ケツァルコアルトス(作:marron)
小3の夏休み。
僕はケツァルコアルトスのさえずりを聞いていた。あの日のことを、あの日の失敗を、僕は忘れない――
小3の夏休みのある日、従姉のカオルちゃんが、僕に卵をくれた。
「これ、私が作ったんだ」
「へえ~、カオルちゃんの卵かあ」
「その言い方はやめて。頑張って育ててね」
カオルちゃんがくれた卵は、普通にスーパーで売ってる鶏の卵の形をしているけど、色は銀色。金属感というか、金属缶?明らかにおもちゃっぽかった。
だけどどうやら育てられるらしい。どういう意味だろう。
一緒に「取扱説明書」というのも貰った。わら半紙に細かい字でビッシリと卵の孵化の仕方やら、生まれた生き物の育て方が書かれている。
さすが天才中学生。こんなもの作れるんだ、ってその時は感心したけれど、大人になった今思うと、あり得ない。
とはいえ、その頃はそんなもんだと思って、僕は卵を孵すことにした。
卵を電気アンカと水を入れた段ボールに入れ、孵化を待つ。ものの半日で卵は孵った。
銀色の卵の殻が割れたと思うと、中から小さな怪物みたいなのが出てきた。
「なんだこれ、鳥?」
可愛げのない、骨と皮しかない醜い生き物。普通こういうのって可愛い物が生まれてくるんじゃないの?カオルちゃんは一体何を考えてこんなものを作っちゃったんだろう。
とはいえ、段ボールの中で震えているそれを見てると、なんとも言えない母性本能のようなものが芽生えた。
「何々?えーっと、まずは親子きずなの儀?」
カオルちゃんの考えることはよくわからん。まあ、本物の生き物ではないんだろうけど、ソレと親子になれと言うんだ。
説明書に書いてあるとおり、その醜いヒナの長いクチバシの先をチョンと突いた。
「いて」
静電気がピリっと刺すような痛みがあった。これって、電気で動いてるの?
この“親子きずなの儀”をしたら、さっきよりもさらに愛情が芽生える気がした。
「タケちゃん、卵どう?」
タイミングよく、カオルちゃんが僕の部屋を見に来た。
「カオルちゃんの卵、孵ったよ。ほら」
「おおーう、大成功」
カオルちゃんは興味深そうにヒナを覗き込んでいる。ヒナが少し怯えるのを見て、ヒナを守ろうという僕の中の母性本能(?)が刺激された。
「そんなに顔を近づけたら怖がるよ」
「あ、ごめんごめん」
カオルちゃんはニヤりと笑って段ボールから少し離れてくれた。
「名前は?決めた?」
「ううん、まだ。ねえ、これってなんなの?鳥?」
「そ。ケツァルコアルトスって鳥を真似て作ったんだ。説明書に書いといたでしょ?」
「まだそんなに読めてない」
だって字が多いんだもん!でも、そうか、やっぱり鳥なのか。翼っぽいものもあるしな。まだ皮しかないけど、もしかすると羽が生えて、ヒヨコみたいにふわふわになったら可愛くなるかもね。
「まあ、どんな種類かは別に覚えなくても良いけど、一応書いてあることは全部読んだ方が良いよ。で、名前」
「名前かぁ」名前を付けるって、本当に親になった気分。「カオルちゃんだったら、どうする?」
「私?そうだなあ、ケツァルコアルトスだから真理子?」
「やだよ、ママの名前なんて。しかもその“ケツ顎”なんとかって関係ないじゃん」
「ケツ顎じゃないよ、ケツァルコアルトスだってば」
「じゃあねえ、ケツ、ケツ…」
「ケっちゃん?」
僕が考えていると、カオルちゃんが“ケっちゃん”って!やーめーてー!
―― ギョギョギョギョ、ギーッチョ
そう思ってるのに、ヒナは名前を付けられたと分かったんだろう。いきなり嬉しそうに鳴いた。
「「 おー、可愛い~ 」」
つい、カオルちゃんとハモってしまったが、良いのか、ヒナがこんなダミ声で。
まあいい。ヒナは“ケっちゃん”という名前が気に入ってしまったようだし、僕も考えが浮かばないから、これでいこう。
「さてと」カオルちゃんは立ち上がった。「また見に来るね。あ、部屋から出すんじゃないよ」
「なんで?」
「だって、真理おばさん、生き物飼っちゃダメって言うでしょ?」
「これって生き物なの?」
そんなもの、カオルちゃんが作れるの?
