序章:この考えは正しいのだろうか・・・?
これほどまでに理不尽なことが、社会や個人の思考の中に深く浸透しているのかもしれません。
私たちは「安全」という言葉の下で生きています。学校でも職場でも、道路でも、家庭でも、技術や制度によって安全は保証されていると信じ込まされています。しかし、その「安全」は、決して絶対的なものではありません。むしろ、外部にいる生身の体は常に傷つきやすく、死にゆく存在であることを、ほとんどの人が意識しません。
社会は巧妙に、人間の脆弱さや危険性を隠し、安全という枠の中に押し込めてきました。そして、その枠組みの中で、私たちは自分が守られていると思い込みます。しかし一方で、この同じ社会では、人を傷つけたり、殺す可能性を内包した道具や環境が、日常生活の中で当然のように流通しています。自動車は便利で安全とされ、EVやスマホも規格に守られていると思われていますが、その裏には死傷リスクが常に潜んでいます。
安全の幻想は、しばしば加害の構造を覆い隠します。社会的な規範や技術の制御に守られている強者は、自分が加害者になりうるという現実を認識しにくくなります。その結果、交通や技術、制度において、無意識のうちに他者の命を脅かす行為が許容され、加害の責任が希薄化してしまうのです。
この本は、現代社会が作り出した「死と隣り合わせの安全」という矛盾を見つめ、車やバイク、EV、スマホ、太陽光発電など、日常の中に潜む危険とその制御の仕組みを考察します。安全とは決して「絶対」ではなく、危険を前提にした制御で成り立つものであり、その制御が失われたとき、命は容易に奪われる――その現実を直視することが、この序章のテーマです。
あとがき
この物語は、一個人のどうしようもない感情や、胸の奥に沈んだ違和感から構成されています。
私は歩行者を傷つけにくいという理由でバイクに乗っていますが、皮肉にも、車から命を奪われるリスクはむしろ高まっているのかもしれません。それでも、いまの自分にとっては精神的に最も納得のいく選択だと思っています。
もし自分が誰かを傷つけてしまったら――その重さに耐えられないだろう、と考える一方で、逆にどこかで「それでも人は平然と生きられてしまうのではないか」という冷たい現実も感じています。
その二つの考えは矛盾していて、自分でも説明がつきません。ただ、その矛盾の奥には、おそらく“どうにもならないもの”に対する静かな諦めが潜んでいるのだと思います。
安全とは何か。危険とは何か。
その曖昧な境界線と向き合う中で浮かび上がった、やりきれない感情の断片を、この序章のあとがきとして記しておきます。




