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哀しみネクロマンス  作者: 童遊 麒助
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後編

 気が付くと私は、何も無い道を歩いていた。

 何もないというよりも、何も見えないと言った方が正しいか。そこは辺り一面真っ暗な闇に閉ざされていて、僅か数歩先も見通すことができない。

 下を向いても足許は(おろ)か、歩いているのか、それとも浮いているのか解らない状態で、それでも私の身体は、只管(ひたすら)に前進しているのだけは解った。

 どのくらい移動しただろうか。気が遠くなりそうな時間、何も見えない暗闇の中で過ごしているというのに、私の心裡(こころ)は、不思議と落ち着いていた。普通であれば、視界の悪い暗闇の中を突き進むのに、ある程度の躊躇や恐怖心が芽生えてもいいところなのに、そういった精神不安は、いまの私にとって全くの皆無である。

 差して覚束(おぼつ)かず、ゆっくりと浮遊するように歩む感覚は、ここが明確な死の世界であることを、私に自覚させた。私は、人間の記憶の(なか)にある死の淵へと入り込んでいるのである。

 (しばら)く間、私の意識はぼんやりとしていた。何も考えられなかったわけではないが、思考することを脳が、(こと)(さら)に拒んでいるかのように感じられたので、それに従ったまでである。

 ぼんやりと歩みを進めていくうちに、不意に目の前に、(あか)い灯が見えた。

 洋々(ふらふら)とそれに近付いていくと、それは無機的な色に染まった壁に提げられた松明の灯りだった。

 巨大な壁である。まるで腕のいい石工職人が、一個の巨大な岩石から切り出したような、灰褐色をした壁は、まるで私の前進を拒むかのように、唐突に出現した。

 ぺたり――と灯りに照らされた手で壁を触ってみると、ひんやりとして気持ちが良かった。壁には、()()の細やかな手作業で、掘り出されたような意匠(レリーフ)が幾つも浮き彫りとなり、造った者の繊細さが窺える。しかし掘られた意匠(レリーフ)は、どれも人間(ひと)の顔をしており、不思議と皆が皆、同じ様な苦悶の表情を浮かべている。

 松明の灯りの付近に目を遣ると、壁の上部には、これまた苦悶の表情を浮かべている人物像があった。それはまるで、どこぞの国を統べる王族のような格好をして、外套から王冠に至るまで、当然ながら石で出来ていた。

 その人物像は、きっと男なのだろう。王冠から垂れた髪は長く緩やかなものの、頬から顎にかけて生えた豊満な口髭が、それを正真正銘の男だと物語っていた。

 見る者の恐怖心を煽るような顔をしたその彼――と()えて言おう――は、まるで毒でも呑み込んだかのような姿勢で、喉を掻き毟るように細工されていた。痩けた頬骨を歪ませ、(きよう)()を剥き出しにした目は、まるで恨み言を吐くかのように遠く前方を睨みつけている――果たして、その視線を先を追っていくと、何と()()には非常に見慣れた顔をした男が立っていた。

 レオナルド・ハーヴィーである。

 茫洋とした表情を見せる彼は、いつから()()にいたのか、一切微動(ピクリ)ともせず立ち竦んでいる。

「――レオナルド・ハーヴィー――」

 一応彼の名を呼んでみたが、果たして聞こえているのか定かではない。声を発した私自身でさえも、その声は、耳に届くか届かないかの響きしか持っていなかった。案の定、茫然と立ち竦み続けるレオナルドには、私の声は届かなかったようで、全く反応がなかった。

 そこで私は、ふと思い当たった。脳死状態で昏睡する彼の人格――魂が、ここにあるということは、もしかするとこの場所――(もと)い、眼前に建つ巨大な壁こそが、私の求めていた『門』なのではないかと――。

 そう思って見てみると、頑強な壁の中央付近には、確かに門となる扉があった。

 壁を構成する材質と同じ石で出来たその扉は、人間(ひと)ひとりの力では、どうすることもできない重厚感があり、近寄ってみるだけでも圧倒されてしまいそうな堅牢さを誇っていた。

 押しても引いても微動(ビク)ともしない。未だに浮いた感触が残る足許に力を入れるが、(およ)人間(ひと)が及ぼす物理力では対処することができないようになっているのか。扉に込めた力は、どこぞの空間へと無惨にも消え、後には無様に漏れる私の嗚咽だけが残った。

 この『門』を通ることができなければ、私は死ぬことができないのである。一刻も早く『門』を開け、顕世(げんせ)に残る私の肉体を死に追いやれなければ、愛する娘を救う手術ができない。

 (わら)にも縋る思いで、必死に『門』を開けようと試みるが、固く閉ざされた扉は、一向に開く気配がなかった。

「クソ――」

 思わず悪態を吐いてしまう。どうしても開けたい、開けなければならない、よもやここに来て死に切れないなど御免だと、泣きたくなった瞬間、私の耳に、

「――ナニをしていル?」

 という奇妙な声が木霊した。

「――ッ!」

 ハッ――として咄嗟に声のした方を振り向くと、()()には、朧げな輪郭をしたひとつの影が立っていた。

 いきなり現れた謎の黒い影に、私は瞬間的に身を固くした。『門』の陰影(かげ)を照らす松明の灯りが(ちよう)()届かない距離に立ち竦むそいつは、こちらからは一切窺い知れない(かお)の中から、私のことを凝乎(じつ)と見据えてくる。

