運命の女
丸い月が出ている。
水田と雑木林に挟まれて、春の農道はひそやかな夜気のもとに横たわっていた。そしてその、鈍い灰色に輝くアスファルトの路上に、ひと群れの男たちがたたずんでいる。
チーム『愁・栗忌武』、今晩欠席の者を除いて二十五名。短ランとサングラスで完全武装し、彼らは山脈方面に続く道を眺めていた。
「翔さん、きませんでしたね」
『ボクサー崩れの龍』が誰に向けるでもなくつぶやいた。数人が嘆息した。ただひとり、中心に立っていた男がわずかに首を振った。
「ほっとけ。今は目の前の相手だ」
「でもリーダー!」
『リーゼントの秀一』が弾かれたように言う。
「翔さんがいなきゃ……」
「翔がいなけりゃ何だ?」
その後は、黙するしかなかった。
この先は言えない。ツッパリとしての最後の矜持であった。
「勝手にこの道を走る奴はシメる。制限速度を守らねえ奴もだ」
農道の彼方に静かな眼差しを向ける男の横顔。
チーム『愁・栗忌武』は結成三年目。リーダー『キラキラネームの愛羅武勇』以下、ほぼ全員が童貞である。
彼らは俗にいう腐ったミカン、あるいは社会のゴミクズ。「ナワバリ」と称して田舎の農道を占拠し、夜ごと法定速度を守って珍走している。家族に泣かれ、教師に疎まれ、同級生からは蔑まれる、崖っぷちの日々を過ごしていた。当然女にはまったくもってモテない。
そんな彼らの唯一のプライドが、この農道。
ここはしばらく行くと国道に通じている――はるか遠方に都を望む、田舎ヤンキーの希望の道なのである。それだけに、他のチームからは虎視眈々と狙われていた。今晩彼らが集まっているのも、命知らずが『愁・栗忌武』の許可なくここを走っているという報告が発端である。
「それより桃男よぉ、お前、今夜の敵をぶっ飛ばしたらどうする?」いささか重い空気を、『ニ・〇の義治』が破った。「億万長者になっちまうんじゃねえか?」
話を振られた『おなかペコペコの桃男』もわざとらしい陽気さで答えた。
「どんぐらい無茶きくんすかね。死ぬまでケーキだけ食って生きるとか可能ですかね?」
「俺すげーこと考えたぜー。お願いごと叶えてもらえるならよー、『あと百回お願いごと叶えてくれ』って頼むんだよー、そんでよー、百回目によー、『あと百回』って言えばよー」
つかの間の浮かれた空気。ゴミクズどもは互いにつつき合って夢の様な話を語り始めた。
そのとき、低くしかしはっきりと、差し込まれた言葉があった。
「俺は、――をいただきます」
『Mサイズの隆史』であった。まっすぐに農道の彼方を見つめていた。頑なな意志がその眉を険しくさせていた。
宣戦布告であった。
「隆史、てめえ……」
思わず声を高くした秀一を、「よせよ」の一言で愛羅武勇が抑える。
「リーダー、でも!」
「よせってばよ、秀一」
愛羅武勇はくしゃっと笑んだ。
この男はあまり笑わない。目が中途半端に閉じて、どうにも軽薄そうに見えてしまうのを気にしているのだ。しかし今夜、彼の半端な笑顔は、非情になりきれない心根の優しさをにじませているようだった。
「隆史。俺も、同じもんをいただくよ」
舗装道路の真ん中に仁王立ち、腕を組んで月を見上げる愛羅武勇。慣れないことをしている自覚はあるのだろう。居心地悪そうにスニーカーの足元で地面を踏み直した。
