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異世界に迷い込んだ愚か者は、元の世界へ戻ることなど考えもしない。  作者: ikenaki
聖都ミラノ。

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11/12

7日目に、私の背中に何が起こっているのでしょうか?

トオルとユキは、今日から自分たちの城となる客間を後にした。二人は期待に腹を鳴らしながら、静まり返った廊下を歩き出す。

だが、トオルの脳裏には拭いきれない「違和感」が居座っていた。

(飯? ディナーか? いや、日が昇ってからまだ二時間も経ってないはずだぞ……。おいおい、マジかよ……)

この世界ではまだ朝の八時を回ったあたり。もっとも、正確な時間を刻む時計なんてものは、この屋敷のどこにも見当たらなかったが。

廊下を進む二人の間に会話はない。少し気まずいような、それでいて心地よいような不思議な沈黙だ。トオルはユキの後ろを歩きながら、改めて周囲の様子を観察した。

驚くほど居心地がいい場所だ。まるで、生まれてからずっとここで過ごしてきたかのような錯覚に陥る。

先に階段へ辿り着いたユキが、降りる直前にひょいと首を傾けて後ろを振り返った。トオルがちゃんと付いてきているかを確認するような仕草だ。目が合うと、彼女は照れ隠しをするようにすぐ前を向き、足元に注意しながら階段を降り始めた。

トオルはその一瞬の挙動を、食い入るように見つめていた。

近い。今までになく距離が近い。

彼女の背中越し、一段降りるたびにふわふわと跳ねる髪が、どこか楽しげで、トオルの視線を釘付けにした。

階段を降りるにつれ、視界の景色が切り替わっていく。

階段付近は少し薄暗かったが、壁の向こう側から徐々にダイニングの様子が露わになった。そこにはレミと、彼女の両親の姿があった。

父親は暖炉のそばに腰を下ろし、新聞にそっくりな雑誌を読み耽っている。

一方でレミは、母親の手伝いをしようと周りをチョロチョロと走り回っていた。母親の方は、愛娘がヘマをやらかさないかと、苦笑いしながらそれを見守っている。

「ほら、二人とも。こっちに来て座りなさい。朝食のクッキーがもうすぐ焼き上がるわよ」

母親が優しく声をかける。

「朝食? レミはもう食事ができたって言ってたけど……」

トオルが首をかしげると、母親は「あらあら」と小さく吹き出した。

「ふふっ、あの子ったら。食べられるものなら、なんでも『メシ』って呼んじゃうのよ」

「……あー、なるほど。そういうことっすか」

トオルは得心がいったように頷いた。

「さあ、遠慮せずに座って」

「おっけー。お邪魔します」

ユキが軽快に応じ、席に着く。

テーブルは五人で囲むのにちょうどいいサイズで、まだ一人分ほどの余裕があった。トオルとユキは並んで座り、正面には父親が陣取る。

レミが焼きたてのクッキーをトレイに乗せて現れた。彼女は一枚を自分でもぐもぐと頬張ると、ユキの隣にちゃっかりと座り込む。

そこへ、母親が装飾の施されたボウルを持って戻ってきた。

「牛乳よ。絞りたてのね」

(……この世界にも牛っているのか?)

