海上の悪魔
ある晴れた日の午後、シアンは地方都市のマヤカから港街マッシに向かう帆船に乗っていた。
波は穏やかで揺れも少なく、春の日差しがポカポカと降りそそぐ。
乗客は五十人程度、それほど大きな船ではなく老朽化してはいるが、運賃の安さが魅力だった。
シアンは五つ星、『勇者』の称号を持つとはいえ、その能力をフルに発揮するには特殊な条件……『純情な娘と一夜を共にする』という異質な要求を依頼者に行う必要がある。そのため、金銭の報酬自体は格安に設定しなければ依頼が来ない。
そのような理由があるため、彼は常に貧乏で、節約を心がけているのだ。
とはいえ、初級~中級程度の依頼であれば、悪魔の力を借りずともこなせるようになってきた。それらの数をこなすことで、普通の冒険者として生活して行くのも悪くないな……そんな風に考えることもあった。
デッキで心地よい風を受けながら、今後の方針をぼんやりと考えていた時、嫌なダミ声が聞こえてきた。
「よう、『闇堕の勇者』様じゃねえか。おめぇみたいな有名人がこんなボロ船に乗っているなんて、どういうことだ?」
嫌みをたっぷり含んだその声に、うんざりしてしまう。
「……なんだ、ジル。何か用でもあるのか? もうお前と組むつもりはないぞ」
「へっ、つれねえなあ……俺もおめぇと組むのは御免だがな。何せ、娘達からの罵りが酷いからな……おっと、そんなに怖い顔で睨んだって、鎧を纏っていないお前なんざ、怖くも何ともねぇぜ」
このジルという男は、二回ほどシアンと組んで仕事をしたことがあった。
大柄でがっしりした体格の、純粋な戦士。
三つ星ランクの、一人前の冒険者というところだ。
腕はそこそこいいのだが、金にがめつい。
シアンの特殊な能力、報酬の要求に目を付け、
『やや難易度の高い依頼を受け、ある程度の金で娘を買い、シアンに引き渡す』という、タチの悪い商売をしていた。
基本的に、シアンは金で娘を買うことはしない。
本当に困ったあげく、他人の為に身を挺して守りたいという志のある娘にしか、興味を示さないためだ。
ジルから言わせれば、
「娘が金に困って身を売るのと、何が違うのか」
とのことであり、シアンもそう考えた事もあったが、正直、そこはこだわりだった。
ジルに金を渡された娘は、本当は関係のない人物の『身内』と称して、シアンに依頼を行い、呪印を受けていた。
ジルは狡猾に、
「悪いのは闇堕の勇者であるシアンであり、自分はわずかな報酬で人助けを実践しているだけなのだ」
と依頼者をいいくるめていた。
それがシアンにばれて、しかも金をちょろまかしていたことも発覚し……ケンカ別れしてしまったのだ。
ジルはデッキ上でシアンに悪態をついた後、さっさと離れて行ってしまった。
本当にただ、嫌みを言いたかっただけらしい。
そのことに安堵し、また海を眺めようとしたそのとき。
ガコン、と大きな音がして、船が揺れた。
シアンはなんとか足を踏ん張ったが、デッキの上に尻餅をつく者もいた。
「……座礁したのかっ!」
「いや、この辺にはそんな浅瀬はない。クジラとぶつかったのかもしれない!」
数人の船員が慌てて現状把握の為に走り回る。
「……うっ……うわあぁ、化け物っ!」
左舷の様子を見ていた船員の一人が腰を抜かして、這うように中央に戻ってくる。
何事かと全員の視線が集中する中、その奇怪な物体はデッキの手すりの向こう側から、にょっきりと姿を現した。
乳白色で、ウニョウニョとうごめく、大人の胴体ぐらいの太さの気味の悪い物体。
上に行くほど細くなり、下の方は船体に隠れて見えないが、恐らく海面にまで続いている。
よく見ると、大きな吸盤が規則正しく縦に並んでいる。
「……クッ……クラーケンだっ!」
「ばかなっ……この海域は安全なはずだっ!」
デッキの上は騒然となる。