 まるで蛇の頭をした邪神にでも、睨まれているかのような感覚に襲われた私は、身動ぎのひとつもできず固まっている――と、突然その影が私の方へと一歩足を踏み出したのが解った。

 固唾を呑み込む私の元へと近寄ってくる影の動向に注意を払っていると、僅かな灯りの下その奇怪な姿が露わとなっていった。

「お前は――」

 耀々(ようよう)と照らされた松明のもと、明るみになったその影の正体には、見覚えがあった。

 全身を黒い外套で覆い、猛禽的な(からす)の仮面を被ったその怪人は、私が一度目に死んだときに出遭い、そして私の記憶の(なか)にある潜在的死の象徴(イメージ)を奪い取った、あの怪人だったのだ。

「ナニをしているル?」

 片足を引き摺るような()(きよう)な足取りで、私に近付きながら、そいつはまた同じ質問を口にした。

 得体の知れぬ怪人の出現に、私はひとり呆気に取られつつ、一歩後退ろうとした。しかし、眼前にあった筈の扉が進路を邪魔して、後退することができなかった。

「ナニをしている?」

 三度目の問い掛けの後、その怪人との間は、僅か三歩程の距離にまで狭まっていた。

「――――こ、この扉を、あ、開けたいんだ――」

 仮面に空いた奈落のような視線に突き刺され、私は到頭それまでしていたことを吐露した。すると名も知らぬ怪人は、

「『腐壊門(トランジ)』ヲ通りたいのカ?」

 と聞き慣れる固有名詞を口にした。

「『腐壊門(トランジ)』――?」

 引き攣った顔で、私が鸚鵡返(おうむがえ)しにそう言葉を繰り返すと、怪人は「ソノ門のコトだ――」と私の背後にある『門』を猛禽的に生えた鋭い爪で指差した。

「おマエは、ナンだ?」

 そうして門を差した指――爪を、そのまま私の方へと移行させながら、そいつは、私の素性を問うてきた。

「――わ、私は、ギルバート・フィンレイという――君は何者だ――?」

 彼の動向に逐一注視しながら、恐る恐る私が自らの素性を明かすと、

「ワレは、モネスティエ――この腐壊門(トランジ)ノ門番ダ――」

 と名乗った。

「モネスティエ――か。モネスティエ、君は以前私に遭っているが、覚えているだろうか?」

 怪人の正体が、『腐壊門(トランジ)』と呼ばれる門の門番であることが解った私は、依然として私のことを観察するように見つめ続けるモネスティエに、そう言葉を掛けた。

 私の記憶が確かならば、この怪人こそが、私の(なか)にあった潜在的死の象徴(イメージ)を奪い去った張本人なのである。

 しかし眼前に立った黒ずくめの怪人は、(しば)し沈黙を残してから、

「ナンデ、おマエは、ココにイルんだ?」

 と、私の掛けた問いには答えなかった。

「ココはあのオトコの門のマエダ――ココにあのオトコ以外の(にん)(げん)がイルはずがナイ」

 そこでモネスティエは、私に向けていた指――爪を近くに立っているレオナルドに向けた。そして、

「アノオトコは、おかしい。普通の人間ナラ、ココに来たラすぐ門を開けて入ってイクのに、アノオトコは、全く動コウとしない――ワレが近寄っても、全然ハンノウしない。恐がらナイ。ナゼだ――?」

 モネスティエには、自分が人間にとって異質の存在であることが解っているようだった。

 たどたどしくも、僅かに人間臭い感情を見せたモネスティエの発言に、私は少しだけ気を許した。

「彼は何というか――そう彼はまだ顕世(げんせ)で、やり残していることがあるから、彼処(あそこ)に留まっているんだ。彼の魂は、ここに来ているが、意識がまだ届いていない。だから彼は、ああやって呆然としているんだよ」

 そう説明するも、眼前にいる怪人には理解できただろうか、と心配になる。しかし私の杞憂に反してモネスティエは、

「ナるホド――」

 と理解の意を示し、

「デハ、ナゼおマエは、ココにイル――?」

 と、再三に渡る質問を繰り返した。

「イマまでココに来た奴ラは、みんなひとりダッタ。ソれもソウだろう、ココに来る奴ラは、みんな自分ガ作りダした『門』を通ッて『あチら側』にイクんだ。ひとりノ人間が作りダせる『門』は必ズひとつであり、他ノ人間は、絶対ニ来るコトができなイ不可侵領域ノはずなのに、おマエは、イマココにいる――ドウやってココに来タ?」

 モネスティエの声色は、いつの間にか私のことを詰問するかのような調子へと変わっていた。

 毒々しく黒ずんだ烏の相貌(かお)を、私の首許まで(にじ)り寄せると、睨め付けるかのような視線をやってくる。今や密着せんばかりの距離となった怪人との遣り取りに、私は俄然(ぐつ)と顔を背けつつ、