トオルが心の中で毒づく間に、カップに白い液体が注がれた。カップは三つ。トオル、ユキ、そしてレミの分だ。

「……それで、トオル君」

それまで沈黙を守っていた父・オクタビオが、重々しく口を開いた。

「なぜここに来たのですか?」

トオルは一瞬、言葉に詰まった。

自分はこの世界の住人ではない。いつ、どうやってここに来たのかも、なぜ自分がここにいるのかも分からない。

だが、彼は小細工をせず、ありのままを話すことに決めた。

「正直に言うと……自分がなぜここにいるのか、全く分からないんです」

その場にいた全員の顔に困惑の色が浮かぶ。

「分からないって、どういうこと? どうやってここまで来たの?」

母親が問いかけると、トオルは真っ直ぐに彼女の目を見て答えた。

「信じてもらえないかもしれませんが……僕は『転移』してきたんだと思います。別の国からじゃなく、もっと遠い……別の世界からです」

一呼吸置き、彼は続ける。

「僕のいた場所には、魔法も、スキルも、ドラゴンだっていません。ここ……この場所とは、根本的に違う世界なんです」

全員が目を見開き、トオルの言葉を飲み込もうと固まった。

トオルは淡々と、自分の世界とこの世界の相違点を語り続けた。

「……今の話は、全部本当なのか?」

オクタビオが顔を上げる。

「俄かには信じがたいが、君の話し方やその様子を見ていると……嘘を言っているようには見えないな」

「あの……一つ、聞いてもいいですか?」

トオルが切り出す。

「僕は、この世界のことを何も知りません。でも、生きていくためには働かなきゃいけない……。ただ、自分にどんな仕事ができるのか、見当もつかなくて」

「確かにそうだな」

オクタビオが頷く。

「この世界じゃ、種族によって仕事が決まることも多い。うちは見ての通りパン屋だ。毎日、パンや菓子を焼いて売っている」

「あるいは……」

母親が付け加える。

「レミから聞いた話だと、ギルドで『冒険者』を目指してみるのも手じゃないかしら? 詳しい仕組みは分からないけど、ユキなら力になれるんじゃない?」

「ユキが?」

トオルが驚いて隣を見ると、ユキは少し気まずそうに、けれど真剣な表情で答えた。

「ええ……。私の両親も冒険者パーティーを組んで、それで生計を立ててるの。私はまだ危ないからって、仲間に入れてもらえないんだけどね」

ユキはどこか遠くを見つめるような目で、カップの縁を指先でなぞっていた。

その表情には、諦めと憧憬が混ざり合っている。彼女にとって「冒険」という世界は、ずっと遠くから眺めることしか許されない、開かずの扉のようなものなのだろう。

「……まあ、家で話はよく聞いてるから。ギルドの仕組みとか、冒険者がどういうものかっていうのは、人よりは知ってるつもりだけど」

オクタビオが腕を組み、椅子の背もたれに体を預けた。

「冒険者は遊びじゃないんだぞ」

彼の声には、経験に裏打ちされた重みがあった。

「外は危険に満ちている。トオル君、君がいた世界がどうだったかは知らないが、あそこでの常識はここじゃ通用しない。生半可な覚悟で務まる仕事じゃないんだ」

「でも、不可能ってわけじゃないわ」

母親が穏やかにフォローを入れる。

「本人が心から望むなら、道は開けるものよ」

それまでクッキーに夢中だったレミが、ガバッと顔を上げた。

「トオルなら絶対強いよ! きっとデカいモンスターもボコボコにしちゃうんだから!」

「いや……俺、喧嘩すらしたことないんだけどな」

トオルは苦笑いを浮かべた。今の自分に、そんな大層な力があるとは思えない。

「そんなの、後から覚えればいいさ」

オクタビオが不敵に笑う。

「俺だって大した戦士じゃないが、護身術くらいは心得てる。あんたがその気なら、叩き込んでやってもいいぞ」

食卓に一瞬の静寂が訪れる。

トオルは手元のミルクを見つめた。立ち上る湯気が、まるで意志を持っているかのようにゆらゆらと揺れている。

魔法、未知の世界、そして当たり前のように語られる非日常。

まだ何もかもがフワフワとしていて、自分というパズルのピースが欠けているような、奇妙な違和感がある。……もっとも、自分の人生なんて、元の世界にいた時から欠陥品のようなものだったが。

