平安時代は雅な時代で、それを飾っていたのは高貴な姫君であるが、その姫君の内面は果たしてどのようなものだったのか。
人面は知らず何れの処にか去る
――藤原道長最愛の娘嬉子
一、道長の末娘として
嬉子は千春の光をその身に受けて、寛弘四年(一〇〇七)睦月のころ、この世のものとも思えぬほどの麗しい姫君としてお生まれになった。
父は、この世の権勢をひとり極めし太政大臣藤原道長、母はその嫡妻である源倫子。
御姉君たちは、一条院の中宮彰子、やがて三条天皇の皇后となられる妍子、後一条天皇の中宮となる威子と、当代きっての后がまた后。
されば、この御六女もまた、それらに劣らぬ栄華を約された姫君にて、この世のどこを探すもありはしませぬ。
何より道長の末娘として、この上なく愛され、慈しまれ、その御育ては、まさしく玉の御輿に乗せられたる心地にてあった。
されど、その寵愛の深さは、ただ親心のほとばしりにてはあらぬ。ひとえに、この姫君の御未来は、すでにこの世ならぬ御はからひによりてしっかりと定められ、いわば光り輝く敷かれたる御道の上を、ただおとなしくお歩みになるほかはなき運命であったのである。
かくて、寛仁二年(一〇一八)、姫君ようよう十二歳になり給うやいなや、尚侍の御職にお任じあそばされた。『源氏物語』に心寄せたる人は、ここにすぐさま朧月夜の君を思い浮かべることであろう。
尚侍とは、宮中の内侍所の長官にて、一条天皇の御世にはすでに后妃にもひとしう遇せられる、格式高き御役目。明くる三年の秋、姫君は裳着の儀をお執りになり、従三位に叙せられた。
紫式部が、その父藤原為時の最高位を正五位下と伝えるを聞けば、いかに破格のお扱いであったか、思わず息をのむばかりである。
さらにまた二年を経た寛仁五年(一〇二一)、数え十五歳の春のこと。姫君は、御姉君彰子の御子にて皇太弟たる敦良親王のもとへ、お入りあそばされた。
その折には、父道長はすでに出家の身となり、兄頼通にはいまだ実子なく、ゆえに頼通の養女としての入内であった。今の世の人間にはなかなか思い及ばぬところであろうが、これもまた平安の世のならい。『源氏物語』にも、かの頭の中将たりし内大臣の御娘、弘徽殿の女御が、祖父たる致仕の大臣の養女として御簾をくぐられたと、物語に語られている。
さて、もっとも肝心なのは、この敦良親王にほかならぬ。一条天皇には三人の皇子がいて、第一皇子は敦康親王、生母は中宮定子。第二皇子は敦成親王、第三皇子がこの敦良親王で、後の後一条・後朱雀の二帝は、いずれも中宮彰子の御子である。
定子の父道隆と、彰子の父道長とは兄弟にてあったが、道隆が長徳二年(九九六)に急逝してのちは、権勢はおおかた道長のもとへ移った。
一条天皇が譲位した寛弘八年(一〇一一)のころには、すでに中宮定子が亡くなって十年あまりを経ており、三条天皇が即位し、敦成親王が皇太子に立てられた。やがて敦成親王が帝位にのぼって後一条天皇となると、第三皇子敦良親王が皇太弟に立てられたのである。
このとき中宮彰子は、一条院の御心中をおしはかり、敦良親王よりもむしろ敦康親王の立太子を望み、その旨を父道長にほのめかしていたとも伝えられるが、ついにかなわず終わった。
嬉子は、まさにそのような事情を負う東宮のもとへ入内なさったのである。敦良親王は寛弘六年(一〇〇九)の生まれとされ、嬉子はその姨母にあたるばかりか、およそ三つ年長の姫君であった。
姨母と甥子の結婚は、すでに神代の物語に見えるかたちである。天孫たる邇邇芸命が木花佐久夜毘売との間にもうけた火遠理命、いわゆる山幸彦は、海神の娘豊玉毘売を妻といたす。出産の折、元の御姿が垣間見られたことを恥じて、豊玉毘売はわが子を残して海へ帰るが、妹の玉依毘売を、幼児の養育に遣わした。
その子が成長すると、姨母にあたる玉依毘売を正妻として迎え、その御子のうち末の若御毛沼命こそ、後に初代の人皇とされる神武天皇である。
このように神話の世界にさかのぼらずとも、嬉子の同母姉である威子もまた、甥子にあたる後一条天皇に入内して中宮となられた。
神代の物語においては、神聖なる血統の結びつきこそが重んじられたのであろうが、摂関政治の時代においては、こうした姨母と甥子の婚姻も、あくまで摂関家の権勢と地位を保つためのはかりごとと見るのがふさわしいように思われる。
