やはり! この誘拐は複数の人物によって行われたのだ。ホームレスにインカムをコインロッカーに入れるよう依頼したのが痩せた男、身代金を受け取りに行ったのがいまみえる中肉中背の男。そしてその光景を監視している犯人が、この近くにいる。それが例の痩せた男なのかは判らないが──
とにかく、この近くに怪しい素振りをしている人物はいないか。
広場ではバックを持った男が逃げ出し、その後ろを渡たちが追っていた。彼らの後ろで大川千尋がロングスカートのせいで走りづらそうになりながら必死に追うものの、底の高いブーツのせいでバタンと前のめりに倒れてしまった。誰も彼女を助け起こそうとはしなかった。
周囲の人々は皆、走る男たちを不思議そうに眺めていた。するとその中にひとり、その光景を眺めながら手にトランシーバーのような物を持って、それに向かって話しかけている人物がいた。五十メートルほど先に見えるその人物は、黒い帽子をかぶり、サングラスとマスクを付けていて、おまけに周囲の人々に比べて背が高く、痩せていた。
もしやと思い、現場から離れようとしている父親のほうを見た。思った通り、彼は耳のインカムに手を当てて、真っ青な顔をしながらインカムから聞こえる声を聞いていた。
「霧崎です。東口でトランシーバーのようなものを持った不審な男を発見しました。いまからその男のもとへ向かいます」
洋介は本部にそうやって連絡すると、男に気付かれないように慎重な足取りで彼のもとへ向かった。
男の近くまで来ると、彼の声が聞こえてきた。
「──諦めるんだな。恨むなら、警察を呼んだ自分自身を恨むことだ」
間違いない! 洋介は男の肩をぽんと叩いて、こちらに顔を向けた男に自分の警察手帳を見せた。
「警察だ。君、今の物騒な話について聞かせてほしいんだが」
すると男はダッ、とその場から駆けて逃げだした。
「待つんだっ」
男は道ゆく人々を強引に押しのけながら、追ってくる洋介から必死に逃れようとした。しかし近くで待機していた他の刑事も合流して、男と刑事たちの距離は確実に縮まってゆく。
駅から離れ、広場のほうへ男は走っていく。だが、広場を抜けたところにある小さな段差で足を踏み外してしまったところで彼の命運は尽きた。足をくじいてその場で倒れてしまった男は急いで立ち直り、再び逃げ出そうとしたもののついに追手に追いつかれてしまい、後ろから掴みかかってきた洋介によって、呆気なく確保されたのだった。
この数時間後、逮捕された誘拐犯ふたりの証言によって、誘拐された紗月ちゃんは町はずれにある廃工場で五体満足の状態で発見された。
警察病院で軽い検査が行われたあと、紗月ちゃんは両親と再会を果たした。そのとき父親と母親は無事で帰ってきた娘を抱きながら、その場にいた洋介たちに感謝の言葉を涙ながらに口にしたのだった。