「秀一もだ。今晩勝った奴の勝ちだ。それでいいじゃねえか。お前ら全員、自分の欲しいもんくらいわかってんだろうが。それを欲しいと言わずにどうする。そんな玉無しは『愁・栗忌武』にはいねえだろ」
場は静まり返った。柿の葉がさやかに鳴っていた。国道方面から吹き付ける春風のせいだった。
「なあ。将来のこととかぁよくわかんねぇけどよ、俺らには欲しいもんがあるじゃねえか……」
「リーダー。午後八時十分。そろそろ時間です」
『物知り眼鏡の広夢』が控えめに報告した。
「やつが、ここを通る時間です」
話の腰を折られた愛羅武勇は、照れ隠しのように両手のひらで顔をこする。
「そういうこった! てめーら、これでやる気出たろ。手ぇ抜くんじゃねえぞ。ナワバリを侵すモンはシメる。たとえ、それが――」
ゴキリと首を鳴らし、勇気を振るうように言い切った。
「女でもだ」
そう、女――
今宵の敵は女。それもたったひとり。
それを、二十人以上の男たちで、よってたかってシメるつもりであった。彼らはナワバリと己の望みをかけて、修羅となる覚悟をしてきたのである。
一同、青い月明かりの中、山脈方面に戦闘的な視線を注ぐ。
そのまま数分が流れたとき、カーブの向こうからまばゆい光源が現れた。
「まっ、マブい!」
『おなかペコペコの桃男』がうずくまる。彼はサングラスを鼻先に引っ掛けるのが趣味であった。あの光源をまともに見てしまったらしい――
「桃男! おい! しっかりしろ!」
「リーダー! 何ですかあの光は!」
「おい、敵は徒歩じゃなかったのか! どう見てもあれはハイビームじゃねえか!」
「ち、違います……」広夢があえぐように言った。「坊主頭が光ってるんです!」
「何だとぉ――っ!?」
一同、サングラスごしに目を凝らす。そのとき、悲鳴にも似た男たちの叫びが重なった。誰も彼もが同じことに驚き叫んだ。
「まっ、マブい!」
なんてマブい女なんだ!
ブルージーンズと昔の歌手をプリントした白いTシャツ。一見無造作な着こなしに見えるが、引き締まった肢体を包むそれらは銀幕から抜け出してきたかのよう。
そしてスキンヘッド!
つるりと丸くつややかな、完璧な形のスキンヘッド。まるで時代劇に出てくる愛らしい小坊主のようではないか。その下の目鼻立ちは日本人離れした彫りの深さで、青い瞳には稚気をたたえた輝きがあった。この女、外国人――!
「何だあれは! 尼か!?」
「アマだ!」
「ちっ、違うっ、坊主じゃない! 噂通りだ、前髪がある!」
前髪があるのだ。
そう、大五郎カット。日本人の庇護欲を掻き立ててやまない大五郎カットである。憎いことには輪をかけて、その前髪はなんとまゆゆであった! 一説ではまゆゆ本来の魅力を数十倍にまで増幅させているというあの前髪――大五郎とまゆゆ、ダブルパンチの前には坊主頭の奇抜さなどまるでハンデにならない。むしろ前髪と坊主のギャップがいい! そのアヴァンギャルドな魅力に、並の男なら一撃で腰砕け、低頭して寵愛を乞うことだろう。
一瞬の戦慄、『愁・栗忌武』の間に走る!
だが、一瞬は一瞬で終わった。やや浮き足立ちはしたものの、彼らは大五郎にもまゆゆにも屈さずに、慌ただしく戦闘態勢に入った。『愁・栗忌武』鉄の掟はただひとつ、「女にうつつ抜かすべからず」。彼らが胸に刻んだ唯一の誓いである。
「間違いありません。あれが今夜の敵、『怪走の前髪女』」
告げる広夢の声は、わずかに震えていた。
それは誰がなんと言おうと、武者震いであった!