そしてまた、このことは摂関家にとって、娘の誕生がいかに重大な意味を持っていたかをも物語るものであろう。『蜻蛉日記』の作者たる右大将道綱母は、ただひとり道綱のみを子として、ついに娘を授からなかったことを、生涯の憂いとして日記のそこかしこに洩らしている。
二、入内決定の知らせ
嬉子の入内が決まったとき、姉威子の御在所飛香舎は、春の嵐のようなざわめきに包まれた。兄たちは声をひそめて祝言を語り合い、すぐさま人を走らせて、法成寺にこもる父道長に消息を送る。
生まれた当初から、いずれはしかるべき御方に参るべき身と定められていたとはいえ、いざ入内が現実となり、母の口からその知らせを聞いた嬉子は、やはり身のうちがきしむような衝撃に襲われた。
四年前に後一条天皇に入内した姉威子には、いまだ皇子が誕生しておらず、両親、そして威子自身の焦りが、ふとした言葉の端々にさえにじんでいる。
喜びとも悲しみともつかぬ涙をぬぐいながら、何度も何度も「おめでとう」と繰り返す母を目の前にして、嬉子は唇を固く噛んでいた。
「おめでとう」などと──。その言葉は、自分に向けられたものではあるまい。出家した父道長に向けて、あるいは藤原一門の前途に向けて放たれた祝いの声に違いない。
嬉子は紫の袿の袖を固く握りしめ、ついに思い切って口を開いた。
「母上、わたくし……宮中へ上がりとうはございません」
倫子は驚いたように目を瞬かせ、しばらく黙って娘を見つめた。その瞳の奥を、かすかな不安の影がよぎる。
「何を言うのです。あなたは、これから国母になるのですよ」
「国母など、なりとうはございませぬ。彰子姉上や威子姉上のようには、なりたくはございませぬ」
声は震え、喉の奥から、言葉にならぬものがこみ上げてくる。
倫子はしばしものも言えず、娘の細い肩を抱き寄せた。少しの沈黙ののち、唇からこぼれたのは、嬉子にとってもっとも聞きたくない言葉であった。
「喜んで入内などする女子は、いるはずもありません。誰も彼も、一族の繁栄を背負って宮中に参るのです。まして、あなたは天下の道長の娘。藤原の娘は、笑みを保って几帳をくぐるほかないのですよ」
倫子の声には淀みがなかった。嬉子の胸は、きしむように痛んだ。
その夜、几帳の内にひとり横たわると、闇はいよいよ濃く思われた。姉たちが次々と宮中へ上がり、帝の子をもうけていくたび、女房たちは「男御子さえお生まれになれば、藤原の世は盤石」と、声を潜めて言い合った。
物の怪に悩まされ、命を落とした后の話も、まことしやかに語られていた。出産のたび、藤原家に怨みを抱いて死んだ人々の魂が、妬みとともに若い腹を狙うのだと。
嬉子は閉じた瞼の裏に、その情景をありありと描いた。
もし自分が男皇子を産めなかったなら。もしお産のさなか、物の怪に取り憑かれ、狂気の笑いをあげるようなことにでもなったなら──そのとき父は、母は、兄たちは、どのような目で自分を見つめるのだろう。
藤原家の栄華のために育てられたこの身が、その栄華を傷つける存在と成り果てることが、何よりも恐ろしかった。
入内の日取りが近づくにつれて、嬉子の不安は募るばかりであった。初秋のある夕暮れ、ついに口をついて出たのは、ひとつの願いであった。
「母上、父上に、お別れを申し上げとうございます」
「もっともなこと。法成寺へお伴いたしましょう。明日は吉日なれば、用意させておきましょう」
「いえ、一人で参ります。ただいま──」
嬉子は、ついに決意した。父に、直接言おうと。
雀が鷹を恐るように衆人の畏れ敬う元摂関の前で、娘としての本心を晒すことが、どれほど無謀であるかは分かっている。それでも言わねば、この恐れは誰の目にも触れぬまま、やがて自分を内側から食い破ってしまうだろう。
夕べの念仏が終わり、人払いがなされたのち、道長のいる局へと通された。墨染姿の父は、脇息に経巻を広げ、嬉子の到来を待っていた。
「嬉子か。この道長の姫君として、これから栄華を極めるのだ。よいな」
嬉子は膝を進め、畳に額がつくほど深く頭を下げた。
「父上。どうか、わたくしの入内を、お取りやめくださいませ」
一瞬、室内の空気が止まった。蝋燭の炎が小さく揺れ、その影が道長の顔に、奇妙な翳りを落としたかに見えたが、その口から洩れたのはただ一喝であった。
