心臓を凍らせるほどの美
「平凡な朝、懐かしい痛み、そして世界は反転する。」
17歳のトオルにとって、その日はいつもの「遅刻ギリギリの朝」から始まるはずだった。
全力で自転車を漕ぎ、音楽を聴き、学校へ急ぐありふれた日常。
休憩時間、元恋人・ブリサとのぎこちない再会と、彼女からの謝罪。
少しずつ動き出した関係の中で、トオルを包んだのは温かな感情ではなく――突如発生した謎の「黄色い光」だった。
目を開けた彼が立っていたのは、学校でも地球でもない、無限の闇が広がる虚空。
孤独と絶望の中、溢れ出す過去のトラウマ。
そして、泣き崩れる彼の前に現れたのは、圧倒的な「美」と「恐怖」をまとった黒いマントの女性だった。
彼女は何者なのか? そしてトオルの運命は――?
彼女はそこに立っていた。
黒いマントを身にまとい、その布は彼女の身体の優雅さを覆い隠していた。
しかし、その姿から放たれる恐怖のオーラは、俺の心を締め付け、息が詰まるほどだった。
彼女は何も話さなかった。それでも、すべてを知っていると分かった。
――怖い。
――俺はどうすればいい?
――この状況で、何ができるんだ……。
まるで作り物の舞台のように、その記憶――あるいは幻覚は、徐々にぼやけていき、
突然、耳障りなアラーム音にかき消された。
スマホが鳴っている。
画面には午前7時08分、そして未確認のアラームが10件。
「……うげっ、今のは何だ?」
全身が汗でびっしょりだった。
冷え切った表情のまま、枕元で鳴り続けるスマホの音に苛立ち、
まるで宿敵を倒すかのように勢いよく手を伸ばした――
とはいえ、壊すつもりはなく、ただ乱暴につかんだだけだ。
画面を見た瞬間、表情が凍りついた。
恐怖は一気に増幅し、焦りへと変わる。
細められていた目が、大きく見開かれた。
「――――7時08分!?
遅刻する!!」
ベッドから跳ね起きた瞬間、急に立ち上がったせいで血圧が下がり、
倒れそうになったが、なんとかベッドの背に掴まって耐えた。
(あと37分しかない……。
なんでこんなに汗かいてるんだ。あの夢のせいか?)
数秒――長くても10秒ほどで落ち着きを取り戻し、
トオルは廊下を滑るように走って浴室へ飛び込んだ。
シャツを脱ぎながら鏡を見る。
少し自惚れが混じった視線だったが、事実として体格は悪くない。
これまで様々な活動やスポーツをしてきた成果だ。
17歳にして一人暮らし。
14歳の時、両親を事故で失った。
その直後、恋人にも振られ、世界が崩れ落ちた。
だが、父の旧友が彼を哀れみ、住む場所を与えてくれた。
無償ではなく、家賃を払う条件付きで。
さらに仕事も紹介してくれた。管理業務だけで、給料は立場の割に高かった。
15分後、シャワーを終えたトオルは制服に着替え、スマホを見た。
「……7時30分!?
いつの間にこんなに……!」
慌てて靴下を履き、スニーカーを履く。
7時32分。部屋の電気を消し、愛用の自転車へ向かった。
何度も彼を救ってくれた、最高の相棒だ。
イヤホンをつけ、
「Cartas sin marcar」を流しながら、
風のように学校へ向かう。
学校までは遠く、徒歩なら50分。
だが自転車なら10分。
7時43分――ギリギリ。
しかし、すでに門は閉まっていた。
旗揚げを待つしかない。
音楽を大音量で流し、小さく口ずさむ。
♪
Ella es la canción
Que tantos años yo busqué
Ella es un banco de arena
Que acaricia el mar y a los abismos del amor
Ulises baila con sirenas
♪
(神様……長すぎる)
ようやく門が開き、
EETN2に入る。
自転車置き場で友人に挨拶し、教室へ向かった。
―――
一コマ半が終わり、チャイムが鳴る。
休み時間。
眠い。
だが、それ以上に――腹が減った。
(ペベーテ食べないと死ぬ……。
金持ってきててよかった……
誰だよ“フライされた”とか言うやつ……)
心の中で愚痴りながら、キオスクへ向かう。
混雑に焦りつつも我慢し、
ペベーテと小さなバッジオを購入。
ベンチに座り、周囲を眺めながら食べていると――
「こんにちは」
明るく、元気な声。
優しく、女の子の声。
振り向くと、彼女がいた。
好奇心から、苦味へと変わる表情。
嬉しくない――でも、少しだけ。
「……こんにちは、ブリサ」
眉を上げ、皮肉めいた笑み。
「その顔なに?