「またの名を――『チャンスの女神』です」
月夜の田園に男たちの怒号が響き渡る。
「きやがったな、妖怪マエガミ女!」
世界各地で目撃される夜の疾走者――ローマ神話に名を記された運命の女神。
その前髪をつかんだものは、人生における「きっかけ」をつかむという。吹き溜まりのツッパリどもに訪れた千載一遇の好機。彼らは今日今夜、ナワバリと己の人生を賭けた戦いに身を乗り出していたのだ。
「野郎ども! あの前髪をむしり取れ――!!」
『右のヤン坊』『左のマー坊』が真っ先に走り、『リーゼントの秀一』が後に続いた。不良どもがわらわらと駆け出し、獣のような鬨の声が上がる。
前髪女が苦笑した。
高く澄んだその声は、その場にいた全員の耳に届いた。
「Oh...こんな月夜の晩なのに。heroineは眠れないネー」
「余裕こいてられんのも」「今のうちだぁーっ!!」
ヤン坊マー坊が声を合わせ、まゆゆの前髪につかみかかる。言うまでもなく彼らは双子。目と目で通じ合うコンビネーション攻撃を活かし、ふたりでひとりの特攻隊長を務めているのだ。
『右のヤン坊』『左のマー坊』、襲いかかる手は二本と二本、
「二本つかんで一本避けても」「もう一本は残るのだー!」
「HaHa. 仕方のないボウヤたち……」
女はにゅるりと動いた。
ヤン坊マー坊には、突然その姿が視界から消失したように見えた。ふたりの背を追っていた『リーゼントの秀一』にはかろうじて、女がヤン坊の懐に潜り込むのが見えていた。
ヤン坊が前のめりに転がった。波間からクラゲが現れるごとく、ヤン坊の腹の下からまばゆい大五郎カットが浮上。無防備なマー坊の脇腹に両拳を叩き込んだ。マー坊は避ける間もなく雑木林に突っ込んでいった。
女はにゅるりと立ち上がると、唖然とその姿を眺める男たちに向かいモデル立ち。自分の左胸を親指で指し、くいっとあごを上げた。
「ヘーイ糞どもー、つかんでもいいけどさー、どうせならハートをつかみなヨー!」
まゆゆの前髪がさらりと揺れた。そのとき三メートルの近くにまで迫っていた秀一は、仲間たちにその顔が見えていないのをいいことに「はぁっ」と切ないため息を漏らした。
――でもリーダー! 翔さんがいなきゃ……
先ほど口に出しかけた想いが胸をよぎる。
翔は決して強くはない。チームの喧嘩でもそう大した戦力ではない。しかし敵が女とあっては話が違う。『愁・栗忌武』は翔抜きで、女相手にどこまでやれるものか?
――翔さんがここにいれば。
けれど今、可憐なまゆゆの前髪を見て、秀一は思い直す。
やはり今晩、彼はここにいなくてよかったのだ。
たとえそれが原因で、『愁・栗忌武』全員が荼毘に付すこととなっても。
眼尻裂けよとばかりに秀一は刮目。女の前髪に手を伸ばし、
「止まりやがれこの……」
突然、がくんと景色が変わった。
自分が見ているのは……道!? なぜ自分はアスファルトの道を見ているのだ!? 女はどこに消えた!
「Hey, 前髪切れヨー」
痛い!
リーゼントの毛根が痛い! その事実が秀一に状況を教える。
「テメエ、この野郎……!」
この女、リーゼントをつかんで下に引っ張っているのだ! まゆゆの前髪とは違い、秀一のリーゼントは引っ張ってくれと言わんばかりに張り出している。リーチの差は歴然であった。
「Take this! リーゼント一本背負い!」
『リーゼントの秀一』、轟沈。
「うろたえるなー! うろたえるなー!」
目の覚めるようなハイキックが『物知り眼鏡の広夢』を倒した。『早寝早起き征十郎』はクロスカウンターにやられた。最も頼りにされていた『ボクサー崩れの龍』は頭突きで沈められた。
二十五人の雁首そろえて、女の前髪に触れる、ただそれだけのことができない。
極めて一方的に、『愁・栗忌武』一同は倒されていった。気がつけば、もはや立っているのはあとひとり――『キラキラネームの愛羅武勇』のみ。
自分も他のメンバーと同じく、ごくあっけなく倒されてしまうのだろう――
愛羅武勇は思う。
既に仲間たちは倒れてしまった。誰も見てはいない。
今となっては、ずるいことだってできるのではないか。
女に頭を下げ、懇願したらどうだ。引っ張ったりしないから少しだけ前髪を触らせてほしいと頼んだらどうだ。もしかしたら乗ってくるかもしれない。
道ならいくら走ってもいい。ナワバリなんかくれてやる。本当はそんなもの、どうでもよかったんだ。
――自分の欲しいもんくらいわかってんだろうが。それを欲しいと言わずにどうする。
「おい、『チャンスの女神』!」
もしも願いが叶うなら――
愛羅武勇は目を剥き、口角泡を飛ばして怒鳴った。
「死ねやぁ――っ!!」
さらさらと前髪が揺れた。夢の中でそれを見ているような気が愛羅武勇にはした。蛇のように伸びてきた白い腕が、愛羅武勇の首筋に手刀を叩き込んだ。
愛羅武勇はどうと倒れた。
そのとき、遠く排気音を聞いた。
それは、田舎ヤンキーの好むビッグスクーターのものではなかった。
もっと軽くて間の抜けた、貧弱な音。聞き間違えようのない彼の音――
チャンスの女神が走ってゆくその先、およそ五十メートルの彼方から声が飛んできた。
「お前らよー……前髪つかんで女を止めるとか、いくらなんでもありえねーぞ!」
「翔ぉ……」
『ニ・〇の義治』がひょろひょろとか細い声を上げた。
「翔ぉー、お前ぇー、今日は合コンだって言ってただろうがよぉー……」
トラッド感あふれるブルーのジャケット、ジャニ系を意識したライトブラウンのクシャ髪。『愁・栗忌武』のサングラスはコーディネイトの外しとして効いていた。流れてきた春の風が、血で汚れた農道にさわやかな制汗剤の香りを届ける。
ウホッ、いい男!
