第2章 危険の本質と規格の背景
あとがき
この章を書いていて、ひとつ強い違和感が胸の中に残った。
それは、安全がまるで「お金で買える特権」のように扱われているという現実だ。
車を買えば、自分の身は守られやすくなる。
大きく、重く、高性能であればあるほど、自分はより安全になる。
だがその安全性は、同時に“外側の誰か”の危険へと転化されていく。
これは資本主義社会の構造そのものだ。
お金があれば安全が手に入り、
お金がなければ生身のままで危険にさらされる。
そんな仕組みが、ごく自然なものとして受け入れられている。
しかし、誰もそれを口にしない。
「お金を払った側がより安全である」という当たり前の事実を、
社会は公然とは語らない。
まるで、触れてはならない暗黙のルールであるかのように。
安全という言葉は、本来すべての人間に平等であるべきだ。
だが現実は、その安全は商品であり、
買える者と買えない者の差が、
そのまま命の重さの差として現れてしまう。
そうした構造があるにもかかわらず、
私たちはその矛盾に気づかないふりをしているのではないか。
そして気づかぬふりをすることで、
ますます誰かの危険は見えない場所へ押しやられていく――。
安全が幻想であるとすれば、では現実の危険はどこに潜んでいるのか。
その答えは単純で、そして不都合だ――危険は常に「外側」に向かって開いている。
自動車は、乗っている本人にとっては強固な金属の殻に守られた移動装置だ。
シートベルト、エアバッグ、衝突安全ボディ、各種センサー。
乗る側にとっての安全は、年々強化されている。
だが、その安全性が高まれば高まるほど、車は「外側」に対して鈍感になっていく。
歩行者、バイク、自転車――車を取り巻く存在は、どれも生身のままだ。
体重数十キロの生物が、1~2トンの金属塊と衝突したとき、その結末は誰が見ても明らかだ。
安全に守られているのは車の中の人間であり、危険にさらされているのはその外側の人々だ。
それでも社会は、車を「安全な乗り物」として扱う。
安全という言葉が、あたかも周囲を含めた総合評価であるかのように語られる。
しかし実際には、「安全」と呼ばれているのは、車を運転する“当事者だけ”に向けられた制度的なラベルに過ぎない。
バイク通勤は禁止され、車通勤は許可される。
その理由は「事故が起きたとき、バイクは本人が死ぬから危険だ」という考え方だ。
だがこの論理は、裏返せば「車は本人が死ににくいから安全」というだけであり、
車が周囲を傷つけるリスクについては、ほとんど考慮されていない。
技術の世界でも同じ矛盾が存在する。
スマホのバッテリーは爆発を防ぐための保護回路が搭載され、
太陽光発電には漏電防止と逆潮流保護が義務付けられ、
EVは衝撃に応じて自動遮断されるよう設計されている。
どれも「基準に則っているから安全」とされるが、
実際にはその基準の裏側に、火災、感電、爆発、死亡事故の歴史が隠れている。
規格とは、危険があったから作られる。
安全装置とは、死者が出たから追加される。
つまり「安全の証明」は、「その前に犠牲者が存在した」という証明でもある。
だが、この現実を多くの人は忘れてしまう。
車を運転する者は「自分は安全」と思い、
スマホを使う者は「規格があるから大丈夫」と信じ、
EVを選ぶ者は「最新技術だから安心だ」と考える。
その一方で、周囲の生身の人間は常にむき出しの危険に晒されている。
安全は“中にいる者”を守る仕組みであり、
同時に“外にいる者”を危険にさらす構造でもある。
この章で伝えたいのは、ただ一つだ。
安全は、常に誰かを犠牲にする構造の上に成り立っている。
その危険性と矛盾を理解しないまま、私たちは「安全」という言葉を使い続けてしまう。
だが、その認識の歪みが広がるほど、加害の意識は薄れ、
危険は見えない場所で静かに積み重なっていく。
そしてその積み重なりが、人々の心理にどのような影響を与えるのか。
――それを見つめるために、次の章へ進む。