だが、不思議だった。

この場所には、妙な「安らぎ」がある。

心の奥底、あるいは魂のような場所が、「お前はここにいるべきなんだ」と囁いているような、そんな運命めいた感覚だ。

「それにね」

母親がトレイを片付けながら言葉を継いだ。

「今すぐ決めなくてもいいのよ。この世界のことがわかるまで、しばらくここに居ればいいわ」

「え……いいんですか? 俺みたいな、どこの馬の骨かもわからない奴を……」

「当たり前じゃない。こんな状況で一人放り出すなんて、寝覚めが悪すぎるわ」

彼女の温かい微笑みに、ユキも小さく頷いて同意を示す。

その瞬間、トオルの胸を締め付けていた見えない重圧が、スッと消えていくのがわかった。

この世界に来てからずっと付きまとっていた「居場所がない」という恐怖。それが、このささやかな「居場所シェルター」の提示によって救われたのだ。

「……ありがとうございます」

トオルが小さく呟くと、レミが身を乗り出してきた。

「ねえねえ! それで、トオルの世界って本当はどうだったの? 魔法とか、ちょっとくらいはあったんでしょ?」

「いや、魔法なんて一つもなかったよ。その代わり『物理法則(自然の摂理)』が世界を支配してたんだ。……まあ、それはこの世界も同じかもしれないけどさ。俺がいた頃は、本を読んだり、コンピューターでゲームをしたり……あとは『テクノロジー』、科学技術がすごく発達してたんだ」

「てくの……なに?」

「えーっと……人間の代わりに働く機械とか、馬がいなくても走る乗り物とか、街中を昼間みたいに照らす光、あとは何千キロも離れた相手と話ができる魔法の道具デバイスとかさ」

レミの目が、キラキラと輝き出す。

「それ、魔法より魔法っぽいじゃん!」

「ははは! 世界が変われば、不思議の形も変わるっていうことだな」

オクタビオが豪快に笑った。

朝食の時間は、トオルの語る「異世界の物語」で持ち切りになった。空に届くほどのビル、光る画面、手のひらに収まる無限の知識……。彼らにとって、それはまるでお伽話フェアリーテイルのようだった。

やがて会話が一段落した頃、オクタビオが真剣な面持ちで問いかけた。

「さて、トオル。あんたはどうしたい? この未知の世界で冒険に身を投じるか、それとも俺たちと一緒にパンを焼くか……」

トオルは思考を巡らせる。

(冒険者か。あのドラゴンを見た後だと正直ビビるけど、せっかく異世界に来たんだ、見てみたい気もする。……でも、パン屋も悪くないな。毎日いろんな客と出会って、平和に暮らす。それも一つの幸せだ。……ここで死ぬようなリスクを冒すよりは……)

トオルは、自分の意志を口にしようとした。

「俺、パン屋にな――」

その瞬間だった。

「――っ! あ、あぁぁぁああああああ!!?」

言葉の最後は、悲鳴に変わった。

背中の中心から全身の末端にかけて、凄まじい激痛が走り抜ける。

まるで血管の中に煮え滾る溶岩を流し込まれたような、尋常ではない熱さ。

「トオル!? どうしたんだ!」

全員が椅子を蹴って立ち上がる。トオルは自分の背中を掻き毟るように腕を回し、苦悶の表情で床を転げ回った。

「トオル君! しっかりして!」

ユキが駆け寄り、彼を支えようとする。

「なんなんだ、一体……病気か!? 呪いか!?」

オクタビオの叫びも、トオルの耳には届かない。喉の奥から漏れるのは、獣のような呻き声だけだ。

次の瞬間――。

トオルの背中から、目も眩むような光の放電が弾け飛んだ。

その衝撃が自らの肉体を直撃し、トオルの意識は強制的に闇へと突き落とされた。

――……。

トオルは再び、常闇の砂漠で目を覚ました。

足元にあるのは黒い砂。それは夜空よりもなお深く、不吉な色をしていた。水平線も、星も、方向感覚すら存在しない。ただ、無限の暗闇がどこまでも続いている。

「ここは……どこだ?」

漏れた言葉は、虚無へと吸い込まれて消えた。

胸を締め付けるような、妙な圧迫感。トオルはこの場所を知っていた。魂の奥底が、以前ここに来たことがあると告げている。だが、思考は白濁し、記憶は塗り潰されていた。あの女によって、精神の根幹をバグらされたかのように。