「わ、私は――」

 と、彼を納得させる言い訳を吐こうとした瞬間、

「おマエ、見タコトがあるゾ」

 と、モネスティエが言った。

「え――」

 そこで彼は、(ようや)く私のことを思い出したようだった。

「おマエ、見タコトがあるゾ――」

 何故かモネスティエは、先程と同じ言葉を繰り返した。そうして私の首許に宛てた烏の(くちばし)を引っ込めると、一歩下がって、茫然とする私の顔を俯瞰するように見遣った。

「おマエ、ずっとマエに、ココに来タカ――?」

 僅かに頸を傾げながら、モネスティエはそう言った。私は、静かに小さくコクン――と頷き、

「――よ、四年前に、一度遭っている――」

 と言った。

 呟きにも似た私の言葉を耳にして、モネスティエは、

「時間ナドどうデモイイ――そうカ、おマエはワレと遭ってイルのだナ」

 と、奇怪な含み笑いを洩らしながら、得心の意を告げてみせた。

「アァ、マエに遭ったことのある奴トまた遭うノは、初めテダ――ソウか、ソウか――」

 烏の仮面を被った怪人は、最初こそ込み上げてくる笑いを、肩を揺らしながら、噛み殺していたが、それも今やあからさまな笑いに変わり、ヒュウヒュウ――と、まるで咽頭(のど)に空いた穴から空気が洩れ出るような音を出して、私のことを嘲笑しているようだった。

「わ、私のことを覚えているのなら話が早い――以前、君と遭ったときに、私は君に大切なものを奪われてしまったんだ――それを返して欲しい。そうして貰えるのなら、私は今すぐにでもここから去ろう。どうだ――?」

 未だに笑声する怪人の耳に届くように、私はそう言った。彼に奪われた潜在的死の象徴(イメージ)さえ戻れば、何も他人の『門』を通ってまで死ぬこともない、と考えたうえでの提案であった。

 潜在的死の象徴(イメージ)が戻れば、顕世(げんせ)に戻ってすぐに自殺すればいい、と安易に捉えていたのだが、

「ワレが、おマエから奪ったモノ――?」

 と、モネスティエは、何のことか解らぬと言った調子で、また頸を傾げただけだった。

 私は慌てた。

「あ、ああ、そうだ。私は、君から死を奪われた。四年前のあの日、私は()()で君に遭って、一度顕世(げんせ)に突き返されたんだ――そのときから、私は死ねなくなった。きっと君が、私の(なか)から死を奪い去ったからだ。だから私は、彼の夢を利用して()()に来たんだ――」

 私が、呆然と立ち尽くすレオナルドを指差すと、モネスティエも一瞬彼の方を見た。しかし()ぐさま(かお)を私の方へと向け、

「ワレが、おマエから何かヲ奪っタとイウのは、間違イダ。ワレはタダ、頼まレタだケダ」

「頼まれた? 誰に――」

「おマエの名前、モウ一度イエ」

 困惑する私を余所に、その門番は、()くまで自分主義(マイペース)を貫き通すようだった。彼の疑問には(ことごと)く答えなければ(らち)が明かない。私は再度、自らの名を口にした。

「――ギルバート・フィンレイ――だ」

「ぎるバート・フぃんレイ――アァ、思い出した」

 私の名を、たどたどしく(はん)(すう)した後、彼はまた先程と同じように、得心したような素振りを見せた。

 私は、遂々(ついつい)苛立って、

「だから私は、以前にも君と遭って――」

 と勢い任せに、そう言おうとしたが、それよりも先に、

「――そうダ、おマエが、エみリアの言ってイタオトコだっタ――な」

 という怪人の呟きに我が耳を疑う羽目となった。

「き、君――モネスティエ、今何と――」

 ――言ったんだ? と私が声を上げるよりも「おマエは、エみリアという女の恋人ダナ?」

という質問の方が早かった。私は、心ここに()らずといった調子で頷き、何故、怪人の口からその名が出たのか不思議でならなかった。

「モネスティエ――君は、エミリアのことを知っているのか?」

 殆ど何も考えられず、やっとの思いでそれだけを尋ねると、(からす)の怪人――モネスティエは、

「知ッテいルぞ――アノ女とは、アノ女の門のマエで遭ったカラな」

 と言った。

 その言葉を聞き、私は唖然となった。よもや死の淵に()いて、愛する恋人の名を聞くとは、夢にも思っていなかった。これは何の因果であろうか。愛する娘を救う為に赴いた死地で、その母親の名を耳にするとは、これ以上ない運命的なものを感じる。先に死んだエミリアと面識があってもおかしくはなかった。

 それに彼の口振りからすると、彼はエミリアと会話をしている。それも私についてのだ。 

 いったい彼女は、この黒い怪人に、私のことを何と吹き込んだのだろう。私は(にわか)にそれが気になった。

「モネスティエ、君は、エミリアから私のことを何と聞いている?――(いや)、エミリアは、君と何を話したんだ?」

 一歩離れた距離にいた彼は、今度は私の方から詰め寄った。

 懇願するように、彼の肩に手を置こうとすると、烏の怪人は、また一歩退き、私との間に一定の距離を保った。そうして、彼に向けて上げた手が、虚空を切るのを見計らってから、モネスティエは言った。

