部室棟へ 3
頭上に、開けた口がある。
仰向けに倒れている僕に向かってくる赤黒い口腔内、それでも歯は白い。
動物の牙ではない―――それよりも今、この人間の、前歯!
がちん!
と、奴の噛み合わせの音。
次いで、嗅ぐだけで眩暈がするような、臭い
奴の生前の名前はいまだにわからない―――左胸の名札があるべき場所は、ちぎれた形跡がある。
僕は身をよじって、何とか避ける。
人間だった者の前歯をよける。
奴の顔面や前歯が、地面にぶつかった。
ここで、首を、つかみ取る。
首を、右手で持つことに成功した。
僕はこの『男子生徒だった者』の首を、力いっぱい押し返す。
押し返す―――。
奴が苦しんでいる様子はない、僕は左手も、奴の首を掴み、両手で押し返す。
この野郎、こんなになってしまっても―――何でもやってくるわけじゃあ、無い。
自分の首に食い込んでいる指には、噛みつけないようだ。
奴は両手を使ってきた。
絞まっている首を外すのかと思ったが、お構いなしに僕の頭部を掴んできた。
「ぐっ………!」
両頬に指が食い込んでいく。
痛い―――が、激痛というほどではない。
しかし腐食した奴の指からは、現在も血がにじみ出ていて、僕の頬に垂れ流れ始めた。
なんて奴だ、指が壊れかけている。
マウントを取られた体勢で、状況は膠着し始めたが、僕はその維持だけで精いっぱいだった。
ただ首を絞め続けていればいいという話だと思った。
そう思ったが―――不味い、出血量が多い。
僕ではない、奴の出血が―――多い。
首が特に、血でぬるぬるして―――。
絞める指がずれ落ちる。
熟したバナナを握っているような感触だ。
離すわけにはいかない、逆の手で締め直す。
奴の口元から血液が落ちて、地面にはねた。
僕の耳に跳ね付く。
それを何度か繰り返しているうちに、変化が起こった。
奴が横から殴られた。
頭を、木の棒で殴られた。
奴の後方、背中側に立っている人間を、よく見えなかったが、制服のスカートの裾が一瞬、見える。
「―――周防さん!」
もう一度周防さんは奴を殴り、奴は勢いよく地面に倒れた。
部室棟のドアは空いている―――出て来たのか。
「閉めろって、中に入って!」
思わず僕は悲鳴を上げる。
ここでもしもあんたが噛まれたら、僕は何のために水を持ってきたんだ―――。
「早く海老沢くん!」
彼女は僕を起こそうとする。
嬉しさと、それはいらない勇気だ、という気持ちがごちゃ混ぜになった。
彼女は僕の腕を掴んだ。
それはいいが手のひらとなると、血まみれだった。
なんとか立ち上がるが、奴も体勢を立て直そうと、起き上がろうとしているところだった。
僕はなんとか起き上がり、周防さんの背後に恐ろしいものを見た。
二体、いる。
二体、シャツを血でべっとりにした奴らが走ってこちらへやってくる。
数メートル先だ、どこから―――来た?
いやそれどころじゃない。
増えたら―――厳し過ぎる、気づいていない周防さん。
僕は周防さんの身体を突き飛ばし、サッカー部室の中へ吹っ飛ばした。
僕も部室内に滑り込む―――、暗闇の中へ。
そしてドアを閉めるつもりだった。
だが勢い余ったのか、左足一本を、ドアに挟んでしまった。
僕は左足だけを外に出してバランスを崩し、部室内に倒れる。
妙な倒れ方をしてしまった、全身を打つ、痛み。
しかしドアの方は向かないといけない―――向いて、足を引き入れようとする。
挟まっている。
ドアは向こう側に、開く。
もう少し開かなければ、足を入れられない。
「はやく!」
「足が―――挟まって―――」
誰かが押している、ドアを。
誰か―――決まってる、あいつらのうちのどれかだ。
誰だよ、結局。
「くそ………おっ………押してる!」
その時、足首に激痛が走った。
「あっ、ああああああ………!」
足の肉に刺さっている感触がある。
痛みがじんわりと続く。
足首を―――噛まれた。




