考える暇なんてない!
すべては、暗闇に包まれていた。 名前も知らぬ女の囁き、背中に刻まれた奇妙な紋章、そして抗うことのできない眠り。 次にトオルが目を開けた時、そこは彼が知る「日常」とはかけ離れた、未知の異世界だった。
空から降り注ぐ火炎、至る所で響き渡る悲鳴。 絶望に染まった夜空を、一頭の巨大な竜が切り裂いていく。
地面に這いつくばっていたトオルは、残された力を振り絞って立ち上がった。泣きはらした目は熱く、足元はおぼつかない。激しい消耗に耐えながら、彼は目の前の女に向かって数歩歩み寄り、声を絞り出した。
「……誰だ? 俺に何の用だ? お前が俺をここに連れてきたのか?」
「……」
トオルの問いを、目の前の女は完全に無視した。顔は隠れているが、その視線はトオルを射抜くように鋭く、まるで瞳で焼き殺されそうな圧迫感を感じる。
「私を覚えていないの? 悲しいわ、貴方。どうして忘れてしまったの? そんなの、あんまりじゃない」
女は両手で顔を覆い、落ち着かない様子でゆらゆらと体を揺らしながら、悲しげに呟いた。その言葉が事実なら、彼女とトオルは知り合いということになるが、トオルには一切の記憶がない。
「はあ……っ?」 「貴方? 忘れた? 何を言ってるんだ。俺たちは今会ったばかりだろ。……いや、確かにどこかで会ったような感覚はあるけど、そんなはずはないんだ」
トオルは困惑しながらも、フードを被った女の言葉を否定した。
「せめて、名前だけでも教えてくれないか」
情報を引き出そうと食い下がったが、突如として女は理解不能な言語で何かを唱え始めた。
不気味な詠唱が止むと、暗闇に包まれた空間に重苦しい沈黙が響き渡った。トオルは何と言えばいいのか分からなかった。ただ混乱していた。これまでの人生で経験したことのない異常事態だ。やがて、女がその沈黙を破る。
「……まあ、無理もないわね。でも、あの日まで貴方には生きていてもらわないと。だから、それまでは死なせないように見守ってあげる。……じゃあね、お元気で」
「待てよ! 何の話だ? 俺はどうすれば……。バイバイって、どこに行くんだよ!」
「私はどこにも行かないわ。貴方が忘れていても、ずっとそばにいる。説明する必要はないわ。この世界を離れて『あちら』に着けば、どうせ忘れてしまうのだから」
トオルが言い返す前に、猛烈な意識の混濁が彼を襲った。彼はそのまま、黒い砂の上へと崩れ落ちた。
名前を明かさなかった女は、闇に包まれた砂漠に横たわるトオルへと歩み寄った。彼女は静かに屈み込み、彼の背中にそっと手を触れる。
その瞬間、触れられた場所に**法輪**の紋章が浮かび上がった。すると、トオルの下の砂がまるで意志を持っているかのように彼を飲み込み、その場から消し去ってしまった。
「また会いましょう……」
は、その言葉が現実になることを切望するように呟いた。その声には憎しみも怒りもなかった。彼女はただ、彼女なりの真実を口にしていた。その表情には平穏と、再会への深い渇望が満ちていた。
トオルが目を覚ました時、首と背中に激痛が走った。まるで硬い床で12時間も眠り続けたような不快感だ。だが、問題はそれだけではなかった。
「え……?」 (ここ、どこだ?)
自分がどこにいるのか判別がつかない。それどころか、過去の記憶が曖昧になっていた。あの謎の女との出来事さえも思い出せない。覚えているのは、自分の名前と、これまでの人生の断片的な記憶だけだった。
「どうしてここにいるんだ……。頭が割れそうに痛い。夜か……。とりあえず、どこか休める場所を探さないと」
夜の闇が深かったが、あちこちに灯された火が街を照らし、幻想的な雰囲気を醸し出していた。そこはさほど広くない通りだったが、自分の母国とは明らかに雰囲気が違う。
「日本か? いや、アジアのどこか、あるいはヨーロッパか? ……まさか薬でも盛られたのか? いや、誘拐されたにしては殺されるわけでもなく、知らない場所に放置されるなんて意味が分からない」
「……それに、さっきまで何をしていたか思い出せない。まるで『メン・イン・ブラック』みたいに記憶を消されたみたいだ。まさか、アニメとかでよくある『異世界転生』ってやつか? ……いや、そんなバカな」
そう結論づけそうになったのは、この場所がトオルの知る現代社会とはかけ離れていたからだ。建物の造りは王侯貴族がいた時代のような古風なものだったが、手入れが行き届いており、現代の保存状態としては良すぎた。タイムスリップの可能性も頭をよぎる。