「エみリアは、とテモイイ人間ダッタ――アノ女は、他者ノコトを気遣ウコトノできル、(まれ)ニ見ル善人ダ」

「ああ、彼女は素晴らしい人間(ひと)だ。尊敬に値するよ」

 最早人間でないことを疑って()まない怪人の、恋人に対する評価に、私は同意せずにいられなかった。

 死んでも(なお)、彼女は彼女の姿勢を貫き通していたことに、私の心は心良く安堵を覚えた。やはりエミリアは、私の恋人は、最良の人物だなどと、ひとり感慨に耽っていると、ふとモネスティエが、先程吐いた言葉の意味に引っ掛かりを覚えた自分に気が付く。

 私は言った。

「他者のことを気遣うことのできる、(まれ)に見る善人――と、君は、彼女のことを高く評価しているが、彼女は、君にそんな感想を抱かせるようなことをしたのか? 彼女は確かに善良な人間だ、しかし何の理由もなく、そういったことはしない分別のある人間だ。彼女はいったいここで――(いや)、彼女自身の門の前で、何かをしたのか? 他者にとって都合のいい振る舞いを、彼女は実践して見せたのか? どうなんだ、モネスティエ?」

 彼女が、いくら善良な人間であるとしても、何らかの理由と動機付けがなければ、()(やみ)()(たら)に、そんなことをしないことは解っている。故にモネスティエが、彼女のことを善良だと評価したことには、何かしらかの出来事があったと思わざるを得なかった。しかし、その出来事が、何であるのかを想像することは、困難を極めた。モネスティエも言ったように、死んで『門』の前に来る人間は、必ずひとりで来るしかない。何故なら、『門』を作り出し通ることができるのは、死んだ当人にしかできないからだ。私のような非道を冒す者は別として、通常であれば()()に第三者の存在は、介入できないはず。

 当然、エミリアにもそれは当て()まり、絶対的な自信を持って、彼女は自らが作り出した『門』の前に、ひとりで来たことが言える。ならば、烏の怪人が、エミリアのことを善良だと評価したのは、彼にとって至極都合のいいことを、彼女がした、もしくはされたからではないか、と思ってしまう。

 彼女は、ちゃんと『門』の向こう側へと旅立つことができたのだろうか――そんな寞然(ばくぜん)とした思いが不意に浮かび、私の心裡(こころ)は、途端に強烈な不安の波に襲われた。

「彼女は君に何かしたのか? それとも君が彼女に何かしたのか? 彼女は、彼女の人格――魂は、無事に『門』の向こう側に行けたのか? どうか答えてくれ、モネスティエ! 彼女はどうなったッ――!?」

 急激に逆立った不安に突き動かされて、捲くし立てるように私は叫んでいた。彼女の動向が気になって、あまり考えたくもないが、不吉な予想が頭の(なか)で次々と勝手に組み上がりはじめ、私は軽い混乱の極致へと追い遣られた。

 いったい彼女はどうなった――?

 最早、それだけのみしか、考えることができないでいる私の耳に、例の首を傾げた仕草でモネスティエは答えた。

「おマエは、ナニやら勝手ナ勘違イをしてイルな、ぎるバート・フぃんレイ。おマエが想像すルようなことは、ナニも起きてイナイ。安心スルがイイ。エみリアの魂ハ、ちゃんト門ノ向コウ側に行っタゾ。ワレは、アノ女がシカと門ヲ潜ッていったのヲ見届けテイル。ワレがアノ女ノコトを評価シテいルのは、死ンダアノ女が、コレから死ヌであろう人間ノ心配ヲしていタコトダ」

「どういう意味だ?」

 極度に混乱していた脳では、怪人が口にしていることの半分も理解することができなかった。取り敢えず彼女の人格――魂は、無事に『門』の向こう側に行けたという事実だけを、頭の(なか)に入れ、ひとり胸懐(むね)を撫で下ろす――ともすれば、いまの私の仕草は、端から見れば滑稽なひとり芝居を演じているように見えたことだろう。ひとり勝手に狼狽し、途端に熱が冷めたように(しお)らしくなった憐れな私を尻目に、モネスティエは淡々と私の問いに答えた。

「エみリアは、アノ女は、ワレにアル頼み事ヲして門ノ向コウ側へト消えた。ソのアル頼み事トは、ドコかノ門ノマエで、アル人間に遭ッタトしたラ、ソノ人間が門ヲ潜ルのヲ、一度だケ阻止シテ欲しイというモノダッタ」

「阻止? それはつまり、その人物が門を潜って死ぬのを邪魔しろってことだろうか?」

 待てよ――それって――。

「エみリアが、ワレに依頼しタコトを、ワレは忠実ニ実行に移しタ。アノ女ノ予言通リに、アル門のマエに現レた人間ノ魂ヲ、ワレは一度、おマエが言う顕世(げんせ)トやらに送り還シタ――そうダ、おマエのコトだ、ぎるバート・フぃんレイ。エみリアは、おマエが、死んで門のマエに来たラ、一度だケ見逃シテあげテ欲シいト、ワレに懇願シ、ワレはそレヲ許諾しタ」