「なでふ不孝な。父に恥をかかせるでない。その言、二度と口にするな」
声はかすれていたが、道長の眼差しは鋭く厳しかった。
嬉子は眩暈を覚えた。胸のうちで燃え上がる炎を、必死に押し殺す。
予想していた返事ではあったが、父親としてのいたわりのかけらもないその言葉を耳にし、心の底から悲しかった。これ以上何を言っても無益であることも、よく分かった。この道長という父に、娘の苦痛など分かってもらえるはずもない。
嬉子は、心の最後の拠りどころを、静かに断ち切った。抗うすべは、どこにもない。
頭を下げたまま、畳にぽつりぽつりと落ちる涙の跡だけが、娘としての小さな抵抗の証であった。
これからは、これまで大切に育ててもらった報いをするのみだと、心に決める。
しかし──いったい、なぜ。なぜ、このわたしを、ここまで大切に育ててくださったのだろうか。
三、入内の前夜の母娘
女房たちが次々に退出し、几帳の内が静まり返ったころ、倫子はひとり嬉子のもとを訪れた。薄紫の几帳越しに揺れる灯りが、母の面差しをやわらかく照らす。幼いころから見慣れたその顔も、今宵ばかりはどこか遠くの人のように思えた。
「よくは眠れておりますか」と倫子が問いかけると、嬉子は小さく首を振った。
「目を閉じますと、宮中の長い廊や、知らぬお顔の人々が幾重にも押し寄せてまいります。帝のお側に仕える喜びよりも、その背に負わされるものの重さばかりが、胸をふさぐのです」
倫子は娘の傍らに腰を下ろし、その手を取り、指先をなぞるようにさすった。幼いころ、高熱にうなされた夜と同じ仕草である。
「母上は、怖くはなかったのですか。父上のもとへ嫁がれるとき。藤原家の負の因縁を、その身に引き受けることが」
一瞬、倫子の指がぴたりと止まった。やがて、かすかな笑みが浮かぶ。
「怖くなかったと言えば、嘘になります。恨み、妬み、女の嘆き。そうしたものを飲み込んで成り立つ家に嫁ぐのですもの。それでも、わたくしは道長さまのそばに立つことを選びました」
「選ぶことができたのは、母上が強かったからにございます。わたくしには、その強さが見つかりませぬ」
嬉子の声は震え、几帳の影がその表情をゆらゆらと歪める。
「物の怪に取り憑かれた后の話を、女房たちから聞きました。男皇子を産めなかったことで、陰で嘲られた女たちのことも。わたくしがその列に連なったとき、藤原の負の資が、さらに積み重なってしまうのではと恐ろしいのです」
倫子は娘を抱き寄せ、肩に額を寄せた。
「嬉子。あなたは、よく見ておりますね。この家の光も、影も。それでも、女が生まれた家を選べぬように、生きる道もすべてを選べるわけではありません。わたくしたちは、与えられた道の上で、ほんの少しだけ、自分の足の運び方を決められるだけ」
「足の運び方……」
「ええ。笑うか泣くか。うつむくか、顔を上げるか。誰にも見えぬところで、どれほど震えていてもよい。そのうえで、人の目に触れるときだけは、藤原の娘としての形を整える。それが、わたくしたちに許されたささやかな意地なのです」
嬉子は唇を噛み、母の衣の香を深く吸い込んだ。
「母上。わたくしは、帝のお子を授かれますでしょうか。もし皇女ばかりであったなら……もし、お産のさなかに物の怪に取り憑かれたなら……」
問いは尽きることなく湧き上がる。倫子はその一つ一つに答える代わりに、そっと娘の髪を撫でた。
「未来のことは、誰にも分かりません。道長さまほどの人でさえ、自らの病の行く末までは読めなかったのですから。だからこそ、今のあなたにできることだけを思いなさい。帝に不安を悟らせぬよう、穏やかな笑みを覚えること。女房たちに侮られぬよう、言葉を選ぶこと。そして、どれほど孤独でも、自分を見失わぬこと」
「自分を見失わぬこと……」
「そうです。あなたは藤原嬉子である前に、ひとりの娘であり、ひとりの女です。道長さまの娘という名がはがれたあとにも、胸の奥に残るものを、大事にしなさい。それだけは、物の怪にも、政治の嵐にも奪われません」
嬉子の目から、静かに涙がこぼれ落ちた。
「母上。もう一度だけ申し上げてもよろしゅうございますか。わたくしは、宮中へ上がりとうはございません」
倫子の腕が、わずかに強く嬉子を抱き締めた。