シアンも慌てて、右腕の入れ墨状に姿を変えている悪魔ディアムに問い合わせる。
『……こいつは、確かにイカの化け物、クラーケンだ……しかも相当でかい。水中に潜んでいたから、俺も探知できていなかった。こりゃあ、やべえな……ランクは五、特妖クラスだ。しかも水中の敵ときてやがる……こりゃあ全員、死ぬな』
メキメキ、ミシミシと船体がきしむ。
デッキから見えていた触手も、二本、三本と増えて、手すりを乗り越えて来ている。
「ディアム、なんとかならないのか!?」
シアンも必死だ。
「……喜べ、貴様は運がいい……この船に、年頃の生娘が一人だけ乗船している」
「なっ……こんなときにおまえは……いや、だがそれしか手がないのか……ならばその娘に、他の人に悟られぬようこっそりと交渉して……」
と、その時、あの戦士ジルが大声を上げた。
「この船に、年頃の処女は乗っていないかっ! あそこにいるのは『闇堕の勇者』だっ! お前等も噂ぐらいは聞いているだろう、奴は処女を奪うことを条件に、悪魔の力を得ることができる! 今は非常事態だ、奴に身をゆだねろっ!」
「……あのバカがっ!」
シアンは舌打ちした。
ジルの声に、一人の若い娘が注目を浴びた。
しかし彼女は、クラーケンの足を見た恐怖で、ガクガクと震えるのみだ。
「……ちょうどいい、君、すまないが処女ならあの男と契約をしてくれないかっ!」
しかし側に居た父親らしき男が猛抗議する。
「馬鹿なことを言うな、娘は今、婚姻のため嫁ぎ先に向かっている途中なんだ。そんな事できるわけないだろうっ!」
その時、バキッという音と共に、デッキの手すりが破壊され……クラーケンの頭の部分がズッとせり上がってきた。
その不気味で巨大な姿に、悲鳴があがる。
勇敢な船員達が銛でクラーケンの触手を突いているが、ほとんどダメージを受けていないようだ。
「何が嫁入り、だ。その前に全員、ここであの化け物に殺されるぞっ! あんたも娘があの化け物に食い殺されるところを見たいのか? それに比べりゃ、一度男と関係を持つことぐらい、どうってことないだろうがっ!」
ジルの恫喝に、父親は怯む。
「……ディアム、彼女がそうか?」
『ああ、そのとおりだ。ククッ、おもしろい展開だな……』
「悪魔め……」
とシアンはもう一度舌打ちし、彼女に近づいていく。
「すまないが、状況はこの男が言った通りだ。君が俺と契約してくれれば、全員が助かる。俺と一度だけ身を重ねる事になってしまうが、それで君のお父さんも、俺を含む周りのみんなも、命が助かる」
なるべく優しい口調で、彼は彼女に語りかけた。
船の左舷では、クラーケンが今にも船に乗りこんで来る勢いで触手を伸ばしてくる。
その数はもう、五本に達していた。
「やべえ、もう時間がねえっ! 契約内容はあの化け物の退治、契約期間は即刻っ! それで契約を結べっ!」
二十歳前に見えるその娘は、震えながら、ジルの剣幕に押されて頷いた。
シアンは、そっと右手を彼女の顔前にかざした。
「汝、我と先程の期限・条件にて、悪魔ディアムの名の元、契約を結ぶことに異論はないか」
「……はい……」
「では……これが最後の確認だ。汝、この契約の証として、呪印を受け入れるか」
「……はい……」
弱々しくそう返答した娘は、うっと小さく呻き、両手で首元を押さえた。
「……契約成立だ」
と、そのとき、一本の長い触手が、彼等が集まっているデッキ右舷の上に伸びてきた。
「うっ……うわあっ!」
ジルが情けない悲鳴を上げる。
が、次の瞬間、触手の先端はポトリとデッキ状に落ち、うねうねとうごめき……そして残りの部分は慌てた様に左舷へと引っ込んでいった。
キュアアアァァ、と叫びとも悲鳴とも突かぬ、クラーケンの大声が響く。
そして乗客、乗員は見た。
禍々しくも美しい漆黒の全身鎧に身を包み、同じく闇色の長剣を構える一人の戦士を。