「何故――何故、彼女はそんなことを――」

 訳が解らなかった。何故エミリアは、道理も通じなさそうなこんな怪人に、そんな頼み事をしたのだ。何故彼女は、私の死を拒絶するような願いを口にしたのだ。

 私が死ねない体質となってしまったのは、実は彼女の所為なのか。だとしたら、彼女は、私の死を望んでいないことになる。彼女が望まぬ死を、私は率先して行っていたことになる。しかし、いったい何故彼女はそんな願いを、この怪人に託したのだ。

 私の心裡(こころ)は、ここに来て何度目かの混乱に陥っていた。

 愛する人の真意も計れぬまま、呆然とする私に向かってモネスティエは言った。

「エみリアは、言っていたゾ。モしぎるバート・フぃんレイというオトコが、ドコかノ門ノマエに来たラ、そいツはきッと傷心シテイルはずダと。ぎるバート・フぃんレイというオトコは、頭はイイが、少々ココロが弱く、繊細な人間デアルかラ、きッと自分が死んダコトに傷ツいて、自らモ躊躇(ためら)ウコトなク、命を断ツダロうと。ダから彼が来タラ、一度だケ許シテ上げて欲しイと。彼が死ヲ選んダのは、彼の所為ナンカじゃナい、私の所為ナノダと言っていタ」

 そこでモネスティエは、茫然自失となっている私の前で、一度だけ言葉を切った。そして、

「ワレは訊いた。ドウしテ、他者ノ死を気にスルのカ? ぎるバート・フぃんレイとイウオトコノ死は、おマエにとッて何を意味スルのカ、ソウ問い質スとエみリアは、言ッた――ぎるバート・フぃんレイは、私の愛シタ最初で最後ノ人間だカラ、私のタメに死ヌなンテそんナ悲しイコトはナイ。できレバ彼ニは、生キていて欲しイ。ソレが私の唯一無二ノ願イダ――と」

「エミリア――」

 そう言うモネスティエの言葉が終わると同時に、私は、愛する女性(ひと)の名を自然と呟いていた。

 彼女は死して(なお)、こんな私のことを気遣ってくれていたのだ。そう彼女の死を契機(きつかけ)に、私が自らの命を断つことは、聡明な彼女にとって、お見通しの事象だったのである。故に彼女は、そんな私の為に、もう一度生きる機会を与えて欲しいと〝人間でなし〟の怪人に懇願し、私は顕世(げんせ)に戻ることができたのだ。そんな彼女の優しき心裡(こころ)も露知らず、私は、彼女の娘を守る為に、彼女の気持ちを(ないがし)ろにしてしまった。私は、愛する人間の想いを、軽々しくも裏切ってしまったのだ。

 モネスティエが明かした言葉に、私はひとり愕然とした。もう何も考えることができなくなっている。いっそのこと頭を抱えてその場に(うずくま)りたかったが、モネスティエが吐いた次の言葉に、私の膝は辛うじて折れなかった。

「ソレとエみリアは、おマエに遭ったら伝えテおいテ欲しイコトがアルとモ言ッテいた。私がアナたノマエかラ消えたノハ、権威アルお医者さまヲ目指すアナタノ負担になリタくなかッタから。重イ病気ヲ患ッた私ト結ばれテハ、アナタの将来ニ傷を付けル。アナタハ優しイ人間ダから、私ガ病気ト知れバ、きッと私ノ病気を治す為に力ヲ尽くしテくれル。ソレデは、お医者さまにナルアナタノ夢ト、大切ナ時間ヲ奪ウコトにナルから、私はイナイ方がイイ。幸い私ニは、アナタから授かッタ生命ガ傍ニイてくれタから、寂しクナカッタ。幸せな人生ダッた。アリガトウ。モし生き返ルコトができタラ、私とアナタノ子供ヲ探シテ。ソノ子の名ハ、リタ。

リタ・フリークス。私とアナタノ大切ナ愛娘ヨ。オ願いネ――コレがエみリアカラノ(こと)(づて)ダ」 そうか――そうだったのか。四年前に、エミリアが私の傍からいなくなったのは、私の将来を危惧したからだったのか。当時エミリアは、自らの身体が、重い心臓病を患っていることを知っていた。それを知れば、私が、きっと彼女の為に、全力を尽くして治療法の開発にあたることを彼女は憂慮したのだ。私は、将来的に『罪なき聖嬰児たちの(イノサン)』に属する医者となって国民に奉仕することを、(もつぱ)らの夢としていた。エミリアには、それを毅然(きつぱり)と公言したことがあったかもしれない。それを聞いたエミリアは、私の進退を心配して、身重の身体を引き摺って私の前から姿を消し、ひとり惕然(そつ)と死んでいったのだ。