「ううん。おもちゃだけど、生き物に見えるでしょ?」
「うん、わかった。出さないよ」
「OK、じゃーね」
そう言って、カオルちゃんは僕の部屋から出て行った。
なるほどねえ。カオルちゃんの作ったおもちゃらしいけど、それにこんな生き物見たことないけど、生きているように見えるよ。
僕は段ボールの中のケっちゃんの頭を撫でた。
その日から、僕とケっちゃんの生活が始まった。僕はケっちゃんのお母さんだからね。ちゃんと世話をしてあげなくちゃ。
とりあえず段ボール箱から取り出そうと、ケっちゃんを掴んで持ち上げようとした。
「ぐっ」
その瞬間、僕は何かにギュっと掴まれたような気がした。ものすごく苦しい。慌ててケっちゃんから手を離して、空中に向かって息を吸う。
「あれ?」
何ともない?
なんだったんだろ、今の。
もう一度ケっちゃんを掴んだ。するとまたものすごい圧迫感が襲ってきた。なんだこれ。
「ケホっ、ケホっ」
なんだろう。ケっちゃんを取り出そうとする体勢がいけないのかな。僕は片手を段ボールに入れて、ケっちゃんの翼をつまんで持ち上げようとした。翼の先を持ってケっちゃんを吊り上げる…
「ぎゃあ!」
左腕が捥げるほどのすごい痛みが肩に走った。慌ててそこに蹲って左肩を擦る。
段ボール箱を睨みながらこれは何なのか考えた。
僕の脳裏にある考えが浮かんだ。それは、前にカオルちゃんに虫を見せようとした時のことだ。
僕はカオルちゃんに田舎の大自然を紹介したくて、張り切ってたくさん虫を採ってきた。それをカオルちゃんに見せようと掴んだ時、うっかり握りつぶしちゃったんだ。
それから他の虫は、羽をつまんだら羽が取れてしまったし、ちょっと引っ張っただけなのに、足が捥げてしまった。
今まさに、僕はそんな虫たちの痛みをこの身に味わっているような気がしたのだ。
僕はもう一度ケっちゃんを掴む。すると、ギュっと腕や胸が圧迫されて、手足が硬直するような感覚がした。ケっちゃんを掴む手の力を少しだけ緩めると、その圧迫感はなくなる。もう少し力を入れるとまた苦しくなる。
そうか。僕はこうして、何気なく小さな生き物にしてきたことを、ケっちゃんを通して感じているんだ。
カオルちゃんは僕に“おもちゃ”って言ったけど、教育玩具的な何かだ。カオルちゃんが、虫を殺してしまったことをいけないことだと言ってたのは、こういうことだったんだ。
僕にカオルちゃんの卵をくれたのは、それを知れという意味だったんだ。
けど、きっとカオルちゃんも嫌な思いをしたんだろうし、僕に絶対分かって欲しかったんだろう。
それにケっちゃんはこうしてここにいる。ただ、僕に虫たちの痛みを知って欲しいだけじゃなくて、こうして可愛くさえずって僕に懐いているじゃないか。
これからはケっちゃんを大事に育てれば良いだけだ。
それから僕は、ケっちゃんを触る時は気を付けるようにした。生まれたての繊細な身体を握りつぶしたり、もぎ取ったりすることがないように、細心の注意を払って接した。
そうすると、ケっちゃんは嬉しそうに
―― ギョギョギョギョ、ギーッチョ
って鳴いてくれた。うん、ヘンな声。
僕の愛情が伝わったんだろう。ケっちゃんの成長は目を見張るものがあった。なにせ、孵化して二日目で、もう猫の大きさほどに育っていた。
―― ギョギョギョギョ。ギーッチョ
朝、爽やかなケっちゃんのさえずりで目を覚ますと、首とクチバシが異様に長い不格好なやつが僕のことを覗き込んでいる。
デカくなったわりに、相変わらず骨と皮だけで、皮もしわしわ。可愛らしさは感じられない。まあ、僕にとっては可愛いけどね。
次の日も、その次の日も、朝はケっちゃんの声で目が覚めた。日に日に声が大きくなり、それに比例して身体も大きくなった。ていうか、大きくなり過ぎ!
