7日目に、私の背中に何が起こっているのでしょうか?
トオルとユキは、今日から自分たちの城となる客間を後にした。二人は期待に腹を鳴らしながら、静まり返った廊下を歩き出す。
だが、トオルの脳裏には拭いきれない「違和感」が居座っていた。
(飯? ディナーか? いや、日が昇ってからまだ二時間も経ってないはずだぞ……。おいおい、マジかよ……)
この世界ではまだ朝の八時を回ったあたり。もっとも、正確な時間を刻む時計なんてものは、この屋敷のどこにも見当たらなかったが。
廊下を進む二人の間に会話はない。少し気まずいような、それでいて心地よいような不思議な沈黙だ。トオルはユキの後ろを歩きながら、改めて周囲の様子を観察した。
驚くほど居心地がいい場所だ。まるで、生まれてからずっとここで過ごしてきたかのような錯覚に陥る。
先に階段へ辿り着いたユキが、降りる直前にひょいと首を傾けて後ろを振り返った。トオルがちゃんと付いてきているかを確認するような仕草だ。目が合うと、彼女は照れ隠しをするようにすぐ前を向き、足元に注意しながら階段を降り始めた。
トオルはその一瞬の挙動を、食い入るように見つめていた。
近い。今までになく距離が近い。
彼女の背中越し、一段降りるたびにふわふわと跳ねる髪が、どこか楽しげで、トオルの視線を釘付けにした。
階段を降りるにつれ、視界の景色が切り替わっていく。
階段付近は少し薄暗かったが、壁の向こう側から徐々にダイニングの様子が露わになった。そこにはレミと、彼女の両親の姿があった。
父親は暖炉のそばに腰を下ろし、新聞にそっくりな雑誌を読み耽っている。
一方でレミは、母親の手伝いをしようと周りをチョロチョロと走り回っていた。母親の方は、愛娘がヘマをやらかさないかと、苦笑いしながらそれを見守っている。
「ほら、二人とも。こっちに来て座りなさい。朝食のクッキーがもうすぐ焼き上がるわよ」
母親が優しく声をかける。
「朝食? レミはもう食事ができたって言ってたけど……」
トオルが首をかしげると、母親は「あらあら」と小さく吹き出した。
「ふふっ、あの子ったら。食べられるものなら、なんでも『飯』って呼んじゃうのよ」
「……あー、なるほど。そういうことっすか」
トオルは得心がいったように頷いた。
「さあ、遠慮せずに座って」
「おっけー。お邪魔します」
ユキが軽快に応じ、席に着く。
テーブルは五人で囲むのにちょうどいいサイズで、まだ一人分ほどの余裕があった。トオルとユキは並んで座り、正面には父親が陣取る。
レミが焼きたてのクッキーをトレイに乗せて現れた。彼女は一枚を自分でもぐもぐと頬張ると、ユキの隣にちゃっかりと座り込む。
そこへ、母親が装飾の施されたボウルを持って戻ってきた。
「牛乳よ。絞りたてのね」
(……この世界にも牛っているのか?)