「それでも、行かねばならないのです。あなたがこの家に生まれたという、それだけの理由で」
その言葉は残酷でありながら、どこか諦念を含んだ祈りのようでもあった。母娘はしばし言葉を失い、ただ互いの温もりにすがった。
やがて更衣の刻を告げる太鼓の音が遠くから響き、倫子は立ち上がる。
「嬉子。明日、几帳をくぐるとき、振り返ってはなりませんよ。振り返れば、二度と前に進めなくなりますから」
「……はい」
母の背が几帳の向こうに溶けていくまで、嬉子はじっとその影を見送った。胸の奥で、何かが静かに閉じる音がした。
四、牛車のなかの独白
翌朝、まだ薄闇の残るころ、梅の香りが立ち込める中、嬉子を乗せた牛車が静かに邸を後にした。
大門の外には、左右にずらりと従者たちが並び、先立つ松明の火が、まだ冷たい春の空気のなかでほのかに揺れている。牛の額の鈴がかすかに鳴り、轅のきしむ音とともに、入内の行列は静々と京路へと繰り出した。
道のほとりには人々が遠巻きに控え、袖で口元を覆いながら、その車の行方を見送っている。
几帳の内は、淡い香の煙に満たされていた。女房たちは左右に控えていたが、嬉子の顔を真正面から見る者はいない。皆、それぞれに視線を伏せ、吉兆の夢や瑞鳥の噂など、入内のめでたきしるしばかりを、声をひそめて語り合っている。
嬉子は、車のきしむ音に耳を澄ませた。揺れに合わせて、幾重にも重ねた衣の重みが、身体にのしかかる。この重さのぶんだけ、藤原家の期待と怨念が折り重なっているようにさえ思えた。
――わたくしは、どこへ運ばれてゆくのだろう。
宮中という場所は、幼いころから耳にたこができるほど聞かされてきた。後一条天皇の御所、中宮の御方。父がこの世のすべてを手の内に収めたと信じた場所であり、多くの女たちが笑い、泣き、そして消えていった場所でもある。
――もし、男皇子を産めなかったなら。
牛車の闇の中で、その思いがふいに形を持ちはじめる。父の笑みが翳り、兄たちが視線をそらす光景が、ありありと胸に浮かんだ。やがて陰口が生まれ、「道長もここまで」と囁かれ、藤原家の栄華から、ゆっくりと自分の名が切り離されていく。
――もし、お産のさなかに物の怪に取り憑かれたなら。
かつて聞いた物語がよみがえる。出産の苦しみのうちに、知らぬ声で笑い、誰かを呪いながら命を落とした后の話。魂を抜き取られたように昏々と眠り続け、目覚めたときには、腕に抱くはずの子も、この世にいなくなっていた女の話。
その列に、自分の名が並ぶことを想像すると、恐怖よりも先に、不思議な静けさが胸に広がった。
――それでも、わたくしは行くのだ。
嬉子は、母の言葉を思い出す。足の運び方だけは、自分で決められるのだと。牛車の揺れに合わせて、ゆっくりと息を整えた。
「藤原嬉子としてではなく、ひとりの女として、最後まで自分を見失わぬように」
誰にも聞こえぬほどの声でつぶやく。その瞬間だけ、嬉子は藤原家の娘という名から、ほんのわずかに解き放たれたような気がした。
外から、「御所が近づきました」との声がした。牛車の速度がゆるみ、やがて止まる。
女房のひとりが几帳をそっと持ち上げると、朝の光が鋭く差し込み、嬉子は思わず目を細めた。高くそびえる築地の壁、幾重にも連なる廊の端には、すでに多くの人々が控え、こちらをうかがっている。
振り返ってはならない。昨夜の母の言葉が、胸の奥で響く。
嬉子は一度だけ深く息を吸い、震えそうになる足を叱るように、静かに牛車を降りた。
女房たちが左右から裳裾をささえ、導くままに、幾重にも連なる廊と、見知らぬ人々の視線のあいだを、背筋を伸ばして歩き出す。
――もし、物の怪が来るのなら。
心の内で、誰にも聞こえぬ誓いをたてる。
――その怨みも妬みも、すべてこの身で引き受けましょう。それが、拒むことを許されなかった女の、せめてもの矜持であるならば。
その思いだけを支えに、嬉子は几帳の向こう、東宮の待つ世界へと、ひと足ずつ踏み入っていった。
五、懐妊と土御門殿への移住
東宮は、年若いながらも情の深いお方であった。年下の身でありながら、折にふれては嬉子の疲れた顔色を見とどけ、几帳の陰から「今日はよく休みなさい」と声をかけてくれる。
道長の権勢に配慮して、ほかに入内する姫君もなく、嬉子は東宮の寵愛をひとり占めにするような日々を送った。
