もう1人のパパ
沙織がやってきて三十分程が経過した。沙織はお風呂上がりの笹葉の髪をドライヤーで乾かしている。笹葉は天斗の半そでのTシャツをワンピース代わりに着ている。後日、沙織が小さいころに着ていた服を何着か持ってきてくれるらしい。
「なあ」
ドライヤーの音に負けないように少しだけ大きな声で沙織に呼びかける。
「何よ」
「お前は帰らなくていいのか?もう二十時だぞ」
「何?柄にもなく心配してくれてるわけ?」
「俺は別に心配してない。親が心配するかもなと思っただけだ」
「心配しなくていいわ。だって……パパ⁉」
「誰がパパだ」
「あなたじゃないわよ!」
沙織は会話の途中でおかしなことを言い始め、慌てふためいた。ドライヤーのボタンをテキトーに押したのか、笹葉の長い髪が強風でぼさぼさになっていた。
「沙織……」
「うおっ!」
突如、玄関からドスの効いた声が聞こえた。天斗が振り返ると、そこにはドアの上部に手をかけて、隙間から中を覗き込んでいる男がいた。ドアと同じくらいの身長でスキンヘッド、目には怒りが煮えたぎっていた。
「……これ以上入ってくるなら、警察を呼ぶぞ」
天斗は即座に部屋の隅に避難。笹葉も涙目になりながら足に引っ付いてきた。
沙織だけが元居た場所で、「どうしたもんか」といった表情で目じりをつまんでいた。
男は天斗の威嚇をものともせず、ドアをゆっくりと開けて部屋の中にのっそのっそと入って来て一言。
「……コロス」
天斗はすぐさま警察に電話をしようと指を動かし始めた。しかし、大男と天斗たちの距離はわずかに三メートル。電話がつながるよりも先に自分の死期が訪れようとしていた。
男はゆっくりと歩みを進め、確実に天斗との距離を詰めてきている。もう手を伸ばされたら頭をわしづかみにされそうなところまで来ていた。
「パパ。止めて。その人はただの大学の同級生よ」
男はその声に反応して沙織の方に顔を向けた。到底信じ難いが、この男は沙織の父らしい。
「俺は男を作ることすら反対だったんだ! それなのにこんなヒョロガキと……」
どうやら沙織の父は沙織の話が聞こえていないらしい。太い指で天斗の方を指しながら大声で叫ぶ。すると、途中で急にフリーズした。目線の先には笹葉がいる。
「お、お前たち……まさか、子供まで!?」
沙織の父はわなわなと震えはじめた。
「違うわよ! その子は……そう、水上君の従妹よ!」
「そんなわけないだろ!この髪色と、表情はどこから見ても小さい頃の沙織じゃないか!」
沙織の父は完全に怒り狂っていた。冷静になって考えると、大学一年生の娘に小学生くらいの子供なんているわけがない。
沙織は小さくため息をつき、軽く咳払いをしている。正直なところ、天斗は今すぐにでも沙織に怒りを鎮めてもらいたかった。さっきからずっと、気分は山でクマに遭遇した時と同じだ。その天斗の願いが通じたのか、沙織が父に声をかけた。
「お父さん、もうやめてください」
いつもより心なしか低い声。もう少しキツく言って欲しいと天斗は内心思ったのだが、何故か沙織の言葉は効果てきめんだった。
沙織の父は沙織の言葉を聞くや否や、肩をビクッと震わせ、いまにも襲いかかりそうだった手を止めた。それから先はうって変わって素直になり、沙織の説教をただ頭を頷かせながら聞いていた。帰り際には天斗と沙織にも深々と頭を下げて謝り、沙織を連れて静かに帰って行った。
恐らく沙織の父が来た理由は、沙織が迎えに来てほしいという旨のメールを送ったからだろう。勘違いではあるが、愛娘に男がいると知って怒り狂うのもうなずける。ただ、何故沙織の制止であれほどまでにおとなしくなったのだろうか。それだけは天斗には全く理解できなかった。
「何だったんだ、いったい……」
どれだけ考えても答えらしいものは思い浮かばなかったので、天斗は風呂に入ってすべてを洗い流すことに決めた。