トオルが心の中で毒づく間に、カップに白い液体が注がれた。カップは三つ。トオル、ユキ、そしてレミの分だ。
「……それで、トオル君」
それまで沈黙を守っていた父・オクタビオが、重々しく口を開いた。
「なぜここに来たのですか?」
トオルは一瞬、言葉に詰まった。
自分はこの世界の住人ではない。いつ、どうやってここに来たのかも、なぜ自分がここにいるのかも分からない。
だが、彼は小細工をせず、ありのままを話すことに決めた。
「正直に言うと……自分がなぜここにいるのか、全く分からないんです」
その場にいた全員の顔に困惑の色が浮かぶ。
「分からないって、どういうこと? どうやってここまで来たの?」
母親が問いかけると、トオルは真っ直ぐに彼女の目を見て答えた。
「信じてもらえないかもしれませんが……僕は『転移』してきたんだと思います。別の国からじゃなく、もっと遠い……別の世界からです」
一呼吸置き、彼は続ける。
「僕のいた場所には、魔法も、スキルも、ドラゴンだっていません。ここ……この場所とは、根本的に違う世界なんです」
全員が目を見開き、トオルの言葉を飲み込もうと固まった。
トオルは淡々と、自分の世界とこの世界の相違点を語り続けた。
「……今の話は、全部本当なのか?」
オクタビオが顔を上げる。
「俄かには信じがたいが、君の話し方やその様子を見ていると……嘘を言っているようには見えないな」
「あの……一つ、聞いてもいいですか?」
トオルが切り出す。
「僕は、この世界のことを何も知りません。でも、生きていくためには働かなきゃいけない……。ただ、自分にどんな仕事ができるのか、見当もつかなくて」
「確かにそうだな」
オクタビオが頷く。
「この世界じゃ、種族によって仕事が決まることも多い。うちは見ての通りパン屋だ。毎日、パンや菓子を焼いて売っている」
「あるいは……」
母親が付け加える。
「レミから聞いた話だと、ギルドで『冒険者』を目指してみるのも手じゃないかしら? 詳しい仕組みは分からないけど、ユキなら力になれるんじゃない?」
「ユキが?」
トオルが驚いて隣を見ると、ユキは少し気まずそうに、けれど真剣な表情で答えた。
「ええ……。私の両親も冒険者パーティーを組んで、それで生計を立ててるの。私はまだ危ないからって、仲間に入れてもらえないんだけどね」
ユキはどこか遠くを見つめるような目で、カップの縁を指先でなぞっていた。
その表情には、諦めと憧憬が混ざり合っている。彼女にとって「冒険」という世界は、ずっと遠くから眺めることしか許されない、開かずの扉のようなものなのだろう。
「……まあ、家で話はよく聞いてるから。ギルドの仕組みとか、冒険者がどういうものかっていうのは、人よりは知ってるつもりだけど」
オクタビオが腕を組み、椅子の背もたれに体を預けた。
「冒険者は遊びじゃないんだぞ」
彼の声には、経験に裏打ちされた重みがあった。
「外は危険に満ちている。トオル君、君がいた世界がどうだったかは知らないが、あそこでの常識はここじゃ通用しない。生半可な覚悟で務まる仕事じゃないんだ」
「でも、不可能ってわけじゃないわ」
母親が穏やかにフォローを入れる。
「本人が心から望むなら、道は開けるものよ」
それまでクッキーに夢中だったレミが、ガバッと顔を上げた。
「トオルなら絶対強いよ! きっとデカいモンスターもボコボコにしちゃうんだから!」
「いや……俺、喧嘩すらしたことないんだけどな」
トオルは苦笑いを浮かべた。今の自分に、そんな大層な力があるとは思えない。
「そんなの、後から覚えればいいさ」
オクタビオが不敵に笑う。
「俺だって大した戦士じゃないが、護身術くらいは心得てる。あんたがその気なら、叩き込んでやってもいいぞ」
食卓に一瞬の静寂が訪れる。
トオルは手元のミルクを見つめた。立ち上る湯気が、まるで意志を持っているかのようにゆらゆらと揺れている。
魔法、未知の世界、そして当たり前のように語られる非日常。