宵のとばりが降りるころ、御簾ごしに聞こえてくるのは、経を誦する声よりも、東宮と嬉子が交わすささやかな物語である。
「一条院の御物語はかくのごとくであった」
「中宮定子とこのような風雅な遊びをしておられた」
一条院の御代の思い出、とくに『枕草子』に残る定子との間のエピソード、庭にさす月の光にまつわる古歌。そうした取りとめのない言葉を重ねるうち、ふたりのあいだには、帝と妃というよりも、まだどこかあどけない若夫婦の、ささやかな親しさが育っていった。
万寿二年(一〇二五)、そのような静かな日々のうちに、嬉子の御懐妊が明らかになった。十八歳という若さで、同母姉に当たる後一条天皇皇后威子よりも早く身ごもったのである。
一条院の御所の一隅、静かな別棟に移された嬉子は、我が子の誕生を心待ちにしていた。春の光はやわらかに差しながらも、その日から御簾の内には、どこか張りつめた色がさしてゆく。
若き東宮の最初の御子を身ごもったと聞き、内々には喜びとともに、万一のことあらばと、誰もが胸の内で祈らぬものはなかった。
一条院での生活はわずかひと月あまりで、道長が倫子と相談の末、姫君を自邸たる土御門殿へと迎え取ることを決したのである。
かつて中宮彰子が東宮をお産みになった、由緒ふかき産所。その吉例にあやからせようとて、父母はこの末娘の身の上を思い計らい、ついに一条院の御所を辞して、土御門の広壮なる屋敷へと、静かに牛車を進めさせた。
土御門殿に移ってからも、東宮は折を見ては行啓し、若夫婦が几帳越しに言葉を交わすささやかな時が持たれた。
春にはともに嬉子最愛の単梅を愛で、夏になると庭先の若葉に風が渡る音を聞きながら、東宮が「母宮も、この土御門でわたくしをお産みになった」と、どこかはにかみながら語れば、嬉子はおずおずと御腹に手を当て、「この子も、同じ風を覚えてくれましょうか」と応じる。
そのひとときだけは、摂関家の思惑も、物の怪の噂も遠く、ただ若き父と母になろうとする二人の、ささやかな微笑ましさがあった。
六、赤斑瘡と臨月の試練
臨月を迎えた嬉子の御身に、予期せぬ災いが襲いかかった。当世、都を騒がせていた赤斑瘡──人々がその名を口にすることすら恐れる病である。
「妃の御身に、赤き発疹が……」
女房の声は震え、御殿は瞬く間に緊張に包まれた。妊婦がこの病にかかれば、母体はもとより、胎内の御子にも危うさが及ぶことは、誰の胸にもありありと浮かんでいた。
篝火が焚かれ、御簾の内外では終夜の祈りが捧げられた。陰陽寮の博士たちが天文を観じ、ありとある社寺へは急使が走る。賽銭が山のように積まれ、読経の声が絶えることはなかった。
嬉子は燃えるような熱に苛まれながらも、両手を胸の上で組み、目を閉じて耐えておられた。唇はからからに乾き、顔色は青白く、それでも、その口元にはかすかな微笑みさえ浮かんでいたと申す。御腹の子を思う強い母の心だけで、すべての苦しみを支えておられたのである。
そして翌朝。
「熱が……引いた。妃の熱が引かれましたぞ」
奇跡のように、高熱は凪いだ。祈祷の甲斐があったのか、あるいは嬉子自身の強い意志が病を退けたのか。誰も定かには語り得ない。
しかし、喜びもつかの間、その一週間と経たぬうちに、今度は陣痛が嬉子を襲った。
あまりに早すぎる陣痛。病がいまだ癒えきらぬまま、体力が底を尽きかけている身での初産である。医師たちは顔を曇らせ、女房たちはただただ手を合わせるばかりであった。
「まだ……まだでおはします。御体力が、もちませぬ」
誰かが小声で言った。誰もが同じことを思っていたが、その言葉を大きな声で口にする者はいなかった。
産屋の帳は固く閉ざされ、中からは嬉子の必死の呼吸ばかりが聞こえてくる。時折漏れるかすかな声──それが痛みの叫びなのか、御子への呼びかけなのか、外にいる者には分からなかった。
「どうか、どうかこの子に、命を……」
嬉子はそう唱え続けていたと、後年、近侍していた老女が語っている。
病に蝕まれた身体は、容易には開かなかった。陣痛は長く、長く続いた。時間がねっとりと重く流れるなか、御殿にいた誰もが、生と死の狭間で揺れる二つの命を、ただ見守るほかはなかったのである。
七、迫る産の刻と物の怪の出現