元気かなって思って」
くすっと笑うブリサ。
「まあ、元気……かな」
肩をすくめる。
「また遅刻?」
「まあね。
シリーズ見てたらさ。
説教しに来た?」
「もっと責任感持ちなさい。うんうん」
だが、彼女の声色が変わった。
「……それだけじゃない。
最近色々めちゃくちゃだったでしょ。
過去のこと、やり直したくて……」
トオルは分かった。
彼女は本気だった。
「……過去は過去だ。
許すよ、ブリサ」
十分ではない。
それでも、そう言った。
「ありがとう……本当に、ごめん」
笑顔が戻る。
「久しぶりだね。
食べる?」
ペベーテを差し出す。
彼女は恥ずかしそうに受け取った。
「ありがとう、トオル。
おいしい!」
勢いよく食べる姿に、思わず笑いそうになる。
「ねえ、トオル」
「ん?」
「今日の午後、実習のあと――」
声が遠ざかる。
「……え? 聞こえない」
突然、彼女の顔が黄色い光に照らされた。
(……え?)
光は――俺から出ていた。
時間が、止まる。
「何が……起きてる……?」
「ブリサ!? 聞こえるか!?」
返事はない。
彼女は時の中で静止していた。
光は強くなり――
世界が消えた。
――――
「……」
闇。
身体はある。
声は出ない。
(……ここは……?)
そして、トオルは気づく。
――彼は、もう地球にはいなかった。
確かに、トオルはもう自分の学校にはいなかった。
いや、それどころか――トオルは地球という惑星そのものに、もはや存在していなかった。
彼はしばらくの間、何もない虚空へと歩き続けた。やがて目が暗闇に慣れ、足元の様子が少しずつ見えるようになる。
「……うーん、地面みたいだけど、真っ黒だな。いや、土じゃない……どちらかというと、砂に近いか」
彼はしゃがみ込み、地面に触れてみた。
それは海辺の砂のようにさらさらとした感触で、指に少し付着したが、すぐに払い落とした。
トオルはまた歩き続けた。
何分も、ただひたすらに。
次第に疲労が体を襲い、恐怖が胸に広がっていく。
誰の姿も見えないことが、わずかな安心にはなったが、それでも不安は消えなかった。
――戻りたい。
ブリサの話の続きを聞きたかった。
家に帰りたかった。
そんな思いが次々と頭を埋め尽くし、彼の心を押し潰していく。
やがて、両親のことを思い出し、精神状態はさらに悪化していった。
ブリサとの出来事。
何もかもを捨てて、彼を置き去りにし、別の男を選んだ、あの日。
両親の事故。
まだ幼かった彼と両親を、冷たい言葉で蔑み続けた親族たち。
なぜ、今になってこんな記憶ばかりが蘇るのか。
理解できないまま、トオルの目から涙が溢れ出す。
喉が締めつけられるように痛み、もう耐えられなかった。
彼は声を上げ、何度も、何度も、崩れ落ちるように泣いた。
「……あいつらは俺たちが苦しむ姿を見たかったんだ。
あんな言葉だけじゃ足りなかったのか……命まで奪いやがって。
呪ってやる……地獄で腐り落ちろ……!」
彼は親族たちを罵った。
両親が死んだのは、すべて彼らのせいだと信じていた。
その瞬間、記憶が完全に開かれた。
自分がしてしまった過ち。
他人から受けた仕打ち。
苦しみ、そして誰かを傷つけてしまった過去。
すべてが一気に押し寄せ、彼の心は完全に砕け散った。
泣き叫び、嗚咽を漏らす。
それは確かに地獄のような時間だったが、同時に――
長年押し殺してきた感情を、吐き出している時間でもあった。
「……もう泣かないで、私の子」
「……?」
どこからか、声が聞こえた。
トオルははっとして周囲を見回す。
――誰かがいる。
無防備な自分。
甘く優しい女性の声だったが、油断はできなかった。
「……誰だ?」
周囲を見渡しても、誰の姿もない。
「…………」
返事はなかった。
涙に濡れた顔のまま、熱を帯びた目を逸らさず、トオルは声のした方向を探し続ける。
「そんなに泣いて……お願い、もう泣かないで。
あなたが苦しむのを見るのは、私も辛いの」
再び声が響いた。
その時――彼は、ついに“彼女”の姿を見た。
黒いマントを纏った女性。
その優雅な身体は布に覆われ、顔もはっきりとは見えない。
見えるのは、かすかに光を帯びた、繊細で美しい唇だけ。
どこから光が差しているのか分からない。
それでも闇の中で、彼女の白磁のような肌は、まるでおとぎ話の存在のように淡く輝いていた。
――なのに。
彼女から放たれるのは、圧倒的な恐怖の気配。
トオルの魂は震え、理解できなかった。
これほどの美しさが、なぜこんなにも恐ろしいのか。
彼は耐えきれず、その場に膝をついた。
何かを言おうと口を開いたが――
言葉は、一つも形にならなかった