まだ何もかもがフワフワとしていて、自分というパズルのピースが欠けているような、奇妙な違和感がある。……もっとも、自分の人生なんて、元の世界にいた時から欠陥品のようなものだったが。
だが、不思議だった。
この場所には、妙な「安らぎ」がある。
心の奥底、あるいは魂のような場所が、「お前はここにいるべきなんだ」と囁いているような、そんな運命めいた感覚だ。
「それにね」
母親がトレイを片付けながら言葉を継いだ。
「今すぐ決めなくてもいいのよ。この世界のことがわかるまで、しばらくここに居ればいいわ」
「え……いいんですか? 俺みたいな、どこの馬の骨かもわからない奴を……」
「当たり前じゃない。こんな状況で一人放り出すなんて、寝覚めが悪すぎるわ」
彼女の温かい微笑みに、ユキも小さく頷いて同意を示す。
その瞬間、トオルの胸を締め付けていた見えない重圧が、スッと消えていくのがわかった。
この世界に来てからずっと付きまとっていた「居場所がない」という恐怖。それが、このささやかな「居場所」の提示によって救われたのだ。
「……ありがとうございます」
トオルが小さく呟くと、レミが身を乗り出してきた。
「ねえねえ! それで、トオルの世界って本当はどうだったの? 魔法とか、ちょっとくらいはあったんでしょ?」
「いや、魔法なんて一つもなかったよ。その代わり『物理法則(自然の摂理)』が世界を支配してたんだ。……まあ、それはこの世界も同じかもしれないけどさ。俺がいた頃は、本を読んだり、コンピューターでゲームをしたり……あとは『テクノロジー』、科学技術がすごく発達してたんだ」
「てくの……なに?」
「えーっと……人間の代わりに働く機械とか、馬がいなくても走る乗り物とか、街中を昼間みたいに照らす光、あとは何千キロも離れた相手と話ができる魔法の道具とかさ」
レミの目が、キラキラと輝き出す。
「それ、魔法より魔法っぽいじゃん!」
「ははは! 世界が変われば、不思議の形も変わるっていうことだな」
オクタビオが豪快に笑った。
朝食の時間は、トオルの語る「異世界の物語」で持ち切りになった。空に届くほどのビル、光る画面、手のひらに収まる無限の知識……。彼らにとって、それはまるでお伽話のようだった。
やがて会話が一段落した頃、オクタビオが真剣な面持ちで問いかけた。
「さて、トオル。あんたはどうしたい? この未知の世界で冒険に身を投じるか、それとも俺たちと一緒にパンを焼くか……」
トオルは思考を巡らせる。
(冒険者か。あのドラゴンを見た後だと正直ビビるけど、せっかく異世界に来たんだ、見てみたい気もする。……でも、パン屋も悪くないな。毎日いろんな客と出会って、平和に暮らす。それも一つの幸せだ。……ここで死ぬようなリスクを冒すよりは……)
トオルは、自分の意志を口にしようとした。
「俺、パン屋にな――」
その瞬間だった。
「――っ! あ、あぁぁぁああああああ!!?」
言葉の最後は、悲鳴に変わった。
背中の中心から全身の末端にかけて、凄まじい激痛が走り抜ける。
まるで血管の中に煮え滾る溶岩を流し込まれたような、尋常ではない熱さ。
「トオル!? どうしたんだ!」
全員が椅子を蹴って立ち上がる。トオルは自分の背中を掻き毟るように腕を回し、苦悶の表情で床を転げ回った。
「トオル君! しっかりして!」
ユキが駆け寄り、彼を支えようとする。
「なんなんだ、一体……病気か!? 呪いか!?」
オクタビオの叫びも、トオルの耳には届かない。喉の奥から漏れるのは、獣のような呻き声だけだ。
次の瞬間――。
トオルの背中から、目も眩むような光の放電が弾け飛んだ。
その衝撃が自らの肉体を直撃し、トオルの意識は強制的に闇へと突き落とされた。
――……。
トオルは再び、常闇の砂漠で目を覚ました。
足元にあるのは黒い砂。それは夜空よりもなお深く、不吉な色をしていた。水平線も、星も、方向感覚すら存在しない。ただ、無限の暗闇がどこまでも続いている。
「ここは……どこだ?」
漏れた言葉は、虚無へと吸い込まれて消えた。
