7月11日 〜ひーちゃんの日記〜
≠この作品は現実か夢か、登場する人物達に繋がりがあるのか?
──ん……朝になった……?
閉じた瞼に、眩しい光が差しているのがわかる。
──いま、何時なんだろう……。
時間の感覚は、とっくに麻痺していた。
毎夜、毎夜。
毎日、毎日……比奈の囁きが脳裏に響き、
私から睡眠や食事といった、生きる上で必要なルーティンを奪っていた。
ひたすらキーを叩き、アイツの──いや、高梨龍一の半生を綴り続けている。
体力の限界を超えたのだろう。
私は、いつしか眠りに落ちていた。
──うっ……背中が痛い……。
体が覚醒を始め、全身の五感が少しずつ戻りつつある。
──ん? この香りって……。
鼻腔をくすぐるこの香り、磯の香り?
えっ、私は海に居るの?
そして、聞こえてくる潮騒。
間違いない。私は今、海に居るんだ。
眩しい光に耐えきれず、静かに目を開いた。
すると、真っ青な夏の空が目に入る。
心地よい優しい海風が頬をなでていく。
遠くから、夏の到来を告げる蝉の鳴き声が忙しなく響いていた。
どうやら、海岸沿いの岸壁で寝転んでいるようだ。
私はゆっくりと体を起こし、周囲を見渡した。
どこかで見たような、小さな港の岸壁。
小型の漁船が並び、波を受けて船体がゆったりと揺れている。
目の前には、エメラルドグリーンに輝く海が広がっていた。
透明度が高く、水底の様子が手に取るようにわかる。
遠くには、大きな半島が霞んで見えた。
──何だろう……この、どこか懐かしい感じは……思い出せない。
そんなことを考えていると、岸壁の下から声を掛けられた。
「ひーちゃん、またそこで昼寝してたの?
日焼けして真っ黒になっちゃうよ?」
声のする方向へ体を向けると、セーラー服を着た女の子が自転車に跨ったまま、
こちらを見てニコニコと微笑んでいた。
「なっちゃん、部活終わったの? 今帰り?」
考える間もなく、口が勝手に動いた。
──え? ちょっと待って、ひーちゃん? 私が……ひーちゃんなの?
それに今の言葉……自然に“なっちゃん”に返事した……?
え? なっちゃん?……なっちゃん……?
私は可奈だったはず。
いや、違う……これは記憶だ。ひーちゃんの記憶を見せられているんだ。
ひーちゃんになった私は、岸壁から飛び降り、なっちゃんへ駆け寄った。
「なっちゃん、帰ろう。」
なっちゃんの脇に立ち、顔を覗き込むように声を掛ける。
なっちゃんは自転車を押しながら、「帰ろうか」と笑顔で答えてくれた。
ふと思い出したように、なっちゃんが尋ねてくる。
「ねぇ、ひーちゃん。
三年の長谷川先輩に告られたんでしょ?
付き合ってんの?」
唐突に聞いてきた。
「あー、それね。断ったよ。
私、いまはそういうの興味ないし。
何しろ大きな夢があるからねっ!」
私は胸を反らして、えっへんのポーズをとる。
「まぁ、ひーちゃんは断ると思ってたけどね……。
でも勿体ない気もするよ? 長谷川先輩って、けっこう女子の間で人気あるからさぁ。」
なっちゃんは苦笑いしながら、やれやれといった表情を見せる。
そして、続けて言った。
「あれでしょ? ひーちゃんの夢って、小説家になるってことだよね?
確かにひーちゃんの書くお話は面白いけどさ、
たった一度しかない十七歳の夏を一人で過ごす気?」
なっちゃんは“考え直しな?”みたいな顔で私を見つめている。
──なるほど、ひーちゃんは十七歳なんだね。
そして、小説家になりたいのか……。
あれ……どこかで聞いたような気がする……。
ひーちゃんは、なっちゃんの顔をまじまじと見ながら答える。
「なっちゃんはそう言うけどさ、何も恋だけが青春じゃないでしょ?
私は小説に青春かけてるんだよ。
それに、今書いてるお話、投稿サイトのランキングがけっこう良い感じなんだよ?」
ひーちゃんである私は、なっちゃんに意気込みを語って聞かせる。
「……それに、私にはなっちゃんがいてくれるから……。」
ひーちゃんは、ぽつりと呟いた。
「ん? ひーちゃん、何か言った?」
眩しい笑顔で、なっちゃんが聞き返す。
ひーちゃんは「なんでもないよ」と明るい笑顔で答えた。
そんな他愛もない話をしながら、なっちゃんと並んで歩く。
歩きながら、私は思考する。
──比奈は私に何を見せたいの?
ひーちゃん……この名前を聞くと、どうして胸が騒ぐの?
比奈、あなたは私の女神さま。
今この女の子を私に見せることが、あなたが作ろうとしている世界に重要なんですね?