『雰囲気イケメンの翔』!
『愁・栗忌武』唯一の彼女持ちであり、唯一の非童貞である。チームの鉄の掟「女にうつつ抜かすべからず」はあくまでも自主申告制であり、翔には適用されていない。もっとも、この誓いを立てていないのはチームでも彼ひとりのみだったが……街乗り用のオシャレなカブに乗り続けていた男。『愁・栗忌武』一同のビッグスクーターの尻を追いかけ、いつも最後尾を走っていた男。中肉中背の細マッチョが、今晩この時、少し大きく見えるのは気のせいか。
「お前ら、女ってのはこう落とすんだ。まあ見てろ」
突進してくる女神の前に、翔は大きく両手を広げる。
「がっつく奴は嫌われるぜ。ただ待っていればいい。そうすりゃ女は向こうからやってくるのさ……さあ子猫ちゃん、僕の胸に飛び込んでおいで!」
「しょ……翔ーっ! 初対面でそれはハードルが高いのではー!?」
「いや、あいつのイケメン力ならあるいは……!」
まっすぐに突進してくる女神。その前髪を見て、ほう、と翔は息を漏らした。
完璧な前髪だ。つんつるりんの坊主頭とのミスマッチもいい。
しかし、女のことでは百戦錬磨。「女は中身」が信条の翔には通じない。
「モテとはつかむもんじゃねえ! どんな女も抱き止める、包容力なんだよ!」
「フッ、こんな田舎にも、少しはわかってる男がいるじゃない……」
向かい風にあおられる前髪の下、女神の瞳が不敵に輝いた。
「しかしッ! オマエッ! 女の道に立ちふさがる覚悟はあるのかッ!?」
「何っ!?」
女は深く身を沈める。太腿の筋肉がジーンズの下で美しく盛り上がる。その姿はまさにまさしく、跳躍せんとする女豹!
「邪魔をするならブチ破るッ! 女神タックルァァァッ!」
さながら虚空を穿つミサイル。地を蹴る脚の爆発力たるや、噴射する爆炎のごとし!
突撃槍と化した女は、翔の腹をいともたやすくぶち抜いた。
翔が――中肉中背の細マッチョが後方に弾け飛ぶ。数メートルを舞い、やがてアスファルトの上を転がり、道脇の水田に突っ込んだ。
女神はゆるゆると速度を落とす。
水田に腰まではまっている翔を一瞥し、
「The Way...Highway Of My Life. ワタシ教える。女の生き様とてもSimple、Top Speedで駆け抜けるだけ。壁打ち砕く、邪魔者倒す。口開けて待ってるような男、ワタシを受け止めるなんて無理」
女が翔を見ていたのは、ほんの一瞬だった。すぐに前に向き直る。
「ウーララ、ウーララ、ウラウラでー、ウーララ、ウーララ、ウラウラよー」
そして鼻歌交じりに、月夜のギャロップを再開したのである。
仲間たちは急ぎ翔のもとに駆けつけた。
「しょ……翔ーっ! 大丈夫かお前!」
助け起こされた翔は泥まみれで這々の体、しかしかすれた声でつぶやく。
「すっ……」
「す?」
「素敵だ……」
「は?」
「おい、呼べ! キューキュー車呼べっ! 翔! 頭打ってんじゃねえのかこいつ!」
「バッカこの野郎、俺は正気だよ! 離せ! あの女は……」
「おいおいマジでよぉ、ヤバいんじゃねえのかこいつ、女と書いてヒトと読んでるよぉ」
翔は腹をかばって立ち上がり、女神の消えていった国道方面の闇に目を凝らす。
と、その前に歩を進めた者があった。
「翔、やめとけよあの女は」
『Mサイズの隆史』であった。
彼は翔の視線を遮るように立ち、何か怒ったように、恐れるように、大きな声で言った。
「前髪しかないんだぞ」
『ニ・〇の義治』も苦々しくつぶやいた。
「後から追いかけたって無駄なんだよ……そりゃ確かにまあ、いい女だけどよ……」
「どいてくれ」
翔は水田から這い出す。全身から泥しずくを垂らしながら、
「彼女は――国道の方に行った。あれが――俺の、運命――」
やはり、だ。