 そのことを頭の(なか)で整理するのに、(しば)し時間が掛かった。そうして、(ようや)く彼女が消えた理由を理解した頃には、私の頬を一筋の涙が伝っていった。

 折れかけていた膝が、地面に落ち、私はひとりでに泣いた。

 こんなにも悲しい気持ちになったのは、四年前以来である。あのときも、涙を流した理由は彼女絡みであった。

 思えばこれまでの私の半生は、彼女と共にあったのかもしれない。エミリアと出遭い、恋に落ち、愛を育み、失い、亡くし、そして彼女の娘と出遭う。私の人生は、(いや)、運命はいつも彼女を中心に廻っていた。愛娘の為に死を望んだいまでさえも、彼女の意思は、しっかりと私の中に浸透していき、私は愛する彼女の、エミリアの想いの深さを知った。

 そして更に、そんな彼女の行為を無駄にするような自分の行いに、ひどく肚が立った。

 私はいったい何をしているのか。彼女から生きる機会(チヤンス)を与えられていたのに、私は、やはりとんでもない裏切り者であることを自覚して、私は、幾度目かの絶望に震えた。

 ああ、私は最低な人間だ。愛する娘を守る為とはいえ、愛する女性(ひと)の気持ちを、想いを(ないがし)ろにしてしまうなど、あり得ない。

 私は、いったいどうすればいいのだろうか。

 このままレオナルドの夢から出ていくことも、恐らく可能であろう。そうすれば、私の人格――魂は、顕世(げんせ)に戻り意識が目醒めるはずだ。しかし顕世(げんせ)では、危篤状態に陥っている愛娘がいる。彼女のことを考えると、不用意に戻ることは(はばか)れた。今すぐにでも『門』を通って死に遂げなければ、近い将来『門』を通ることになるのは、リタの方である。だが、ここで『門』を通って死んでは、あちら側にいるであろうエミリアに顔向けできない。死して(なお)、私のことを思い、死の門番に便宜を計るように取り計らってくれた彼女の思いを()()にもできない。

 彼女と娘――私は、どちらを選ぶべきなのだろうか。

 端からすれば、そんなこと決まっているかもしれない。常識的に考えれば、娘の方を優先すべきだ。死者の声に惑わされて、生者の将来を犠牲にすることなど、医者として、科学者として、何より父親として、猶予できないことである。死者は既にここにはいない。しかし娘は、未だに生死の境を彷徨っている。それを思えば答えは簡単だ――私の答えは――

「――もう一度、顕世(げんせ)に還ることは可能だろうか――?」

 気が付くと私の口は、ひとりでにそう呟いていた。

「私には娘がいる、エミリアとの間に生まれたひとり娘だ。彼女は、母親と同じ重い心臓病を患っていて、心臓の移植手術を受けなければ助からない身体なんだ。その臓器移植者(ドナー)が私で、私は死ななくてはならないのだが、四年前にここに来て、顕世(げんせ)に送り還されて以来、死ぬことができなくなってしまった。娘の命を救うために、私は何度も死を試みたが死ねなかった。だから、私はそこにいる男が造り出した『門』を通って死のうとしているのだが、エミリアが残した言葉を聞いて、気が変わった。私は顕世(げんせ)に戻る。戻りたい。戻って、何としてでもエミリアが残した命を、私の手で繋ぎ止めたいんだ。それは彼女の願いでもある。私は、娘の、リタの命を救い、彼女と共に生きていきたい。エミリアの分まで、娘と共に――」

 心裡(こころ)は決まった。私は、エミリアの意思を尊重し、娘のリタを救うことを心に決めた。

 いまから顕世(げんせ)に戻れば、危篤状態にあるリタのもとへと駆けつけることは、十分可能だろう。ならば、()ぐにでも顕世(げんせ)へと、送り還してくれるようにと、モネスティエに頼み込む。私ひとりの力では、ここからどう帰還していいのやら解らなかったので、死の門の門番に助力を請うてみたのだが、肝心のモネスティエは、私の言葉を聞いても、一切の反応を示さなかった。

 何やら黙り込み、穴の空いた仮面から、私のことを見詰め続けている怪人に、堪らず私は、声を掛けようとした――が、

「ソレハできナイ――」

 という奇怪な声が、そうしようと試みた私の行為を制止した。

「何故だ? 何故できない? 四年前に、君が私にしたように、私の人格――魂を、顕世(げんせ)に還してくれればそれでいいはずだろう? 何故できない? 私は顕世(あちら)に還りたいんだ――」

 何という我が儘だろうと自分でも思った。ここに来たのは、自らの意思であるはずなのに、今度は、還りたいなどと駄々を捏ねている私は、まるでひとりの子どものようだった。しかし事は、一刻を争うので、惨めな外聞など微塵も気にすることなく、私は今更に固めた意思を貫き通そうと(からす)の怪人に詰め寄る――が、モネスティエはやはり頸を縦に振らなかった。

 彼は言った。

「エみリアが、ワレに依頼した頼みは、ひとつ。モしぎるバート・フぃんレイというオトコと遭ッたら、一度だけ許シテあげて欲しイというコトダッタ――ソウ、一度だけダ。それハ以前おマエと遭ッタとキに果タされテイル。ワレハエみリアの依頼ヲ忠実に実行しタ。ソノ対価モすデに受け取ッてイル」

「対価――だと?」

 何やら不穏な様子を感じて、私は咄嗟に身を固くした。

 対価とは何だ――?

