羨望
ミリアはしばらく、腕を組んで小部屋内をうろうろと歩き、打開策を考えている様だったが、やがてチラリとシアンに目をやり、
「……やっぱり駄目……無事脱出するためとはいえ、この身を汚さないといけないなんて……」
とつぶやいた。
「……今の言葉、取り消せ……」
シアンが、彼女の言葉に異様に反応した。
「えっ……今のって……」
「『身を汚す』って言っただろう? あの言葉だ。確かに、悪魔と身を重ねる事にはなるが……事が済めば呪印は跡形もなく消え去るし、悪魔は快楽を求めているだけだから、身ごもるようなこともない」
「……そういう問題じゃないわ。精神的にっていうか、一生引きずることになるのよ」
ミリアも反論する。
「そうかもしれない。だが、『汚れる』っていう言葉を使うのならば、今まで俺にその身を捧げてきた少女達までも貶めることになるんだ」
「……あっ……」
ミリアは、シアンのその言葉に目を見開いた。
「少なくとも彼女たちは、誰かを、何かを救おうとして俺と身を重ねる事を承諾した。不安に怯えながら、恐怖に耐えながら。そんな彼女たちの精神は、尊いと思うことはあっても、決して汚れたりなんかしていない……そしてそんな安易な言葉が、彼女たちを傷つけることになるんだ」
シアンの、諭すようで、それでいて悲しげな言葉だった。
「……ごめんなさい……」
ミリアは下を向き、意外にも素直に謝った。
「……いや、言葉に気を付けてもらえればそれでいいんだ。軽はずみな言葉は、噂として広まって行きやすい。俺は別に構わないが、彼女たちが……くっ……」
そこまで話したところで、シアンは苦しそうに顔をゆがめた。
「……どうしたの? どこか痛むの?」
ミリアが心配そうに駆け寄る。
「ああ……『鎮痛』の効力が切れたようだ……大したことないとは思うが……」
「『鎮痛』って……無理矢理押さえ込んでたの? ちょっと見せて」
シアンは、しぶしぶ彼女の指示に従って、革鎧を外し、その下のボロボロになったシャツをまくり上げて背中を見せた。
「……酷い火傷じゃない、あちこち水ぶくれができて、それが破けてる……一部とはいえ、あの強烈なブレス、生身で受けたんだもんね……ちょっと待ってて」
と、彼女の姿が一瞬光に包まれ、みるみる髪の毛が伸び、目鼻立ちもよりくっきりと、先程までよりも少し大人びた、まるで女神のような神々しい姿を見せた。
「……それが君の憑依体、か……綺麗だな……」
憑依体とは、自分に憑いている悪魔や天使と肉体的に融合した姿だ。
この状態になって初めて、契約による膨大な魔力を使用できるようになる。
戦闘中もこの姿なのだが、基本的には魔界や天界の全身鎧を召喚して着込んでいるので、見ることができないのだ。
「ありがとう……って、そんな場合じゃないわね……」
シアンにとっては背中側の治療のため、何をされているのかよく分からないが……かなり高度な治癒魔法を使用しているようで、彼の痛みはすぐにひいていった。
「……もう大丈夫よ。ほとんど治ったから」
「もう? さすが、天使の魔法だな、そんな凄い治癒も持っているなんて……羨ましい」
「……羨ましい? 私が?」
憑依を解いて元の姿に戻ったミリアが、革鎧の装着を手伝いながら言った。
「ああ……少なくとも、俺みたいに憑依している悪魔が元で忌み嫌われる事はないだろうからな……それに、依頼者の精神的な負担もなさそうだ……」
「……さっきの言葉といい、やっぱり貴方はエラエルの言うとおり、真面目なのね」
ミリアは、シアンの隣に三角座りをして壁にもたれ、ため息をついた。
「……でも、これでも結構、苦労しているのよ……貴方の事、逆に羨ましいって思うぐらい」
「俺が羨ましい? ……そんなにファーストキスを奪うのが嫌なのか?」
「ううん、そうじゃない。でも、貴方は条件によっては、依頼を断ることがあるって聞いたから」
「ああ、そりゃ、な……基本的に契約だから、こっちと向こうの交渉が成立しなけりゃ断るだろう?」
「そうだけど……その、女の子の容姿で断ったりしたとこもあるんでしょう?」
「……そんな噂まで立っているのか……容姿って言うか、あまりにも子供っぽかったり、生娘じゃ無かったりしたら断っているっていうだけだよ。あと、基本的にはその娘と、家族しか契約したこと、分からないようにしている。だから周りに人が居るときは一旦断って、あとでこっそり契約したってこともあるけど」
「……そっか。優しいんだね。他に断る条件とか、あるの?」
「そうだなあ……まあ、内容があやふやだったりしたら断っているけどね。魔物の正体が分からないとか、あと……女の子が、実はお金で雇われた貧しい娘だったりしたこともあって、そのときも断ったな。あまりに怯えていたっていうのもあったからだけど」
「そうなんだ……でも、基本的には断れるのよね?」
「ああ……俺か悪魔のどちらかが乗り気で無ければ、断っている」
「……だったらやっぱり、ちょっと羨ましい」
ミリアは、シアンの隣で寂しそうにつぶやいた。
「私、断れないんだ……エラエルが……天使が認めれば、どんなに難しそうでも、あやふやでも、依頼が立て込んでいても……全部、こなさなきゃいけないの……」
「依頼を……断れない?」
ミリアは、ちょっと泣きそうな顔でうなずいた。
シアンはこの時、初めて彼女に対する認識を改めた。