Prologue 01
ふと、背中に重い衝撃があった。
何かで殴られたのか、不意を突かれた少年は、前のめりにバランスを崩す。
歩いていた足が、自分の足に絡まった。
硬い煉瓦でできた地面の溝に足が嵌り、更に転倒。
やがて少年の体は重力に引かれて、側の川の中に墜落した。
「ッ!?」
――どぷん。
顔に冷たい水面が打ち付けられる。
突然の事態にパニックに陥った少年は、バタバタと手足を動かして何とか水面に顔を出そうと藻掻いた。
流れが速いせいか、上も下もわからないまま、揉みくちゃになって水に流されて行く。
何だ、何が起こった!?
少年は必死に水を掻いた。
しかしそれでも尚水面に顔が出ない。
この川はこんなに深かっただろうか。
もしかして上ではなく下に向かっているのではないか。
焦った思考が、身体の制御をままならなくして、その場で少年は何度も方向を変えてはジタバタと藻掻いた。
「マルス!マルスどこ!?」
ゴボゴボと水泡の立てる音の合間に、くぐもった声が少年の名前を呼ぶ。
聞き覚えのある声にわずかに安心した少年は、声のする方向へ向けて手を伸ばした。
腕が水面を突き破る。
やがてその体は何かの力に引っ張られるようにして水面から飛び出し、やっとのことで少年は川から這い上がった。
「かはっ、けほっ、ごほっごほっ……」
「マルス、大丈夫!?」
耳に水が入ったからか。
まだ少し聞こえ難いが、少女が心配そうに話しかけてくるのがわかった。
「ああ、大丈夫だ。
ありがとな、フィオ姉」
息を整えながらそう返すと、彼女の柔らかく小さな手が、少年の背中をさすった。
「ちょっと貴方達、いくら何でも今日のはやり過ぎよ!
水中に《ジャイロ》を使うなって先生に習わなかったの!?」
フィオ姉と呼ばれた少女が、キッと鋭い視線を犯人に向けた。
少年も、背中越しにその犯人を視界に収める。
犯人はいつも通りのメンバーだった。
悪魔の癖にガタイのデカいガキ大将ワルゾー。
魔法学校の次席でありワルゾーの弟であるワルジロン。
そして二人の金魚の糞ゴールプー。
少年を虐める三人組である。
「ケッ、んなの知るか!
そいつが鈍臭い上に悪魔の癖に魔法もろくに使えない出来損ないだからこうなるんだ。
ま、尤も?
俺ならそもそも後ろを取られることはないがな!
がっはっはっはっはー!」
野太い声で凄みつつ、豪快に笑い声を上げるワルゾー。
本当に腹の底から怒りが湧いてくる。
(くそっ。
いつか絶対見返してやる……!)
ギリリ、と歯を食いしばりながら、マルスは拳を固めた。
「な、なんだ?
や、やる気か!?」
そんな俺の反応を見て、ニタニタ笑いを浮かべながらゴールプーが叫ぶ。
「止せよゴール。
どうせ近づく事すらできないんだ、心の中だけでも威張らせてやれよ!
がっはっはっはっはー!」
本当に苛つく奴らだ。
だが、たしかに彼等の言う通りでもある。
悪魔であり魔力だけなら異常なほど有り余っている位だが、俺は魔法が使えない。
魔法が使えないということはつまり、魔力を持たない人間と同等――いや、気功すらも扱えない時点でもうそれ未満の存在と言われても過言ではなかった。
故に、マルスには手を出すにも手段がなかった。
攻撃しても、魔法で反撃されて更に傷つくのがオチだ。
だが、それがどうした。
効かないからと言って、自分を馬鹿にするやつが許せるのか。
いや、許せない。
マルスはその場から立ち上がると、制止する少女の言葉を無視して、三人に飛びかかっていった。
⚪⚫○●⚪⚫○●
「つつ……」
「だから止めたのに。
あんなヤツ、無理して関わることないよ」
少女――フィオナは少年の傷口に手を添えながら言った。
「嫌だね。
いつか絶対ぶちのめすまでやめたりするもんか」
傷口に添えられた、淡く緑色に発光する彼女の手を見つめながら、マルスは言った。
そんな彼を、フィオナは心配そうに見上げながら叱る。
「いつか死ぬよ、そんな事ばかりしてると」
「じゃあフィオ姉は良いのかよ?」
「マルスが傷つくよりはよっぽどね。
はい、治療終わり」
彼女はそう言うと、少年を立たせて笑顔を向ける。
マルスはそっぽを向くと、小さくため息をついた。
「返事は?」
「わかったよ、フィオ姉」
少女はマルスの返事を聞くと、『よろしい』と相槌を打って部屋を後にした。
少女の足音が遠のいていく。
「いつか、あいつらを見返せるくらい強くなったら――な」
やがてその足音が聞こえなくなると、少年はポツリと呟いて、窓から身を乗り出した。
⚪⚫○●⚪⚫○●
郊外にある森に、一人の人影があった。
先程、いつもの様に窓からこっそりと家を後にしてきたマルスである。
「まずは結果をイメージして……それから魔力をイメージに練り込んで……」
ブツブツとつぶやきながら、少年は両手を前に突き出す。
全身の魔力の流れが両手に集中するのがわかる。
その魔力は両手から外界に滲み出していき、マルスのイメージに従って自動的に式を組み上げ、現象を現界させる。
「来たっ!」
マルスはカッ!と両目を見開くと、魔法名を唱えた。
「《ファイアボール》!」
――しかし、何も起こらなかった。
集めたはずの魔力は一気に霧散していき、一瞬の陽炎も作らずに虚空へと消えていった。
「くそっ!もう一回!」
かれこれ、この作業が二時間ほど続いている。
空はすでに夕日が沈み始め、夜の帳が降りている。
街から離れた森の中は一層暗く、視界を確保していたのは鉱石灯の灯りのみだった。
「くそっ、何がダメなんだ?