全員の目が暗くなった。
翔は、翔だけは、ここにきてはいけなかったのだ。
「翔っ! バカなこと考えんじゃねえぞ!」
「無駄だって言ってんのが聞こえねえのかっ!」
仲間たちが口々に叫び始める中、翔はよろよろと歩み出す。
「みっともねえんだよおい!」
「合コンはどうしたコラぁっ!」
そのとき、雷が落ちた。
「お前ら恥ずかしくねえのかっ!!」
愛羅武勇の怒声であった。
男たちはびくりと沈黙した。
翔が立ち止まり、夢見るような目を愛羅武勇に投げた。
春風はいつの間にやら止んでいた。月下の農道はただただ静かだった。
「お前ら、俺はさっき言ったぞ。あの女を止めたやつが勝ちだって。恨みっこなしだって、確かに言ったぞ。……もう、全員負けたんだ。俺たちは――チャンスを逃したんだ。こいつを引き止める資格があるか、え?」
翔が言った。
「ユーさん……すんません、行かせてください」
「お前だって同じだろうがぁっ!!」
愛羅武勇は翔の胸ぐらをつかみ、
「プライドはねえのか負け犬野郎。逃げたチャンスを追うんじゃねえ。俺だってあいつを取り逃がしたが、『愁・栗忌武』のリーダーとして言わなきゃならねえな! 無駄と知ってあがくんじゃねえ! 男らしく諦めろ!」
翔が怒鳴り返した。
「先公みてえなこと言うんじゃねえよ!」
今度は愛羅武勇が、石でも呑んだように動かなくなった。
「無駄? 無駄だって……?」翔は言い募る。「あれが俺の運命だ! これは俺の人生だ! それが無駄だというのなら、俺は一生だって無駄を続けてやる。無駄のために生きるなら、どんなチンケな無駄だって、俺の立派な目的だ! 誰にも無駄とは言わせねえ!」
愛羅武勇の指を力ずくで引き剥がす。立ち尽くす男たちの間をすり抜け、翔は今、歩き出した。
すぐに早足になり、それは駆け足になった。
もはや誰にも、止めることはできなかった。
遥かな先、月明かりの下を走る女神は、ちらりと後を振り返る。
「フフ、バカが追いかけてくる。逃したFishにすがりつく、ミットモナイ」
チャンスはたった一度きり。追いすがる者に運命は無情。
運命の女神には前髪しかない――
しかし彼女の口元に、確かにつかの間、引き裂けるような笑みが浮かんだ。
「ケド……ここであきらめるようなやつには、次のChanceもつかめやしない」
月夜の農道をひた走る。翔の背中がみるみる遠くなっていく。
「翔ー、お前なー、いつもあの小さいカブで、俺らのケツを追っかけてたよなー」
『早寝早起き征十郎』が両手をメガホンにして叫んだ。『ボクサー崩れの龍』が男泣きに泣き出した。
「俺らだってなー、お前のケツを追っかけてたんだぜー」
もう翔は振り返らない。男たちは口々に叫び始めた。
「翔ー、俺らが女を苦手だって思ってただろー? 本当はなー、本当はなー、違うんだぜー」
彼女を作れなかったのではない。
確かにモテなかった。けれど彼ら『愁・栗忌武』。己に課した鉄の掟は、妬み嫉みでは断じてない。
女にうつつ抜かすべからず。
――己の愛を裏切るな。たとえ報われなかったとしても。
たった一言を、ついに告げられなかった。チャンスならいくらでもあった。
逃してから後悔しても遅いことなど、知っていたはずなのに。
月光の道を疾走する翔の背中。それが一度も振り向かないことが、男たちには少し嬉しくて少し悲しい。
『愁・栗忌武』……隠された真の名を『翔クンのファンクラブ』。
この日を最後に、彼らの伝説は途絶える。
何人かが就職し、何人かはまた留年した。何人かは走り続けた。法定速度を守らず危険な暴走を繰り返し、ガードレールに突っ込んだ者もいた。
けれど、あの日あの晩、国道の彼方に消えた男を追ったものは、ひとりたりとてなかった。
それもまた、『愁・栗忌武』の矜持だったから。