背筋を這い上がる静かな恐怖に耐えながら、トオルはおぼつかない足取りで歩き出す。

この場所には奥行きも距離感もない。空間そのものが自分の感覚を嘲笑っているかのように平面的で、非現実的だ。浮遊感と吐き気に抗いながら、数分間、ただ真っ直ぐに進んだ。

何もない。

文字通り、何も。

だがその時、足先が「何か」に沈み込んだ。

「え……?」

視線を落とすと、そこには大きな水溜まりがあった。

ドロリと濁った液体。この暗闇の中では、それが何なのか判別することすら叶わない。

トオルはゆっくりと腰を落とし、指先でその液体に触れてみた。

「……黒いけど、水、なのか……?」

「いいえ」

背後から、女の声が響いた。

鈴の音のように澄んだ、穏やかな声。だが、そこには生物としての体温を感じさせない、不自然な響きが含まれていた。

「それは水ではないわ。その場所にある液体は……あなたがこれから取るであろう『選択』の結果よ」

トオルの全身に、総毛立つような戦慄が走った。

「選択……? 待てよ、あんた誰だ?」

勢いよく振り返る。

そこには一人の女が立っていた。

闇の世界と残酷なまでにコントラストを成す、優雅な白いドレス。細い肢体を包むその布地は、剥き出しの肩と首筋を強調し、神々しさの中にどこか不気味な非現実感を漂わせている。

トオルは知る由もないが、それは以前出会った「彼女」とは別の存在だった。

「私はあなたの潜在意識が見せている投影に過ぎないわ」

女は平然と答える。「これにもなれるし……これにも」

女の輪郭が歪んだ。

その肉体は、見えない意志によって捏ねられる粘土のように変形していく。レミの顔、ユキの姿、そして彼女の両親……。

トオルは思わず後ずさった。

「なっ……なんだよ、それ……。潜在意識って、どういう意味だよ!?」

「潜在意識というよりは……あなたの魂に紐付けられた存在、と言うべきかしら。あなたを『目的』へと導くためだけに造られた存在よ」

「目的? 俺の魂に紐付けられた……?」

女は、解読不能な表情でトオルを見つめた。

「多くは語れないわ。あなたはもうすぐ目を覚ます。ただ一つ、警告しておくわ……。冒険者の道を選びなさい。そうでなければ、あなたは後悔することになる」

トオルは自嘲気味に鼻で笑った。

「後悔? 冗談だろ。俺は弱えんだよ。そんな真似をしてみろ、すぐに死ぬに決まってる」

「ええ……あなたは弱い。それは事実だわ」

女は否定せず、淡々と言い放った。

「けれど、それでも『彼女』はあなたを選んだ。少しは自分を信じてあげたらどうかしら?」

女が一歩、トオルへと歩み寄る。

「……これだけは言っておくわ。私はあなたの監視役であると同時に、あなたと彼女を繋ぐ『架け橋』。二人をリンクさせるためだけに生み出された、人工の魂なの」

トオルの鼓動が激しく打ち鳴らされる。

「誰の話をしてるんだ? その、さっきから言ってる『女の子』ってのは一体誰なんだよ!」

女はしばし沈黙し、

「説明しても無駄よ。目覚めた時、あなたがこれを覚えているかさえ怪しいのだから」

その声に、初めて悲しみの色が混じった。

「……彼女はね、最も愛した者たちに裏切られたのよ。守ろうとした者たちのために全てを捧げ、その末に背中を刺され、あの化け物共によって封印された……。そんな、哀れな存在よ」

再び、静寂が降りる。

トオルは足元の水溜まりを、もう一度見下ろした。

……それはもう、水には見えなかった。

血だ。

悍ましいほどの、鮮血。

数人分の人生を煮詰めたような、圧倒的な質量。まるで四つの命がそのまま溶け出したかのような、暗い反射。

その時、トオルの中の困惑は、純粋な「恐怖」へと変貌した。

これまでで最も長い章です。気に入っていただけると嬉しいです。

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