 悪戯(いたずら)な予感が、頭の(なか)を一巡りするが、怪人の吐いた言葉を理解するより先に、モネスティエは、自らが被った仮面に、その指――爪を伸ばした。

 そうして、ゆっくりと邪悪な(からす)を象った仮面をずらしていくと――そこには、

「エミリア――」

 私の愛した女性の顔があった。

 それはとても奇妙な光景であった。

 黒々とけばけばしい羽を(こしら)えた、(わい)()な外套のうえに乗った、白い顔。明かりの乏しい背景の暗がりも相俟(あいま)って、それはまるで宙空を漂う生首のように見えた。

 しかし、雪華の如く色づくその(かお)は、まさに、私が愛した唯一の人間のそれだった。

 それを目にした瞬間、私の思考は完全に停止した。

 いったい彼女に何があったというのだろう。極度に停止した思考で、事の次第を推察しようと試みたが、何が起きているのか一切正確に把握することができず、断念する。

 これは何だ――何の冗談だ――と、そんな(やく)(たい)もない思考ばかりが、駆け巡り、私は、ただ呆然と暗闇に浮かんだ死者の(かお)を眺め続けるしかなかった。

 エミリアの相貌(かお)をした怪人は言った。

「ワレハ、おマエを一度だけ顕世(げんせ)に送り還スコトを条件ニ、対価とシテエみリアカラこノ顔ヲ貰ッた。アノ女の条件ヲ呑ムノニは、ぎるバート・フぃんレイトいうオトコの――ツまり、おマエの顔を知ル必要があッタかラダ。顔モ知らヌ人間ヲ送り還スコトなどできなイカラ、オトコの顔ヲ知ッイルエみリアノ記憶ガイルと言った。ソしてエみリアは、コノ顔ヲ差し出しタ」

 そう言ってモネスティエは、鋭く尖った鳥の爪で、エミリアの顔を指差した。

「本当でアレば、アノ女の記憶ソノものが必要ダッた。ソウであれば、確実にエみリアが言うオトコノ判別もできタのだが、ソウするとエみリアの記憶の(なか)カラ、おマエといウ人間ノ記憶モ無くなッてしまウ恐レがあッタ。ソレを嫌ッたエみリアハ、変わリに己ノ顔をワレニ差し出しタノダ。ソしてコノ顔に残ルオトコノ記憶を頼リニ、ワレハおマエを判別スルに至ッた――」

 私の愛した女性の顔で、そう言葉を括った怪人の声を聞いて、私はまたしても愕然となった。

 エミリアは、自殺した私の人格――魂を救う為に、己の顔を犠牲にしたのだ。あの美しい陽光にも勝るとも劣らない、柔らかな笑顔を放つ顔を、対価として。

 私は情けなくなった。次から次へと突き付けられる彼女の本意に翻弄され、私の心裡(こころ)は、どうしようもなく打ち震えた。

 これは哀しみだろうか。または罪悪感だろうか。私の行いは、(すべ)て裏目に出ている。私はただ娘の命を救いたかっただけなのに、救われていたのは、自分の方だと知って、何とも遣り切れない気持ちとなった。

 慣れ親しんだ自分の顔を棄ててまで、こんな私の為に尽くしてくれるエミリアの気持ちを、私は軽々踏みにじってしまったのだ。何度も、何度も――。

 最早、顕世(げんせ)で苦しんでいるであろう娘のことなど、頭の(なか)からすっかりと消え、私は自らが犯した過ちに、ひどく悶絶しそうになった。

 そうして、呆然と立ち竦む私の身体から滲み出た、罪悪感という名の雰囲気を、敏感に察知したようにモネスティエは、エミリアの顔をした状態で、次の言葉を言い放った。

「ワレハ、エみリアの依頼ヲ果たシ一度ダケ、おマエを死の淵カラ追い遣ッた。ソレでおマエが死ネなくなッタノは、ワレノ所為でモ、エみリアノ所為でモナイ。ソウいッた事例ハ、他ニなク、また今後とモなイコトダロウ。しかシ、おマエは、他人が造り出シタ門ヲ通ッて死ノウとしタ。ソレは不正デアリ、エみリアの願イヲ(ないがし)ロニしタおマエヲ、ワレは許スコトハできなイ。よッて、おマエノ死は無効でアリ、永遠ニここニ留まるガイイ――」

 モネスティエが、そう言い終えた途端、私の身体は、急に金縛りにでもあったかのように、硬くなった。

 見ると、仄かな松明が差す地面から、幾本もの鎖が私の身体に纏わりついていた。手や脚、首に至るまで、身体のあらゆる関節に絡みついた鉄の重さに耐えられず、思わず私は低い呻き声を洩らしてしまった。

 拘束されたのだと解ったときには、もう遅く、地面に向けて頭を垂れるような格好になった私に向けてモネスティエは、(こと)(さら)に言った。

「コノ門は、おマエノ物でハなク、コノオトコの物ダ。門ヲ通ル権利は誰ニでモアルが、他人ノ門を通ルコトハ、許されなイ行為ダ。人間ハ等しク門ヲ造り出スコトデ、死ヌコトができル。しかシ門をナクしテしまッタおマエにハ、死ヌ権利は(おろ)カ生きル権利モなイ。だかラ――」