4日も経つと、僕の部屋に僕の居場所がないくらい、ケっちゃんは大きくなった。馬くらいあるんじゃないかな。どこまで大きくなるんだ。もう部屋では飼えないよ。外に出しちゃダメかな。
幸い、ここらは田舎で僕の家の裏には小高い山がある。山菜やキノコを採りに来る人くらいしかいないから、そこなら見つからないだろうし。
カオルちゃんは外に出すなって言ったけど、もう今出さないと、逆に僕が押しつぶされちゃうし、扉を通れなくなっちゃう。
僕はケっちゃんを外に出すことにした。
ママとじいちゃんは畑に行ってる。家には僕しかいない。キョロキョロと部屋から顔をだし、とりあえず誰もいないことを確認すると、ケっちゃん脱出大作戦だ。
「ケっちゃん、行くよ」
「ギョギョギョギョー」
ギョギョギョーじゃないよ。静かに!人差し指を口の前に立てると、ケっちゃんはクチバシを閉じた。よしよし、良い子だ。
少し翼を引っ張るようにしながら部屋から出す。って、反対側の翼が引っ掛かっちゃってるじゃん。もう、本当に大きいなあ。
引っかかってる方の翼を畳んでやって、今度は後ろから押すと、やっとケっちゃんは僕の部屋から出られた。
それからお勝手口に回って、また翼を畳んでやって扉から押し出す。
「ほら、外に出て。前に進んで。よしよし、もう一歩」
声をかけながらやっとのことで外に出すと、扉を閉めた。
チン!と扉に付いた鈴が鳴ったけど・・・大丈夫。誰もいない。
「よし、行こう」
僕はケっちゃんの横に立ち、裏山に向かって歩き出した。
外に出るとケっちゃんはすごく嬉しそうだった。僕が追いつけないくらい速く歩いていて、本当に馬みたいだ。
「まてまてまて、そっちじゃないよ。ケっちゃん!」
名前を呼べば僕のほうを振り向いてくれるとはいえ、この大きいのを連れて歩くのは大変だった。
裏山に登り、もうここなら人が来ないだろうというところへ行くと、やっとホッとした。
―― ギョギョギョギョ、ギーッチョ
ケっちゃんも嬉しそうに笑っている。やっぱり外に出して良かった。僕の部屋じゃ狭すぎるもんね。
僕とケっちゃんは夕方になるまでめいっぱい遊んだ。
「ケっちゃん、僕は家に戻るけど、ケっちゃんはここにいるんだぞ」
―― ギーッチョ、ギーッチョ
頷いたよね?伝わったよね?
僕はケっちゃんを置いて、家に帰った。ちょっと心配だけど、まあ、大丈夫だろう。
―― ギョギョギョギョ、ギーッチョ
次の日の朝、僕は遠くから聞こえるケっちゃんのさえずりで目を覚ました。うん、ケっちゃんはきっと清々しい朝の空気を堪能しているんだろう。そんな気がした。
でも一応、外に出したことは心配だ。それで、カオルちゃんにだけはメールで知らせることにした。
それから裏山に行き、その日もいっぱいケっちゃんと遊んだ。
ケっちゃんは昨日よりもっと大きくなっていて、キリンみたいだった。首は長いし、クチバシも同じくらい長い。相変わらず不格好だ。
ケっちゃんは翼もある。
裏山の上からスーッと風に乗って滑空することを覚えた。羽ばたいて飛ぶのはできないみたいだけど、すごく気持ちよさそうだ。
「ケっちゃん、僕のこと背中に乗せてくれない?」
「ギョギョギョギョ」
頷いた。背中によじ登っても、もう僕が苦しくなることはなかった。身体が大きくなったからね。
それからケっちゃんは裏山の上まで行って、風に乗って滑空する。
「わおー!楽しいー!」
「ギョギョギョギョー!」
時間があっという間に過ぎて、一日が楽しかった。
日が暮れると僕はまたケっちゃんを裏山に残して家に帰った。
家に帰るとなんだか変だった。
カオルちゃんが来ていたし、ママとじいちゃんだけじゃなくて、近所の大人が何人かウチに来ていた。
「ただいま」
「タケちゃん!ちょっとどこ行ってたの?」
ママがすごい怖い顔をしている。
「え、裏山」
「大丈夫だった?」
ママだけじゃなくて、他の大人にも大丈夫か、大丈夫かと聞かれたけど。