私はあなたの御使であり、伝道師です。
どうか、もっと神のご意志をお見せください。
一瞬、目の前が暗くなる。
そして場面が変わり、ひーちゃんは机の上のパソコンを見入っていた。
画面には、SNSサイトのダイレクトメッセージのようなものが映っている。
ひーちゃんの体は小刻みに震え、心臓の高鳴りが私にも伝わってきた。
ひーちゃんは画面を凝視したまま、ぽつりと呟いた。
「うそ……でしょ?」
画面に表示されたメッセージには、こう記されていた。
猫屋様、はじめまして。
株式会社スターゲートパブリッシング、ノヴァゲート文庫編集部の高梨龍一と申します。
──高梨龍一!えっ?高梨龍一?
何故、この名前が出てくるの?
おかしい、何かがおかしい……
私の頭がパニックに陥った。
記憶が歪んでいく。
透明な水の中に赤と黒の絵の具を垂らしたように、
私の記憶と比奈の記憶が混ざり合う。
比奈が抱く高梨龍一への想い。
私とは正反対の、懐かしく、ほんのりと温かい感情。
これは……なんだ?
私にも覚えがある温かい想い……。
いきなり、激しい頭痛が襲う。
いや、頭痛ではない。比奈が私の詮索を拒否しているのだ。
──あなたは、考えなくていい。
何も考えず、何も知ろうとしなくて良いのです。
可奈、あなたは私の伝道師。私の見せる記憶を、ただ受け入れなさい。
──ああ、比奈さま……申し訳ありません。
私はあなた様の忠実な下僕にも関わらず、余計な詮索をしました。
どうかお許しください。
私にとって、比奈の囁きはもはや麻薬と化していた。
比奈が私の耳元で囁くたび、私は快楽に飲まれ、従順な御使となるのだった。
ダイレクトメッセージの内容は、こんな感じだった。
ひーちゃんが投稿した小説に感銘を受けた高梨が、著者のプロフィールを確認した。
──これほど完成度の高い物語を書くなんて……どんな人なんだろう……。
そして、著者が現役女子高生であり、
将来は小説家になりたいという夢が、あどけない言葉で綴られていた。
高梨は衝撃を受けた。
プロフィールに書かれた自己紹介と、投稿された物語のギャップに。
とても十代の女の子が書いたとは思えない人物描写。
叙情的でありながら、時に鋭く、時に平気で人の心を逆撫でする文体。
伏線を幾重にも張りながら、気持ちが良いほど見事に回収されていく構成。
まるで老練な職業作家が書いたと思えるほどの完成度だった。
──これを書いたのが女子高生だなんて……。
とりあえず、どこかに取られる前に、うちで囲わないと。
高梨は、すぐに文庫化検討会議にかけることを決めたようだ。
いかに、ひーちゃんの物語に衝撃を受けたのかが、興奮気味に書かれていた。
ひーちゃんである私は、彼女がメッセージを読み進めていく過程を見守る。
やがて、ひーちゃんの目から大粒の涙がとめどなく流れ始めた。
その感動の波が、私の心をざわつかせる。
──ひーちゃん、そいつは……そいつは……。
再び激しい痛み。比奈の無言の威圧だ。
痛みに耐えながら、再び観察を続けた。
ひーちゃんは、慌ただしくキーを叩き、高梨に返信している。
「読んでくださって大変嬉しいです。」
──十七歳の女の子が一生懸命、たどたどしく想いを綴っている。
最後に「ありがとうございます」と入力を終えると、ひーちゃんは大きく息を吐いた。
「ふぅ……感謝の気持ちと、私の想い……ちゃんと伝わったかな?」
頬を赤く染めながら、ぽつりと呟く。
返信はすぐに来た。
文面には、ひーちゃんの物語の構成の素晴らしさ、多彩な表現、登場人物の考察など、
最大限の賛辞が並んでいた。
「十代の女性が書いたとは思えない、素晴らしい物語です。
ぜひ、文庫化に向けて一緒に頑張りましょう。
あなたは本当に素晴らしい物語を紡ぐ創作者です。」
その言葉で、すべてが報われたのだろう。
「……一緒に頑張りましょうって……嬉しい……嬉しいよぉ……。」
ひーちゃんは、再び静かに嗚咽を漏らした。
そして、自分を理解してくれた編集者──高梨龍一に、淡い気持ちを抱いたのだ。
ひーちゃんは椅子から立ち上がり、窓を開け放つ。
夏の夕暮れの空。ひぐらしの鳴き声が、ひーちゃんの火照った体を静かに癒していく。
窓辺に立ち、静かに佇むひーちゃんの後ろ姿。
私は、ますます胸がざわつく。
──どうしてこんなに胸が騒ぐの?
そして、どうしてこんなに悲しいの……?
ひーちゃんの後ろ姿が、ぼやけていく。
私は泣いていた。
なぜ、ひーちゃんの後ろ姿を見て涙が出るのか。
いや、ひーちゃんのことを想うと、こんなにも泣けてくるのか……。
私は声を上げて泣き出した。
涙が止まらない。
長い間、心に空いていた穴が、少しずつ満たされていくのを感じた。
私はまだ気付けなかったのだ。
いや、あまりにも悲しすぎて、忘れたふりをしていたのかもしれない。
──ひーちゃんと私の、懐かしい思い出。
そう。
猫屋比奈と桜井可奈の、突然終わってしまった青春の日々を。
≠この作品は、ある少女の悲劇がきっかけだ。