――永遠ニそコにイロ――。


 と言って、(からす)の仮面を剥ぎ取った怪人は、レオナルド・ハーヴィーの人格――魂を、敢然(そつ)と開いた門の向こう側へと送り出した。


「待てッ――待ってくれッ――! 私は死ななければならないんだッ――! そうじゃなきゃ娘が、リタが死んでしまうッ――! 私はエミリアの変わりに娘を、守らなくてはならないんだッ――! 頼む、死なせてくれッ――モネスティエ――頼むッ――!」

 必死にそう叫んだが、最早死の門番の姿は、私の前から消え去っていた。

 長らく脳死状態にあった造り主の男の人格――魂を、優しく受け入れた『門』が閉じていく。それと同時に、周囲を照らしていた松明の灯りが、徐々にその範囲を狭め、(やが)て辺りは、何も感知することができない暗闇へと変貌していった。

「頼む――頼む――」

 と、頻りに懇願する私の嘆きは、誰にも届くはずもなく、絶望の中で打ち拉がれた私をひとり残して、世界は真っ黒に染まっていった――。


                         ※


 ――結局のところ、ギルバート・フィンレイの実験は、失敗に終わった。

 ギルバートが、被験者の脳に繋がってから(しばら)くして、あいつの脳波は、忽然と途切れた。

 最初はギルバートが言うように、被験者が夢の中で造り出した『門』とやらを通って、死に遂げることができたのだと思ったのだが、ギルバートの心臓は、そのときでもまだ拍動(うご)いていて、尚且つ呼吸も止まっていなかった。

 進行中の実験に、不穏な様子を感じた俺――ティム・ラーソンは、()ぐさま実験の中止をしようと、昏睡状態に陥っているギルバートの身体に、蘇生薬剤を注入しようとしたところで、『罪なき聖嬰児たちの(イノサン)』直轄の医療警務部隊『頭蓋骨騎兵隊(トーメント)』が、実験室に踏み込んできた。

 違法な実験に手を染めている棺察医(かんさつい)がいる、という情報を何処からか入手した奴らは、捜査令状もなしに、ギルバートの実験室を強襲し、友の魂をこの世に呼び戻そうとしていた俺を捕縛すると、室内にあった何もかもを押収していった。

 勿論、その中には、ギルバートと、彼の実験に供されていた脳死患者の身体も含まれていて、

レオナルド・ハーヴィーという名の被験者は、その後『罪なき聖嬰児たちの(イノサン)』が運営する医療施設に緊急搬送されたそうであるが、その後、死亡したそうだ。

 代わりに、レオナルド・ハーヴィーと同じく医療施設に搬送されたギルバートの意識は、いつまで待っても戻らなかった。

 深昏睡状態となって一ヶ月が経つが、回復の()()は立たなかった。

 ギルバートの場合、脳死患者であったレオナルドと違い、自発呼吸もしているし、肺臓も心臓も何の(しよう)(がい)もなく機能していた。国内最高水準の医療設備で、可能な限りの精密検査を実施してみたが、彼の身体は(おろ)か、脳にまで何の異常は見つからなかった。

 つまり現在のギルバートは、深刻な植物状態にあるのだ。

 いくら身体を揺すっても、話し掛けても、眠ったままのギルバートは、何の反応も示さなかった。

 ただリタの話しをしてやると、硬く閉ざされた(まなじり)から、薄らと涙を零すことがあった。きっと、逝ってしまった娘のことを悔やんで泣いているに違いなかった。

頭蓋骨騎兵隊(トーメント)』に実験を阻まれてから、小一時間ほどしてから、拘束された俺の元に、訃報が届いた。リタが亡くなった、という報せに俺は頭を抱えた。いったいこの事実を、友に如何(どう)伝えたらいいか考えたが、一向に目醒めない友の顔を見て、その機会は永遠にないように感じられた。

 友の――ギルバート・フィンレイの行為は、(すべ)て無駄だったのだろうか、と今でも思うことがある。愛する娘の命を救うために、それこそ命を賭して挑んだ彼の行いは、決して褒められたものではなかった。しかし、純粋な思いに突き動かされた彼の行動は、ひとりの人間(ひと)として、

医者として、そして親として、高く評価できるものだと思う。

 例え、世界中の誰もが、彼を否定しても、俺だけは肯定してやれる自信がある。

 我が友は、破滅を選んだのではない、希望を選んだのだ。一寸の先も見ることができない暗がりの中を、手探りで進み、そして見つけた手段を講じて、愛する者の命を繋ぎ止めようとした。ただそれだけ。

 我が友、ギルバート・フィンレイは、そういう男だったのだ。そうであるが故に、不器用な娘への愛情を、安らかに息をする、その胸懐(むね)(なか)に秘め眠りにつく。

 彼はきっと、これからも眠り続けるだろう。愛する娘の死を知らぬまま、硬く閉ざされた瞼の裏で、きっと彼女の夢を見ているはずだ。

 俺は、そう信じている。寧ろ、知らないことが、永遠の幸せだと信じて――。(了)




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