「大丈夫って?遊んできただけだよ?」
どうしたって言うんだろう。僕はキョトンとしてしまった。
「裏山に何かいるらしいのよ。大きな怪物みたいなのが」
「中村さんとこの爺さんが見たんだって。何か大きい動物みたいなのがいるんだって」
「ギャーっていう恐竜みたいな声もするんだよ」
「タケ、明日は裏山に行っちゃダメだぞ」
「う、うん」
大人たちはちゃぶ台を囲んで、深刻そうに話し合っている。ざわざわしていて嫌な感じだ。
手を洗いにお勝手に行くと、カオルちゃんが怖い顔をして来た。
「タケちゃん、ケっちゃんはどこ」
低い小さな声で言われて、僕はドキンとした。
まさか、怪物みたいなのって、ケっちゃんのこと。
「出しちゃダメって言ったよね」
「だって」
「良いから、来なさい」
カオルちゃんは僕の部屋まで、僕の耳を引っ張って行った。
「痛いよお」
部屋に入ると、カオルちゃんは手を離してくれたけど、耳がジンジンする。
「ケっちゃんはどこ」
「あの、裏山に」
小声で言うと、カオルちゃんはガックリと肩を落とした。
「小父さんたちが何を話し合ってるか知ってる?ケっちゃんのことを、駆除しようって話ししてるんだよ」
カオルちゃん、すごい怖い顔。
「くじょ?」
「猟友会も出るって、明日、裏山狩りだからね」
「うらやまがりって」
「ケっちゃんを殺すの!」
頭の中で大きな鐘がグワンって鳴ったような衝撃を受けた。
「なんで」
「怪獣みたいなのが山にいたら、危険でしょ!だから出しちゃダメだって言ったのに」
僕は大人たちの言うことがわからなかった。わかることは、僕が卵から孵した僕のケっちゃんが、殺されそうだということだけだ。
「でも、ケっちゃんは悪いことしてないよ。木を倒したりもしないし、動物や人を襲ったりもしない、まだ赤ちゃんなのに」
「でも、外に出したならもう大きくなったでしょ」
そうだ。今日はもうキリンくらい大きかった。
「でも、怖くないよ。ケっちゃんは悪い子じゃない!」
「大人たちはそれを知らないの。それにね、あの子はもっと大きくなるよ。翼を広げれば12メートルにもなるんだから」
なんでそんな大きくなるもの作っちゃったんだよ。カオルちゃんのバカ!
僕みたいな子どもが頭のいい中学生のカオルちゃんと話したって、勝ち目はない。勿論、大人に何を言っても聞き入れてもらえないだろう。
僕は意を決して立ち上がった。
「どこ行くの」
「ケっちゃんを助けに行く」
「今から?」
「うん」
カオルちゃんは僕を止めようとはしなかった。
「どうやって助けるの?」
「えっと、とにかく僕が先に見つけて、」
言葉を切って考える。あんなキリン並みに大きくなったケっちゃんは、もうこの家には連れてこれない。それどころかもしかすると、さっきよりももっと大きくなってるかもしれない。どうしたら良いんだ。
僕がグルグル考えていると、カオルちゃんが低い声で言った。
「タケちゃん、私があげたのは、卵だけじゃないでしょ」
「え?」
そうだっけ?なんかもらったっけ?
「説明書、読まなかったの?」
「あ!」
読んでない。ていうか、読めるところは読んだつもりなんだけど、なんか頭に入らなかったっていうか、最初の方だけちょっと見て、あとはまあ何か困ったら見れば良いかと思って・・・って、今が一番困ってる!
カオルちゃんは立ち上がると、腰に手をやって部屋を眺めまわした。
「で?卵の殻は?」
「殻?」
どこにやっただろう。
よくわからないけど、カオルちゃんが殻というので僕は部屋を探した。
「はやく探して」
「うん」
ごそごそとケっちゃんが生まれた段ボールの中とか、その周囲を探したけど、ない。
そうこうしていると、居間や縁側に居る大人たちの声が大きくなった。
「タケちゃん!ちょっと爺ちゃんたち出かけてくるから、家で待ってるのよ!」
ドヤドヤと大人たちが去ろうとしている音が聞こえる。
ケっちゃんがヤバい!
