契約
狼の魂が乗り移ったトロールの肉体は、完全に生命活動を停止した後、『魔核』と呼ばれる、大人の握りこぶしほどの結晶だけを残して霧散した。
それがこの世界における、魔獣や妖魔の『死』だ。
魔核の大きさや色、透明度は魔獣の強さ、性質によって異なる。
それぞれ性格の異なる魔力を有し、時には武具や装備の素材にもなる。
そしてこの大妖が残した魔核は、かなりレアな特性で、大きさもまずまずだった。
ようやく落ち着きを取り戻し、なんとか歩けるようになったハザルは、たった一撃で大妖を撃破したシアンのことを、帰り道の途中、ずっと絶賛していた。
そして五つ星、『勇者』の称号を持つ冒険者が、如何に優れた存在であるかということも理解したようだった。
「……ハザル、忘れたのか? 今回、俺が勝てたのは悪魔に力を借りたから……そしてその代償は、ミナが一身に背負う事になるんだぜ」
「あっ……それは……」
彼の表情は一気に曇り、口を閉ざした。
シアンは、こんな展開が嫌いだった。
もし、これが単に金銭を条件に受けた依頼だったのであれば、ハザルの絶賛を素直に受け入れただろう。
しかしシアンは、依頼を達成する度に、心に新たな傷を負う。
それが、前世で命を落とした後、悪魔により復活・転生させてもらった代償なのだ。
二人が村に帰ると、住民達は一応勇者であるシアンを歓迎するために、それなりに贅沢な料理を作ってくれていた。
ところが、下見のはずの案内で、あっけなく魔獣を倒したことをハザルが告げ、次いでシアンがその証拠として入手した『魔核』を見せると、たちまち村中の人々が再集結し、二人の労をねぎらった。
その中には、ミナの姿もあった。
彼女も、笑顔でシアンに対し、村を救ってくれてありがとうと礼を言った。
だが……目的を達成したと言うことは、彼女は契約を果たさねばならない。
その純潔を、シアンに捧げるのだ。
それでも、彼女の表情は明るかった。
彼は、村をさんざん苦しめてきた魔獣を倒してくれた、本物の勇者だ。
そして自分も、村を救うことに貢献できたのだ。
確かに、純情では無くなってしまうが……勇者にそれを捧げるのであれば、実はそれは幸せな事なのではないか……。
実際、祝いの宴は、当初シアンが予想していたよりも明るいものとなった。
閉鎖的なこの村に於いて、外部からやってきたシアンは人々の目に英雄と映り、彼に身を捧げるミナは幸せ者かもしれないと、そんな楽観的な感情も生まれ始めていた。
やがて夜も更け、宴は解散となった。
契約を完遂するまでの期限は三日あるが……ミナは、その日のうちにシアンの夜伽をすることになった。
不安の中に、わずかばかりの期待を持って……彼女は村長宅を訪れる。
家族が住む居室からは少し離れた客間に通されると、そこには、シアンが居た。
案内したハザルは、ではまた明日の朝、とだけ言い残し、笑顔でその部屋から出て行った。
二人きりになったシアンとミナ。
彼女は、顔を赤らめる。
「あの……私、経験が無くて……どうすればいいか、分からないんです……」
「ああ、知っている……そういう娘を、俺は指定したんだからな」
「あ、それもそうですね……では、どうすればいいか、言ってもらえますか?」
「そうだな……とりあえず、着ている物を全部脱いでもらえるか?」
シアンの言葉は、冷静で、どことなく事務的だった。
「あっ……はい……あの、明かりは……」
「そうだな……ある程度明るくしないと満足できないから、ランタン一つだけ残してもらえるか?」
「は、はい……分かりました……結構、明るいですね……」
ミナは、少しうろたえながら……そして顔を真っ赤にして、着ている物を全て脱いだ。