「……もしかして、過去に戻ったとかぁぁぁぁぁ――」
トオルがその言葉を最後まで言い切ることはできなかった。 遥か上空、夜空を切り裂いて飛来する巨大な影――西欧の伝承に登場するような、真っ赤な巨躯を持つドラゴンが彼の視界を奪ったからだ。
「嘘だろ……。過去どころの話じゃねえ……」
空を舞っていたドラゴンが進路を変え、トオルのいる街へと降下を始めた。
「おいおい、待てよ! なんでこっちに来るんだよ!」
パニックに陥ったトオルは周囲を見渡すが、あの巨体を防げるような安全な場所などどこにも見当たらない。
ドラゴンの咆哮が轟き、街の平穏は一瞬で崩れ去った。急降下するドラゴンの喉元から腹部にかけて、凄まじいエネルギーが充填されていく。
静まり返っていた街は、一瞬にして悲鳴に包まれた。「ドラゴンだ!」「衛兵は何をしている!」という叫び声が響き、人々が家から飛び出して逃げ惑う。
ドラゴンが至近距離まで迫ると、その口から猛烈な火炎が放たれた。直撃を受けた家屋は一瞬で消し飛び、周囲にも火が燃え広がる。ドラゴンはすぐさま、次なる炎を溜め始めた。
「なんてことだ……!」
トオルは恐怖にすくみ、動けなくなった。燃え盛る街、逃げ惑う群衆。トオルはパニックになった人々の波に突き飛ばされた。
震えが止まらない。腹部を発光させ、再びブレスを吐こうとするドラゴンの姿に、死を予感した。
だが、混沌の中で小さな泣き声が耳に届いた。 群衆の中で、11歳にも満たない少女が泣いていた。逃げる大人たちに突き飛ばされ、あざだらけになりながら地面に伏している。
トオルは考えるより先に動いていた。群衆をかき分け、少女のもとへと駆け寄る。
「親はどこだ!?」
少女はしゃくり上げ、途切れ途切れの声で答えた。 「わ……からないの……っ」
(言葉が通じる。意思疎通は問題ない!) トオルは直感した。少女は激しく泣きじゃくっている。
「大丈夫だ、心配ない。絶対に見つけてやる。でも、まずはここから離れてドラゴンの攻撃を避けるんだ!」
トオルはこの世界のことを何も知らなかったが、迷わず背中を向けた。少女を背負うために屈み込む。
「俺の背中に乗れ!」
少女は一瞬ためらったが、トオルの背にしがみついた。トオルは少女を背負ったまま、必死に走り出した。
「君の方が視界がいい、案内を頼む! 俺はこの場所に詳しくないんだ!」
ドラゴンの咆哮、爆発音、人々の絶叫。その騒音の中で、トオルは大声で叫んだ。
「……う、うん。わかった!」
少女の指示に従い、トオルは路地を右へ、そして左へと折れながら、群衆の混乱を避けて進んだ。
「……ここなら、少しは静かだわ」
少女の言う通り、ドラゴンの破壊の音はまだ響いていたが、少しだけ落ち着きを取り戻せる場所まで逃げ延びた。
「お兄ちゃん、どうしてこの場所のことを何も知らないの?」
「説明しづらいんだけど、気づいたらここにいたんだ。状況を把握する前にあいつが現れて……。君は大丈夫か? 両親がいそうな場所に心当たりはあるか?」
「わからない……。でも、もうすぐ衛兵さんたちが来るはずだよ」
「衛兵か。さっきの人たちも叫んでたな。でも、それらしい姿は見てないぞ」
その時、路地の先を走っていた人々が足を止め、空を見上げた。
「何だ? 何が起きてる?」
「あ……あれを見て! 衛兵さんたちよ!」
少女が歓喜の声を上げ、トオルの背中から降りて駆け出した。トオルもその後を追う。
路地を抜けた大通りで、彼らは信じられない光景を目にした。ドラゴンが街への攻撃を止め、四人の人物と対峙していたのだ。
二人は近接戦闘でドラゴンに挑んでいた。ドラゴンの巨体に比べれば豆粒のような大きさだが、彼らの一撃は確実にドラゴンの鱗を切り裂き、深い傷を負わせている。
地上にはさらに二人。一人は弓を構え、魔力が込められた光り輝く矢を次々と放っていた。弓という武器の常識を超えた破壊力が、ドラゴンの巨躯を揺さぶる。
その隣には、その装束からして魔導師か詠唱者と思われる少女が立っていた。
前線で戦う三人の体は、まるで強化魔法を受けているかのように淡い光を放っている。
「すっげぇ……」
トオルは言葉を失った。さっきまでの死の恐怖も忘れ、自分たちを救うために戦う四人の姿に見惚れていた。彼らは、まさに「英雄」そのものだった。
「どうして彼らは光ってるんだ? 魔法か何かか?」
「そうだよ! あの立っているお姉さんは高位の魔女様なの。呪文で仲間の力を何倍にもできるんだよ。私、いつかあんな風になりたいの!」
少女の瞳は、希望と憧れの輝きで満ち溢れていた。