僕は走り出した。
裏山狩りは明日って言ったじゃないか!なんでもう行っちゃうんだよ。
「こら、タケ!」
カオルちゃんが叫んでるけど、ダメだ。今、行かないと、大人たちより先に僕がケっちゃんを見つけないと、ケっちゃんが殺されちゃう。
僕はお勝手口から出て、登山道じゃないところから裏山に入って駆け上った。
まだ夕暮れで外は暗くないけど、裏山は木が茂っていてかなり暗かった。向こうの方に大人たちの懐中電灯の光りが見える。僕はどんどん山を登って行った。
「ケっちゃん、ケっちゃん」
上の方まで行くと、僕はケっちゃんを呼んだ。
どこにいるだろう。あんなに大きな身体をしてるんだ。隠れていてもすぐに見つかりそうなもんだ。
「ケっちゃん、どこ」
―― ギョギョギョギョ、ギーッチョ
あっちだ。
声を頼りに、僕は裏山を走る。
すると、さっき遊んだところの木のふもとでケっちゃんが僕を待っていた。
だけど、今のケっちゃんの声は大人たちにも聞こえていたんだ。
「あっちだ!声がしたぞ」
ドヤドヤと大人たちが近づく気配がする。
「ケっちゃん、こっちだ。逃げよう」
僕はケっちゃんを誘導して、裏山の向こう側に下りようとした。だけど、向こう側はあんまり行ったことがない。普段山菜取りの人も入らないようなところで、道がないんだ。
身体の大きなケっちゃんには通りにくい。
「頭引っ込めて。よしよし」
ケっちゃんは、ガサガサと大きな音を立てながら、狭いところをついてくる。
これじゃ可哀想だ。でも逃げなきゃ。
それなのに、大人たちの声はどんどん近づいてきた。
山から見下ろすと、大人たちが山道を上ってくるのが見える。暗い空に山は真っ黒なのに、あそこだけ明るいからすぐにわかる。
あっちに行っちゃダメだ。
だけど、どうしよう。向こう側に下りるのは無理だ。
そう思って、家の方を見ると、そっちに懐中電灯の明かりがチラチラとひとつだけ見えた。
あれは多分、カオルちゃんじゃないだろうか。
「あっちに下りよう」
「ギョギョ」
「し」
ケっちゃんは身体が大きいから、声もデカい。小さい声なんて出せるはずがないんだ。
とにかく、ケっちゃんを家の方に下ろしたかった。山道の明かりを見ながら、あっちから見えないようなところを選んで下りる。
―― ガサガサ
ケっちゃんが藪を通る音が響く。
「ケっちゃん、ゆっくり」
ゆっくりなら、少し静かに行けるはず。
だけど、ケっちゃんが大人たちに見つかるのは時間の問題だった。
もう少しで家が見える、というところで、大人たちに見つかってしまったんだ。
「あそこだ!」
「いたぞ!」
大人たちの緊迫した声が近づいてくる。どんなにケっちゃんを隠そうとしたって、このサイズじゃ見つからないはずがないんだ。
「ケっちゃん、逃げて」
そう言ったけど、もうどこにも逃げ場はなかった。
大人たちがやってくると、僕たちをライトで照らしだした。
「何だあれは!」
「翼竜じゃないのか?」
「なんてこった」
大人たちがザワザワと騒ぐ声にケっちゃんが怯えている。
―― ギョギョギョギョ!ギョギョギョギョ!
「うわっ。威嚇してるぞ」
「早く仕留めろ」
「猟銃用意!」
違う、ケっちゃんは危険じゃない。今のは、怖がった声なんだよ。
「やめてー!」
僕は夢中で大声で叫んだ。
「子どもだ!」
「中里さんとこのタケちゃんじゃないか」
「タケちゃん、危ないぞ!」
「こっち来い!」
違うんだよ。ケっちゃんは危なくない。小父さんたちのほうが危ないよ。お願いだから猟銃なんて向けないで!