「……綺麗な身体だ。男に見られたことはあるのか?」
「……いえ、十歳を過ぎてからは、誰にも……」
「そうか……」
シアンは、相変わらず事務的な口調で会話を続けると、自分も服を脱ぎ、上半身裸になった。
恥ずかしそうに目を逸らす、全裸の処女。
「ミナ……これから言うことは、重要な事だ……とりあえず、俺の身体を見てくれ」
「はい……」
ミナの視線が、ゆっくりとシアンの身体に注がれる。
端正な顔立ちに、鍛え抜かれた上半身。
彼女の鼓動は、さらに高まった。
「契約の時、悪魔の名前を出したこと、覚えているか?」
「あ、はい……」
「『ディアム』……それが俺に取り憑いている悪魔の名だ。そしてその名を使用した以上、君はディアムとも契約をしたことになる」
「……えっと……よくわからない……」
そこまで口にしたとき……シアンの肉体に変化に気付き、思わず叫び声を上げた。
「……この空間は、既にディアムによって支配されている。どれだけ声を上げようと、周囲には聞こえない。そして逃げることもできない……」
そう言っている間にも、彼の身体は変化を続ける。
目はつり上がり、黒髪は伸び……そしてその背に真っ黒な翼が出現したのだ。
「……あ……悪魔……」
ミナはガクガクと震えながら、そう声を絞り出すのが精一杯だった。
「……その通り、これが俺の本性だ。君はこの姿の俺と、結ばれなければならないんだ……」
悪魔と同化したシアンは、ゆっくりとミナに近づく。
「いっ、いや……来ないで……」
もはや恐怖で立つ事すらできない彼女は、顔を引きつらせ、裸身をよじるようにして逃れようとする。
シアンが今までに幾度となく経験した、最も苦痛で、最も泣きたくなる時間。
自分は、怯える少女と身体を重ねなければならない……。
遂にシアンは、彼女に追いつき、強引にその身を抱き寄せた。
彼の掌から、光が漏れる。
「俺が生身の身体で覚えた魔法、『沈静』と『鎮痛』……せめて恐怖で心が押しつぶされてしまわぬように……せめて強い痛みを感じぬように……」
その効果はてきめんで、彼女はすぐに落ち着きを取り戻し……半分、眠ったような状態になった。
『俺としては、もう少し恐怖でおののく娘の姿を見たかったんだがな……』
悪魔ディアムの思念が、シアンの頭の中に響く。
「抱き寄せるまでだけで、彼女は相当心に傷を負った。これで見逃してやってくれ」
『……まあ、仕方無いな。その代わり、契約はきっちり果たせよ』
「……ああ、分かってる……」
そしてシアンは、優しくミナを抱え上げ、ベッドへと彼女を運んだ――。
翌日、シアンは希望して、村人が起き出すよりも早く、まだ暗い内に村を後にすることにした。
今日の内に、ミナの口から、自分の正体と、そして彼女が体験した恐怖が語られることだろう。
そして村人達は、うわさする。
『やはり奴は、闇堕ちしていた』と……。
ただ一人、見送りに来たハザルから報酬の五千ゴルドを受け取り、短く挨拶をして帰ろうとした、その時だった。
昨日、相当恐ろしい思いをしたはずのミナが、彼の為に出て来たのだ。
そして、ほんのわずか笑みを浮かべ、お辞儀をして、軽く手を振ってくれた。
――シアンは彼女の行動に、感動した。
彼女自身、心に深い傷を負ったはずなのに――。
「……ありがとう……」
シアンは、短く礼を言うと、一度だけ手を振り、そして村を後にした。
契約を果たした後、ののしられるか、泣き続けられるかの事が多い彼にとって、今回は珍しく、それほど悪い気分にはならなかった。
しかし、次回もそうなるとは思えない。
彼の通り名は、『闇堕の勇者』なのだから――。
次回は、海洋上での突発的な戦闘に巻き込まれることになりそうです。