魔界の鎧
シアンは周囲を見渡し、そして声を上げた。
「その様子だと、みんな知っているようだな……俺はこの娘と契約を結ぶ。期限は……そうだな、三日としよう。三日の内に、俺は魔獣を倒す。そしてその後、さらに三日以内に彼女と一夜を共にする。そしてその契約には、悪魔の術式を適用し、彼女の首元に小さな呪印を施す。契約が終了すれば、この呪印は跡形もなく消え去る。ただし、彼女が逃げたり、俺を受け入れなかった場合、この呪印は全身に広がり、彼女を苦しめ続ける」
『悪魔』、『呪印』という単語を聞いて、村人達はざわつき始める。
しかし、いちいちその反応に対して相手をしていては日が暮れてしまう。
ここはさっさと契約を終わらせてしまいたかった。
シアンは数歩、前に進み……そして怯えるミナの目の前に立った。
そっと右手を彼女の顔前にかざす。
「汝、我と前述の期限・条件にて、悪魔ディアムの名の元、契約を結ぶことに異論はないか」
いきなりの展開に、ミナはかなり戸惑っていたが、周囲を見渡すと、皆祈るような、すがるような目で彼女の事を見つめていた。
「異論ありません……」
弱々しく、彼女は答えた。
「では……これが最後の確認だ。汝、この契約の証として、呪印を受け入れるか」
「……はい、受け入れます」
彼女がそう答えた刹那、シアンの右手とミナの首元が黒い影で繋がり……そして彼女は、うっと小さく呻き、目を閉じ、両手で首元を押さえた。
――数秒後、彼女が恐る恐る手をどけると、周囲からどよめきが起こった。
小鳥の卵ほどの大きさだが、ミナの首元には黒いアザが増えていたのだ。
シアンは荷物の中から手鏡を鳥だし、ミナに持たせた。
彼女は震える手でそれを受け取り、自らの首元を見て、そして青ざめた。
「……俺が魔獣退治に失敗するか、成功しても君と結ばれれば、さっきも言ったようにその呪印は綺麗に無くなる。だから……それほど怖がる必要はない」
「……はい……」
彼女は弱々しく頷く。
シアンにとってはこのような反応が、毎回精神的に堪える。
さらに彼は、荷物の中からスカーフを取り出した。
「……これで首元を隠しておくといい」
「……あっ……はい、ありがとうございます」
シアンの意外な心遣いに、ミナは少し驚いた様子だった。
「……ハザル、その魔獣が住んでいる森とやらに案内してくれるか? 下見がしておきたい」
「えっ、今来たばかりなのに、もう行かれるのですか?」
「ああ、契約は済ませたことだしな……できれば、さっさと魔獣を倒してしまいたいぐらいだ」
「さすが勇者様……しかし、魔獣は神出鬼没です。手紙にも書きましたとおり、背丈は我々の三倍はあります。頭はあまり良さそうではありませんが、棍棒を持っていて……」
「ああ、分かっている。力が強いんだろう? その魔獣、おそらく我々がいう『トロール』だ。力が強いだけで、そんなに警戒するほどのやつじゃない」
「は、はあ……勇者様がそうおっしゃるのなら……」
ハザルは、どうもシアンのことを腕利きの戦士だとは納得出来ない様子だった。
しかしミナに呪印を施したあの手際は本物だ。
つまり……彼はなんなかの魔法、または呪いの技術には長けていることになる。
それに、村に着いてからの尊大な態度……これは相当場慣れしているということの裏返しでもあるのだろう……彼はそう考えていた。
実際の所は、シアンは、わざと上から目線で物を言う。
自分は勇者なのだから、従って当然だと言わんばかりに。
実のところ、これは彼の駆け引きだった。
本当はそれほどでもない彼自身の力を、大げさに誇示する為だけの。
――村を出て約一時間、目的の森に入っていった。
そこから、特にハザルが警戒しながら、さらに森の奥へと入って行った。
やがて、やや木々が開けて、大小様々な岩がむき出しになった地形に差し掛かったとき。
『シアン、来たぜっ! ……こいつは速いし、かなりの妖力だ……ただのトロールなんかじゃねえぞっ、鎧を纏えっ!』
シアンの右腕のアザが、彼にだけ聞こえるように声を上げる。
「実際にこの目で見てからにするさ。俺だって鍛えたんだ。三つ星ぐらいの実力にはなっている。お前の力借りずに倒せば、あの娘だって処女を無くさずに済む」
「……なら好きにしな。だが忘れるなよ、おまえが死ねば、あの娘の呪印は一生消えねえんだからな」
ズクン、と彼の心に悪魔の言葉が響く。
彼もまた、彼女以上に呪われた存在なのだ。
「……分かってるさ。それより、敵はどっちから来ている?」
「正面だ。そろそろ見えるはずだぜ」
確かに悪魔の言うとおり、黒い影がかなりの速度で近づいてきていた。