何が足りないんだ?
魔力なら十分にある。
イメージもちゃんとできてる。
魔法名を唱える瞬間までは問題ない筈なのに……」
頭を抱えて、ガシガシと苛立ちを抑えるように掻き毟る。
――と、その時だった。
「……ん?」
背後の茂みから、ガサガサという葉擦れの音が耳に届いた。
野犬か何かだろうか。
そう思いつつ後ろを振り向いてみると、そこには高さ三メートル、幅六、七メートルはあろうかという巨大なムカデの頭がこちらを狙っていた。
「おわっ!?」
あまりにも突然だったことに、マルスは驚いて態勢を崩した。
「センティピード!?」
ガチン、とセンティピードの分厚く鋭い牙が、彼の言葉を肯定するかのように打ち鳴らされた。
センティピードは魔物の一種だ。
分厚く頑強な赤い外殻に身を包んだ、巨大なムカデの姿をしており、肉食である。
仔牛程度ならば一口でぺろりと食べてしまいそうなほど大きな口には、両端に分厚く巨大なククリナイフのような形状の牙が生えており、その間には無数のノコギリのような歯がびっしりと生え揃っている。
大蛇のごとく長い巨体は、バオバブの樹すら締め上げ圧し折るとも言われ、その足は鋭利な刃のごとく鋭く、斬られればとめどなく血が溢れ出すらしい。
魔法が使える悪魔でも、それなりの経験値と力量がなければ倒すことは愚か、逃げることすら難しいと言われている。
それが……何でこんな森の浅いところに……!?
ガチン、ガチンと威嚇するように鳴らされる魔物の牙の音に、マルスは正気を取り戻す。
このままでは確実に食われる。
「食われて堪るか……!」
俺は、あいつらを見返すまでは絶対に死ぬ訳にはいけないんだ……!
少年は震える脚を気力で捻じ伏せて、センティピードに背を向け、全速力で森を駆け抜けた。
⚪⚫○●⚪⚫○●
「はっはっはっはっはっ……!」
重心を低くして、背後から迫る“死”から全力で逃げる。
「キシャァァァァァ!!」
カーテンのレールを擦るような叫び声をあげながら、センティピードは追いかける。
足音は殆しない。
しかし微かに、馬が土手に蹄を打つような音を立てながら、確実に追いかけて来ていた。
(諦めて堪るものか……ッ!)
体力は限界に近かった。
咽頭は締め付けられるように酷く痛んだ。
恐怖で脚が絡みそうになるが、それでも彼は気勢の続く限り走り続けた。
幹を盾にし、岩を飛び越え、倒木の下をくぐり抜け、森を深く深く突き進む。
しかし一方でセンティピードの方はと言えば、木の幹を強靭な顎で砕き、岩を砕き、倒木をいとも容易く弾き飛ばし。
障害という障害を完全に無視する勢いでマルスに迫った。
「キシャァァァァァァ!!」
「うおっ!?」
しかし、体力ももう限界である。
気力だけで動いていた体は、やがて木の根に足を取られて転倒した。
「くそっ!」
手元から鉱石灯が滑り落ち、茂みに消える。
視界はついに闇に覆われ、見えるのは影、影、影。
もう空の闇と木々の影の区別もつかなくなっていた。
――ここまでか。
そんな考えが、少年の脳裏を過った。
ガチン、というムカデの牙を打ち合う音が、間近に聞こえる気がした。
と、その時だった。
ガコッ、という音が、少年の鼓膜を貫いた。
同時に、体を支えていた腕が地面に埋まる。
……いや、違う。
床が崩れ落ちたかのような、そんな感じの違和感だった。
石組みの屋根の石が、空洞に落下したかのような。
そう感じた瞬間だった。
ほとんど間を置かずして、ムカデと少年の居た地面が崩落した。
「キシャァァァァァァ!?」
「おわぁぁっ!?」
唐突な浮遊感。
真っ暗な空が遠のいていく。
流石にこれには驚いたのか、ムカデの方も驚いたかのような鳴き声を上げた。