「やだー!」
僕はちゃんと言えなかった。ケっちゃんの前に両手を広げて立ちはだかる。だけど、こんなに大きなケっちゃんの前に僕なんかが立ったって盾にすらならない。
「タケ!こっち来なさい!」
じいちゃんの声だ。
でも・・・
―― ギョギョギョギョ
その時、ケっちゃんが僕のことを押した。鼻づらを使って、僕を横に押しやった。
「ケっちゃん」
―― ギョギョギョギョ
「ケっちゃん、ダメだよ」
ケっちゃんは、わかってるの?撃たれちゃうんだよ。死んじゃうんだよ。
―― ギョギョギョギョ
「ケっちゃん」
「タケ!」
誰かが僕の手を引っ張った。
僕はケっちゃんから引き離されて、ケっちゃんは大人たちの前に立って翼を広げた。12メートルもある翼を広げて、高く「ギョギョ」と鳴いた。
「おおおおー」大人たちがどよめく。
―― ガウーン!!!
銃声が響いた。
「ケっちゃあああんん!」
ケっちゃんは撃たれた。その時、僕のお腹がものすごく熱くなった。何か熱いものを押し付けてグサと刺されたみたいなものすごい痛みが襲った。
「ぐっ」
僕はケっちゃんを守れなかった。あまりの痛みに、ケっちゃんがどうなったのかを見届けることが、できなかった。
視界は真っ暗になり、みんなの声も遠のいてしまったから――
気が付くと僕は自分の部屋で寝ていた。カオルちゃんが僕を覗き込んでいる。
「ケ、」
声がかすれていた。
「ケっちゃんは、猟銃で撃たれて消えました」
神妙な顔をしてカオルちゃんが言った。
「消え、た・・・?」
「そ。それだけ。分かった?」
「消えた、って」
僕のケっちゃんが。僕が卵から孵したケっちゃんが、消えた。
そんな。
僕の心が真っ暗になる気がした。何も考えられない。だって、ケっちゃんは僕の子どもだ。大切に育てた大好きなケっちゃんが死んじゃったなんて。
「うぅ、ううー」
「泣いたって仕方がないでしょ」
カオルちゃんは冷たかった。なんでそんな意地悪言うんだ。ケっちゃんが死んじゃったっていうのに。
「いい?大人の人には、タケちゃんとは無関係だって言っておいた。それに、ケっちゃんは撃たれた瞬間に消えたけれど、亡骸もない。それがなぜなのかはわからないって言っておいた。それで全部丸く収まるのよ。分かった?何を聞かれてもタケちゃんはアレが何だったのか知らなかった、って言うのよ」
意味が分からない。
カオルちゃんが作ったんじゃないの。
僕が育てたんじゃないの。どうして“知らない”なんて言わなきゃならないの。
「わかったわね」
「う」
わからないけど、カオルちゃんの顔が怖くて、僕は頷くしかなかった。
カオルちゃんは怒ってるんだ。僕が部屋から出したから。約束を守らなかったから。
それでも、カオルちゃんは僕が頷いたのを見ると、怒った顔を少し和らげた。そしてため息をついて言った。
「愛着のある物がなくなると悲しいでしょ?」
わかってるじゃないか。僕がどれだけ悲しいか。僕は声を出せなかった。
「今までのタケちゃんは、虫が大好きって言いながら握り潰しちゃったり、羽を引っこ抜いたりしたじゃない」
「なんで」
今、その話し?
