第三夜 恋に必要なもの
お妃は誰の言葉も信じなかったが、唯一、鏡の言葉だけは信用していた。その鏡は魔法の鏡。曇った鏡は普段は何も映さない。しかしお妃の問いかけに応えて真実を映し出す――。
「この世で一番美しいのは誰?」
「それは貴女、お妃さまが一番美しい」
鏡に笑いかけるお妃は、それは綺麗な人だった。
一方で白雪姫は美しく成長していた。
「この世で一番美しいのは誰?」
「それは、白雪姫です」
鏡に映し出された白雪の姿にお妃は目を吊り上げた。そして怒った勢いで狩人に命令を下した。鏡はそれを大人しく見守るだけだ。
「何か言ってあげればいいのに」
「私に語る資格はありません」
ただ真実を映すこと――それが鏡に与えられた使命。
「尋ねられたことに答える、それだけです」
「白雪が一番だなんて認めてないんだろ?」
「……私はお妃さま以外の質問に答える気はありませんから」
「おやおや」
相好を崩す木箱に鏡は煩わしそうに目を閉じた。
そして、狩人の働きに満足したお妃は鏡に尋ねた。
「この世で一番美しいのは誰?」
まるで恋人にするように甘えた声。しかし流れるように返された鏡の言葉にお妃は自分の耳を疑った。
「あの娘がまだ生きているっていうのね」
嫉妬が渦巻く彼女の頭の中は白雪姫で一杯だ。
「恋してるみたい」
それをみて木箱が嗤った。鏡は表情を変えない。
「君も素直になったらどう」
「私はいつだって正直ですよ」
木箱は小さくため息をついた。
「真実を映しても、肝心なことは言わないんだから」
お妃は白雪姫の殺害する計画を立てるのに夢中だ。木箱はそっとその横に移動してお妃に進言し始めた。鏡はその並んだ背中を見つめた。彼は自らの力で動き回ることはできない。
すでに寝所は深い夜に覆われていた。するりと暗闇から手が伸びてお妃の手に触れた――鏡に映る美しい虚像に、細く美しい指に絡む男の手。鏡の中の戯れを彼女が知ることはない。
「なんてこと、あの娘はこの手で殺したはずなのに!」
計画が失敗するたびに、お妃の憎しみは白雪姫へと向けられた。鏡が白雪姫の名前を告げるたびに彼女の自信は傷つけられた。
「見てご覧よ。あの嫉妬に狂った醜い顔」
木箱が呆れた声を出す。鏡は妃のその姿を見つめた。その目には届かぬ熱が籠っていた。
「こっちにも一人……ってとこかな」
木箱は大げさな身振りで息を吐き出した。
ようやく三度目にして、白雪姫は毒の林檎に倒れた。
「ふふ……やっぱり、私が一番……」
うっとりと鏡を眺めるその姿はぞっとするほど美しかった。ようやく取り戻したプライドからか、お妃は朝夕といわず日がなそうして鏡の前にいるのだった。
木箱はそっと近付いて鏡に囁いた。
「うれしそうだね。お妃さまはまたずっと君を見ている」
「あの方が世界で一番、いや、愛しているのはご自身だけです。その瞳に映るのも……」
鏡は目を伏せた。だが彼はそれで充分なようだった。
あるとき、結婚式の招待状が届いた。鏡とお妃の間に割って入る第三者。
「おやおや、結婚式の招待状だって。誰からだろうね」
「私には関係ありませんから」
「嘘つき……」
「……私の言葉が彼女に届くことはない、そうでしょう」
木箱は思いつめた鏡のその表情をただ視界の端に捉えただけで何も言わなかった。
その晩もお妃はいつものように質問を繰り返す。
「鏡よ、鏡。この世で一番美しいのは誰?」
「それは貴方です、お妃さま」
しかしいつもと違うのは鏡の表情。淡々とした声ではなく、愛しさを隠さないその微笑み。知ってか知らずかお妃の表情も柔らかい。
「今も昔も、これからも、貴方が世界で一番美しい。貴方より他に美しい女性は存在しません」
「当たり前じゃない……」
そのとき、鏡の隅に小さな罅が入った。鏡に映る自身の姿しか目に入っていないお妃は気づかない。鏡がしゃべるたびにそれは大きくなりついに鏡は割れて飛び散った。そして、彼の想いは彼女の心を貫いた。
木箱の足元で重なり合った硝子が音をたてた。眼下には投げだされた美しい肢体。
「あーあ、これで満足なのね。……おやすみなさい」
――よい夢を。
細かな破片が窓から差し込む光に煌めいた。