「ハザル、後に下がれ、距離を取るんだっ! ヤツはすぐそこまで来ている、ここで一気にカタを付けるっ!」
シアンの言葉にハザルは驚き、慌てて走って近くの大きな岩陰に隠れた。
……そして魔獣は現れた。
大きさは、確かに大型のトロール程度。
しかしその目は爛々と輝き、全身に焦げ茶色の体毛が生えている。
耳は頭上に犬のように立っており……何より、そのスピードはトロールとは段違いだった。
唸りを上げて、手にする棒状の武器を振り回す。
シアンは距離をとり、その攻撃を躱すが、勢い余って叩きつけられた若木が幹の部分からちぎれ飛ぶ。
「棍棒じゃねえ……金属、トゲのついた金棒じゃないかっ!」
シアンは舌打ちする。
隙を見て接近しようとするが、金棒を持たない魔獣の左手がさらに高速で彼をえぐろうと迫る。
「くっ……!」
何とか後に飛び退いて躱したが、かすっただけの革鎧に三本の大きな傷が付いた。
「これは……爪!?」
シアンは驚愕する。
『……こいつには、狂った狼の魂が乗り移っていやがる……人狼ならぬトロール狼、ってとこか。夜ならもっと厄介そうだな。ランクは四、大妖に相当する、いまの生身のおまえじゃ勝てねえぜ』
悪魔ディアムのアドバイスは、冷静で的確なものだった。
この悪魔の力を借りずに契約対象を倒してしまえば、実は娘と一夜を共にする必要はない。
シアンはあのけなげな少女のため、それを狙っていたのだが……。
今はただ、大妖が疲れるまで攻撃を避け続けるしかない。
と、金棒の一撃が、一メートルほどの岩の塊を打ち砕いた。
その衝撃はすさまじく、人の拳ほどの破片が周囲に広がった。
大妖はそれを金棒を持たぬ左手で集め、大きく振りかぶり、そしてシアンに向かって投げつけた。
無数の破片が、何も遮蔽物のない空間を、斜め上方からシアンに向かって突き進む。
この瞬間、大きな岩陰に隠れてこっそり覗いていたハザルは、シアンの死を覚悟した。
あの岩の破片に貫かれて、この村に来たばかりの青年は命を落とす。
そしてその後、自分も大妖に見つかり、殺される――。
彼は思わず目を瞑った。
次の瞬間、澄んだ金属音が周囲に響き渡った。
ハザルが恐る恐る目を開けてみる。
そこに立っていたのは、禍々しくも美しい漆黒の全身鎧に身を包み、同じく闇色の長剣を構える一人の戦士だった。
――大妖は、いきなり現れた闇の剣士が放つ闘気に戸惑っていた。
金棒を振り下ろす。避けられる。
岩石片を拾い集め、投げつける。
全てはじき飛ばされる。
爪を振り下ろす。
片腕で簡単に受け止められる。
先程までの、必死に逃げ回るだけの脆弱な人間とは全く別の生命体。
大妖として覚醒後、初めて恐怖が全身を襲う。
しかし、逃げ出せば簡単に殺されるだろう。
妖魔は、もうただがむしゃらに攻撃を続けるしか手がなかった――。
悪魔と一体化し、魔界の鎧を纏ったシアンは、大妖の攻撃パターンを取得していた。今後、同類の敵と対峙したとき、このデータは役に立つはずだ。
視界の上部には、残りの魔力量を示す緑色のバーが表示されていた。
悪魔ディアムが、前世の『ゲーム』に登場するそれを真似て、シアンに与えた能力だ。
この魔力量は、ミナとの夜伽の代償、いや、先行して悪魔から借り受けた力だ。
ミナと交わり、快楽を得ることで悪魔に返さねばならない。
その快楽は、シアンも享受することになるのだが……。
『まだ続けるか? 少しずつだが魔力量は減っていくぞ』
「分かっているさ。けど、まだ相当余っているからもったいなくてな……まあ、そろそろいいか……この程度の敵、早く生身で倒せるようにならないとな……」
シアンは、振り下ろされた金棒を避けると、やや後方に距離を取った。
そして腰に差してある投擲用の魔界の短剣を抜く。
「大妖よ……獲物を仕留めるために投擲するのならば、分散して投げちゃ駄目だ、パワーを一点集中させるんだ……こんな風になっ!」
シアンは、短剣を思い切り、大妖の顔面に投げつけた。
バシュッっという貫通音のあと、一瞬で目の輝きを失う化け物。
どす黒い血を額から噴き出させながら、大妖は前のめりに崩れ落ちた。
シアンは右手を前方にかざし、念じる。
すると先程投げつけ、大妖の額を貫通した短剣が手元に帰ってきて、彼はそれを腰の鞘に戻した。
フシュン、という風切音と共に、漆黒の鎧は消え去り、後には元の貧弱な装備の青年が立っていた。
目の前の魔力残量を示すバーは、依頼完了を示す青色に変わっていた。
「ハザル、終わったぜ」
シアンは、腰を抜かして大岩の後にへたり込んでいる男に、声をかけたのだった。