胸を締め付けるような、妙な圧迫感。トオルはこの場所を知っていた。魂の奥底が、以前ここに来たことがあると告げている。だが、思考は白濁し、記憶は塗り潰されていた。あの女によって、精神の根幹をバグらされたかのように。
背筋を這い上がる静かな恐怖に耐えながら、トオルはおぼつかない足取りで歩き出す。
この場所には奥行きも距離感もない。空間そのものが自分の感覚を嘲笑っているかのように平面的で、非現実的だ。浮遊感と吐き気に抗いながら、数分間、ただ真っ直ぐに進んだ。
何もない。
文字通り、何も。
だがその時、足先が「何か」に沈み込んだ。
「え……?」
視線を落とすと、そこには大きな水溜まりがあった。
ドロリと濁った液体。この暗闇の中では、それが何なのか判別することすら叶わない。
トオルはゆっくりと腰を落とし、指先でその液体に触れてみた。
「……黒いけど、水、なのか……?」
「いいえ」
背後から、女の声が響いた。
鈴の音のように澄んだ、穏やかな声。だが、そこには生物としての体温を感じさせない、不自然な響きが含まれていた。
「それは水ではないわ。その場所にある液体は……あなたがこれから取るであろう『選択』の結果よ」
トオルの全身に、総毛立つような戦慄が走った。
「選択……? 待てよ、あんた誰だ?」
勢いよく振り返る。
そこには一人の女が立っていた。
闇の世界と残酷なまでにコントラストを成す、優雅な白いドレス。細い肢体を包むその布地は、剥き出しの肩と首筋を強調し、神々しさの中にどこか不気味な非現実感を漂わせている。
トオルは知る由もないが、それは以前出会った「彼女」とは別の存在だった。
「私はあなたの潜在意識が見せている投影に過ぎないわ」
女は平然と答える。「これにもなれるし……これにも」
女の輪郭が歪んだ。
その肉体は、見えない意志によって捏ねられる粘土のように変形していく。レミの顔、ユキの姿、そして彼女の両親……。
トオルは思わず後ずさった。
「なっ……なんだよ、それ……。潜在意識って、どういう意味だよ!?」
「潜在意識というよりは……あなたの魂に紐付けられた存在、と言うべきかしら。あなたを『目的』へと導くためだけに造られた存在よ」
「目的? 俺の魂に紐付けられた……?」
女は、解読不能な表情でトオルを見つめた。
「多くは語れないわ。あなたはもうすぐ目を覚ます。ただ一つ、警告しておくわ……。冒険者の道を選びなさい。そうでなければ、あなたは後悔することになる」
トオルは自嘲気味に鼻で笑った。
「後悔? 冗談だろ。俺は弱えんだよ。そんな真似をしてみろ、すぐに死ぬに決まってる」
「ええ……あなたは弱い。それは事実だわ」
女は否定せず、淡々と言い放った。
「けれど、それでも『彼女』はあなたを選んだ。少しは自分を信じてあげたらどうかしら?」
女が一歩、トオルへと歩み寄る。
「……これだけは言っておくわ。私はあなたの監視役であると同時に、あなたと彼女を繋ぐ『架け橋』。二人をリンクさせるためだけに生み出された、人工の魂なの」
トオルの鼓動が激しく打ち鳴らされる。
「誰の話をしてるんだ? その、さっきから言ってる『女の子』ってのは一体誰なんだよ!」
女はしばし沈黙し、
「説明しても無駄よ。目覚めた時、あなたがこれを覚えているかさえ怪しいのだから」
その声に、初めて悲しみの色が混じった。
「……彼女はね、最も愛した者たちに裏切られたのよ。守ろうとした者たちのために全てを捧げ、その末に背中を刺され、あの化け物共によって封印された……。そんな、哀れな存在よ」
再び、静寂が降りる。
トオルは足元の水溜まりを、もう一度見下ろした。
……それはもう、水には見えなかった。
血だ。
悍ましいほどの、鮮血。
数人分の人生を煮詰めたような、圧倒的な質量。まるで四つの命がそのまま溶け出したかのような、暗い反射。
その時、トオルの中の困惑は、純粋な「恐怖」へと変貌した。
これまでで最も長い章です。気に入っていただけると嬉しいです。