その夜半より、御局のうちには不吉な風がさわさわと吹き込み、灯の炎はしきりに揺れ騒いだ。女房たちが顔を見合わせるまもなく、嬉子は急に御腹を押さえ、苦しげにうめき声を漏らされる。
「ただ今より、御産のさわぎにて候──」
産婆が叫ぶやいなや、数多の灯を取り寄せ、加持の僧どもが呼び集められた。
しかし、いくら経を読み、数珠を繰っても、姫君の苦しみはいよいよ募るばかり。汗に濡れた御顔は青ざめ、時おりうつろな目で宙を見つめては、身をよじられる。
「これは、ただ事にはあらじ。物の怪のしわざにてこそあらめ」
さる陰陽師が低い声でつぶやくと、居並ぶ者どもの背筋に、冷たいものが走った。
その言葉どおり、見えぬ何者かが姫君の胸のあたりに取りすがるように、息を詰まらせ、たびたび気も遠くならせ給う。御腹の子も動きあわただしく、腹の内にてあえぐ気配が感じられるのである。
夜明け近くになり、丑三つと奏す声が聞こえると、産屋よりひときわ烈しい呻き声が響きわたり、女房たちの悲鳴まじりの騒ぎが、奥の間にまで伝わった。
それを聞くより早く、道長は几帳をはねのけるように立ちあがり、足もとも覚束なげに産屋の方へ駆け寄ろうとする。
「嬉子は、いかがじゃ、嬉子は──」
さすがに周囲の者どもが押しとどめ、「入道殿は、いかでか御産屋へ」と制するが、その袖を振りほどき、ほとんど泣き声まじりに叫ぶさま、ふだんの威厳ある御姿は影もない。
北の方倫子もまた、几帳のかげにしがみつくようにして座り込み、
「わが子を、どうかお助けあれ、阿弥陀仏、観音さま」
と、声をあげて泣き伏している。
静かに諭そうとする女房の手をも払いのけ、ただ取り乱れては、
「まだ幼きに、かく苦しめ給うとは、あまりにも……」
と言葉にならぬ叫びを洩らされるばかりであった。
その夜の道長夫婦のありさまは、のち『小右記』にも、「殿も北の方も、大きに嘆き騒ぎ、声を放ちて泣き給う」と記されたほどの取り乱しようであったと伝えられている。
産所の灯がほの暗く揺れるなか、嬉子の胸のうちには、熱とも冷えともつかぬ重さが張りつめていた。痛みが波のように押し寄せ、意識の輪郭がぼやけてゆく。その狭間で、ふっと気配が変わった。
「──あやつの娘だなあ」
耳の奥で、乾いた男の声がした。若いはずなのに、深い疲れと悔恨を引きずる声音。嬉子がゆっくりと瞼を上げると、几帳の陰に、薄墨を流したような人影が立っている。
「……どなたに、ございますか」
息の音が震え、声にならない声が喉を擦る。
「わたしの名を、今の世に覚えている者など、もうおるまい。中関白家の子、伊周よ」
その名を聞いた瞬間、嬉子の背筋に寒気が走った。父道長の兄・道隆の嫡男。中宮定子の兄にして、一時は関白に最も近かったはずの人。だが長徳の変によって失脚し、すべてを失った一族の頭でもあった。
「父・道長の、かつての御兄君の……」
「従兄などと思うな」
影はかすかに笑った。笑い声には棘がありながらも、どこか自嘲がにじむ。
「わたしは、あやつと争い、敗れた者だ。だが、その傷は、こうして今も残っておる。妹・定子が一条院に愛され、敦康という第一皇子を生んだにもかかわらず、敦成即位ののちも立坊叶わず、代わりに、なんとおまえの夫たる敦良親王が東宮に。しかも、おまえがその子をこれから出産するとはな。永遠に道長の世が続くものとでも思うておるのか」
嬉子の脳裏に、かつて耳にした物語がよみがえる。定子が身重のまま出家に追い込まれ、やがて若くして世を去ったこと。
その裏に、父と伊周の激しい確執があったことも。
「……父の道長が、一条院の御意に背いて……」
嬉子の言葉に、伊周の影がぎくりと揺れた。
「そうだ。あやつは、わが失脚を足がかりに、やがて『この世をばわが世とぞ思ふ』などと歌を詠んだ。望月のごとき栄華を誇るその歌の裏で、妹の涙も、わが無念も、ことごとく踏み台にされたのだ」
声が低くうなり、産所の灯が一瞬、青白くかすむ。
「敦康親王は、一条院の第一皇子であった。にもかかわらず、あやつは自らの娘・彰子の御子を次々と皇太子に押し立て、中関白家の血を皇統から遠ざけた。
妹は帝に愛されながら、父の死とわが失脚とともに、静かに追い詰められていったのだ」
伊周の声には、怨みと悔しさ、そしてどうにもならぬ自責の念が、絡み合っていた。
八、嬉子が語る定子と一条院の思い出