でも解る。ケっちゃんが死んじゃったことで、生き物とどんなふうに接しなきゃならないか、今までの僕の虫の扱い方がいかに悪かったかが。ケっちゃんがいなかったら解らなかった。
「生き物には、その生き物に合った接し方があるの。小さな虫は優しく触らなきゃならないし、ケっちゃんは部屋から出しちゃダメなの」
「でも、ケっちゃんは部屋にいられないくらい大きくなっちゃったんだ。しょうがないじゃないか」
「そりゃそうよ。育て方を間違ったんだから」
「え」
育て方を間違っただって?12メートルも大きくなるように作ったのはカオルちゃんだ。そんなの僕が知るはずない。あんな生き物初めて見たのに、初めて育てたのに育て方を知ってるはずがない。
「これ」
僕が頭の中でカオルちゃんに反撃していたはずなのに、カオルちゃんの手にある紙を見てハッとした。それは取扱説明書だった。
「読んでないでしょ」
「・・・はい」
「育て方、全部書いておいたのに。段ボールから出さなけりゃ、部屋いっぱいに大きく育つことなかったの。広い場所で育てれば大きくなるけど、狭いところに入れておけば、それ以上大きくなれないの」
「そ、そう、だったの」
なんてこった。
「それから、殻も捨てたでしょ」
そういえば、さっき殻を探したけれどなかった。と、思ったらカオルちゃんはポケットから殻を取りだした。銀色の卵は、割れ目がない。新しい卵だろうか。
「殻は大切だから捨てちゃダメって書いといた」
僕は目をキョロキョロさせるしかない。そんなことも書いてあったなんて知らなかった。
「ご、ごめんなさい」
カオルちゃんはちゃんと説明書をくれていたのに、僕が読まなかったからいけなかったんだ。育て方がわからない、知らないなんて考えていたけど、違った。本当はここに全て書いてあったんだ。これをちゃんと読んでいれば、間違えることなかった。ケっちゃんが、撃たれて消えてしまうことはなかったんだ。
僕は後悔がどっと押し寄せてきて、また涙が溢れてきた。
カオルちゃんは僕の頭を撫でてくれた。
「愛情を持つこと、そこに責任を持つこと。これができなければ、何かを好きだなんて言っちゃダメ。それができるようになったら、またこれを育てなさい」
そう言って、銀色の卵を僕の手に置いた。
愛情を持つということは、ただ好きなだけじゃない。相手を知ること、知ろうとすることを愛するって言うんだ。そうすれば接し方を間違えない。
僕はケっちゃんを好きだったけれど、ケっちゃんのことを知ろうとしなかった。だから消えちゃったんだ。ごめんね、ケっちゃん。痛い思いをさせて。怖い思いをさせて。
銀色の卵を眺めながら、僕は謝った。
カオルちゃんは部屋から出て行った。多分、もう家に帰るんだろう。僕がケっちゃんを裏山に放したって知って急いで駆け付けてくれただけなんだ。
僕は、裏山にいたケっちゃんのことを誰にも言わなかった。
ママにも、じいちゃんにも、知らないって言った。それはカオルちゃんとの約束だから。それで、結局裏山に居たものの正体は誰もわからなかった。
だけど僕は知っている。
あれは、僕が孵した僕の子どもだ。長い首と長いクチバシのある、ケツァルコアルトスという翼竜で、風に乗って滑空するのが大好きなケっちゃんなんだ。
あれから僕はカオルちゃんの書いた取扱説明書を何度も読んだ。ケっちゃんのことを知りたかったから。
小さな箱で育てれば、小さいままで育ちます。
時々水をやると喜びます。
外を散歩するのは1日5時間までにしましょう。
殻を両手で持ってスイッチを押すと、元の卵に戻ります。
あの時、ケっちゃんが撃たれる瞬間、カオルちゃんはリセットボタンを押してくれたんだ。だからケっちゃんは消えたように見えたけれど、この卵に戻っただけで、死んだわけでも消えたわけでもなかった。
取扱説明書を読んで後からこのことを知った時、僕はホッとした。僕のせいでケっちゃんを殺してしまったわけじゃなかったんだ。カオルちゃんが助けてくれたんだ。
『愛情を持つこと、そこに責任を持つこと。それができるようになったら、またこれを育てなさい』
カオルちゃんが言ったことが解るようになって、それから“愛情”と“責任感”を持てるまでとても時間がかかった。そして今年、やっと僕はケっちゃんを育てる決心がついた。
ずっと会いたかったんだ。
ケっちゃん、今度こそ、君を幸せにするよ。そう決意して卵を孵した。
ケっちゃんは段ボールの家を気に入ってくれたようだ。
時々は外に出て、裏山を散歩する。ケっちゃんはとても嬉しそうに空を滑空する。
それを見ると僕は、ケっちゃんがただのおもちゃだなんて信じられない。そうさ、僕にとってケっちゃんはおもちゃ以上の大切な友達だ。
そして今日も僕はケっちゃんのさえずりで目を覚ます。
―― ギョギョギョギョ、ギーッチョ
「ケっちゃん、おはよう」
ケツァルコアルトスは、僕の部屋で幸せそうに歌っている。