五感
一度たりとも顔を出さない妻や息子を心悪しく思わない訳がなかった。だから長らく暮らしていたあの医療施設を去るときも、我ながら往生際の悪い逃げに走って随分と迷惑がられたものだ。
もしもあのとき、今までその存在をろくろく意識することもなかった息子の嫁が説得の手間を惜しんだのなら、私はまだあの場に横たわっていたに違いなかった。そうして一月も経たないうちに白い病室に染み一つ残すこともなくこの世を去ったのだろう。
「そんなことはありませんよ」
と嫁は言う。その慣れた様子から察するに、私はこの話を何度も繰り返しているのだろう。
「今日からここが私の部屋なのかね」
施設から移されたその日、一人では支えきれない身体を半分嫁に託しながら、私は呆然と呟いた。あまりの仕打ちにむしろどのような悲憤も沸きあがらなかった。
はじめから期待するまでもなく、出迎えに妻と息子の姿は無かった。
「おかえりなさい」
と私の手を取った嫁は職員と協力して、数年ぶりに私を我が家へ招き入れた。
どこをどういじくり回したのか、家は一変していてまるで見知らぬ様子だった。
それでも変わらないものが一つある。それがこの部屋に染み付いた埃の臭いだった。
「ここは以前物置だった」
「ええ」
としか嫁は言わなかった。しかし彼女を責めようとは思わなかった。
部屋はそれなりに整えられていたが、物置であったときの面影がどことなく漂っている。
「……あいつは今どこだい」
「お義母さんならあのひとと一緒に旅行に行きましたよ」
横にされてすぐの会話だった。いつ帰るのかなんて野暮なことは聞かない。
「じゃあ世津さんしかいないんだね」
「はい。私がずっとお世話しますよ」
そのときから私は死について考え始めた。
もしあのまま院内に残っていたら、私はどういう死を迎えたのだろうか。
そしてこの家で迎える死と一体何がどう違うというのだろうか。
「そんな縁起でもないことを言わないで下さいよ」
と世津は言うが、私だって完全にぼけてはいない。自宅療養と名目されているが、自分のことは自分が一番よく知っている。
日々自由のきかなくなる身体は重く、なにもかもがくたびれ果てている。
それに、本当に私が死なないと思うのなら、ずっと世話をするだなんて言わないだろう、君。
気まずい態度をとっても、世津はよく世話をしてくれた。
しかしその介護が丁寧であればあるほど、私は脅かされ続けていた。
ある日の昼、私は目覚めた。
ゆっくりと瞼を押し上げる、異変はすぐに襲ってきた。
全身の血流が確かに一度停止したかと思われた。
衝撃のあまり声も出ない。
なんと、世津がこちらに背を向けていたのだ。
私を介護するとき、つまりこの部屋にいるとき、彼女は常に私の方を向いていた。
しかし今の彼女は違う。
私は初めて拒絶された。
口で言われた訳ではない。介護がずさんになった訳でもない。
ただ実際に、彼女は視覚で私を拒絶していた。
ならばと手を伸ばした。しかしその試みは明らかな失敗に終わった。
届かない。否、動かない。
懸命に上げたつもりの右腕は頼りなく、ついに世津の身体に触れることはおろか、布団から抜け出すこともできなかった。
そしてその過程でまた一つの拒絶に気付かされた。彼女は耳に詰め物をしていたのだ。
「これをつけると音楽を聴くことができるんですよ」
馬鹿にするんじゃない、そのくらい私でも知っている。あの時はそう言い返したが、物の名前は未だに思い出せなかった。
触れられないし、声も掛けられない。私は触覚と聴覚にまで拒絶された。
世津は机に向かっている。そうして手を動かして何かの作業をしているのだ。
何も食べていないのが救いだった。
食べ物というやつは本当に恐ろしい、いっぺんに嗅覚と味覚を占めてしまう。
(世津……)
私は自分の生を失った。
ゆっくりと、指先の細胞から少しずつ、私は機能停止していく。あるいは細胞膜にほんの些細な亀裂がはいり、順にぺしゃりと潰れていくのだ。そうしてそれが終わった箇所は土気色に変色して、薄皮が剥れるように分離しながらぐずぐずに崩れていく。
やがて全身に広がる。
そうして私が完全に―した頃になって、離れ離れになった細胞の残骸がついに浮遊を始める。それは空中で変化し、色々なものと交じり合いながらも私を失わず広がっていく。
まるで全てを駆逐するように、圧倒的な速さでそれは行われるのだ。
こんな狭い部屋ならば数分とかからずに充満するに違いない。
最初、彼女は気付かない。気付かないまま呼吸して、いつの間にか私を身体中にたっぷりと取り込んでいるのだ。
それが時を追うごとにその密度を増し、ついに世津は嗅覚で私を捉える。
しかし私の異変には気付かない。段階を置いて慣らされた嗅覚は私を異質として認識しないのだろうから……。
そうこうしている内に私の密度はさらに増す。
そうしてこの部屋中が私で満たされたときに、世津は初めて味覚で私を感じる。
彼女が驚き振り返り、耳から詰め物を外し、こちらに触れようと近づいてくる。全ての感覚が私に対して開かれ、焼きつき、受け入れられる。
「起こしちゃいましたか」
気が付くと、目の前に世津の顔があった。カーテン越しに見える空はずいぶんと赤く腫上がっている。
「随分と嬉しそうでしたよ。楽しい夢でも見ましたか」
そう言いながら、彼女は私の足を持ち上げ、床ずれを防ぐために姿勢を反させた。
私は死を恐れなくなった。
<了>
大学の講義で提出する作品です。
変態丸出しでドン引きされそうですが自分としてはいい感じにできました。