嬉子は、痛みのなかでゆっくりと息を吸った。目の前の物の怪には、父を恨む男の顔だけでなく、どこか寂しげな兄の面影も見える。
「わたくしは、幼いころから、定子さまと一条院の御仲のことを、女房たちの語るままに聞いておりました」
伊周の影が、わずかに動きを止めた。
「中宮定子さまは、学問と機知に富み、清少納言をはじめとする才ある女房たちに囲まれておられたと。『香炉峰の雪』のお話など、何度も何度も聞きました。ある寒い朝、定子さまが『香炉峰の雪はいかがか』とお尋ねになり、清少納言がすぐさま御簾を上げて、白楽天の詩の一節をその場に再現してみせたとか。あのような風雅は、今の宮中には、もうございません」
嬉子の声が、ふっとかすんだ。
「わたくしは、その情景を思い浮かべるたび、胸が高鳴りました。中宮さまと女房たちが漢詩を遊びに変え、雪景色さえも物語の一部にしてしまう。そこに一条院もおられて、きっと微笑ましく眺めておられたのでしょうね、と」
伊周の影が、かすかに揺れた。怒りの波が、ほんの少し引いたように見える。
「妹が、そのように語られておるのか」
「はい。女房たちは、今も密やかに定子さまを語ります。早くに亡くなられたことを、惜しみながら」
嬉子は、痛みをこらえて続けた。
「わたくしが物心ついたころには、すでに定子さまはこの世を去っておられました。それでも、清少納言さまの『枕草子』の噂や、御所での日々の逸話を聞くたびに、まるで自分も、あの御方の几帳の端に座しているような気持ちになったのです」
「……妹は、あやつの娘が宮中に上がる前に、すべてを失った」
伊周の声が低く落ちる。
「敦康親王を残しながら、父の死とわが失脚に巻き込まれ、身重のまま髪を落とし、それでも帝を気遣って笑おうとしたときの妹の顔を、わたしは忘れぬ」
嬉子は、そっと瞳を閉じた。
「その御方が、もっと長く生きておられたならと思います。彰子さまが中宮となられたあとも、二人の皇后として一条院を支え合うことができたかもしれない。父がどれほど権勢を誇ろうとも、定子さまの早世だけは、決して誇れぬ傷だと、わたくしは感じておりました」
「おまえの父は、その傷を口にすらせぬ」
伊周の声に、鋭い棘が戻る。
「妹の子を皇太子にできなかった悔しさ、わが一族が断たれてゆく無念。そのすべてを、あやつは権勢の影に押し込めた。だからこそ、わたしは道長の娘に取り憑き、その身を通してあやつの望月を欠けさせてやろうとしたのだ」
九、嬉子の悔恨と祈り
嬉子は、荒れ狂う痛みを抱えながら、静かに首を振った。
「伊周さま。わたくしは、たしかに道長の娘にございます。けれど同じように、一条院と定子さまの物語に心を奪われた、ただのひとりの女でもあります」
乾いた息をのむ気配が、闇の向こうから伝わってくる。
「定子さまの御子、敦康親王が皇太子となられなかったこと。その背後に、父の策があったことも、耳にしてはおります。それでも、一条院がどれほど定子さまを慕っておられたか、その御心までが偽りであったとは、どうしても思えないのです」
「……何を言う」
「政のうえでは、父はたしかに伊周さまからすべてを奪ったのかもしれません。けれど、一条院のお心のなかで、定子さまの思い出だけは、誰も奪うことができなかった。香炉峰の雪を共に眺めた朝も、『枕草子』に記された数々の日々も。わたくしは、そのことだけを、少女のころから信じてまいりました」
嬉子の頬を、一筋の涙が伝う。
「だからこそ、定子さまの早世を、心から悔やみます。父道長の娘としてではなく、あの方の物語にあこがれたひとりの女として」
産所の空気が、ふっと和らいだような気がした。伊周の影が、わずかに薄らぐ。
「おまえは、道長の娘でありながら、妹のために泣くというのか」
「はい。父のしたことを、すべて肯うことはできませぬ。けれど、父が築いた世のただなかで、わたくしたちは生きるしかありません。そのなかで、定子さまのお心だけは、穢したくないのです」
嬉子は、痛みに震える腹にそっと手を添えた。
「もし、この子が生まれてくることが叶うなら。わたくしは、この子に、定子さまと一条院の物語を語り聞かせましょう。権勢や皇位の争いではなく、香炉峰の雪を共に眺めた朝の、美しい記憶として」
しばしの沈黙ののち、伊周の声が、どこか遠くから響いてきた。
「……おまえのような娘が、妹のそばにいてくれたなら、と、ふと思ってしまった」
その声音には、憎悪よりも先に、深い疲れと寂しさがにじんでいた。
十、臨終に際し、両親との別れ
男皇子がお生まれになったのは、長い長い夜の明けたあとのことであった。
御殿の奥から産屋の帳が開かれ、力強い産声が響き渡る。皇子の御誕生である。
「おめでとうございます。健やかなる御子にございます」
産屋に満ちていた張りつめた気は、ひとときだけやわらぎ、誰もが「まずは御安産」と胸をなでおろした。土御門殿は瞬く間に歓喜に包まれる。女房たちは手を打ち鳴らして喜び、兄たちも顔を綻ばせてご満悦の体である。
隣の部屋からは陰陽師や高徳の僧たちが得意げに退出し、朝霧のなかへと姿を消した。かくて物の怪の脅威は去り、待望の皇子は無事この世に誕生したのである。この皇子が、のちに後冷泉天皇として君臨することになる。
されど、その安堵も束の間に、嬉子の御容体は、みるみるうちに細る灯火のように衰えていった。
二日目の夕暮れ、薄紅の空が土御門殿の軒端を染めるころ、嬉子はふと、長い眠りから目覚めたように、かすかに瞼をひらいた。
枕辺には、いつの間にか道長と倫子が並んで座しており、ただ黙って娘の顔を見つめている。
「父上……母上……」
かすれた声で呼びかけると、道長の喉が大きく鳴り、倫子は思わず袖口を口に当てた。
「よう、よう、このように……」
それ以上の言葉は、涙に呑まれて続かなかった。
しばらくして、嬉子は、いったん閉じた瞳をまたうすくひらく。
その目には、どこか現か夢かわからぬ影が、淡くさしていた。
「けれど……父上」
道長は思わず身を乗り出す。
「わたくしは……父上の御栄えが、どれほど多くの人の涙の上に築かれてきたか……そっと女房たちの口から聞き、夜々の御物語のうちにも、気づいておりました」
道長の顔が、さっとこわばる。
嬉子は遠くを見つめるように続けた。
「その報いが、もしこの身ひとつに来ているのなら……わたくしは、父上の御権勢の、負の宿り木にございます。この若宮を世に送り出すために、ひとり命を差し出す役目を、天はわたくしにお与えになったのでしょうか」
倫子が「そんなこと、言うてはなりませぬ」と震える声で制そうとするが、嬉子はかすかに首を振った。
「恨み申さぬと言えば、それは偽りになりましょう。まだ父上の御側で、もっと長く笑っていたく、母上の御手にすがっていたく……東宮さまの御そばで、若宮の成長を見とうございました」
そこで、ようやく一筋、涙が嬉子の頬を伝う。
「けれど……この運命をお定めになったものは、人の力の及ばぬところにございます。父上を、母上を、心の底から慕いながら、なお恨みの欠片を抱いたまま参るのだと思えば……それもまた、道長公の娘のさだめにございましょう」
道長は、その言葉に打たれたように顔を伏せ、震える声で言った。
「すべては、わしの罪業の報いにこそあれ。おまえの身ひとつに、そのすべてを負わせたると思えば……何をもって詫びてよいか、わしにも分からぬ」
嬉子は、かすかに首を左右に振る。
「父上がお詫びなされる筋合いでは、ございませぬ。ただ、どうか……この子を……」
そこから先のことばは、風にほどける煙のように、声にならず消えていった。
嬉子のまつげが、そっと伏せられ、そのまま二度とひらくことはなかったと、人々は語り伝える。
道長も倫子も、その枕元に縋りついて声を挙げて泣き、あの権勢を誇った家の内が、一夜にして真の闇に沈んだかとさえ思われた、と申すのである。
翌年、春になると、土御門殿の庭には、変わらず梅の花が咲いた。八月生まれの若君は、初めての春を迎えている。
嬉子の遺愛の梅の花を見ては、女房たちは思わず袖を濡らした。しかし、若君は、なぜ人が泣くのかも知らぬまま、ただ無邪気に笑い、すくすくと育っていた。
その若君に仕えていた藤原敦家は、悲しみのあまり、次のような歌を残している。
あるじをばたれともわかず春はただ
垣根の梅をたづねてぞ見る
今は主を失った邸にあって、春ごとに垣根の梅を訪ねて見るばかりである。
梅の花を通して、誰とも知れぬ「あるじ」の面影を慕うその心のうちに、土御門殿の人々は、若くして果てた嬉子の姿を、ひそやかに重ねていたのである。




