第三章「腐乱先生」5
五、
子供のころにおいてきた
思い出の中に両手をつっこみ
誰かの真実を探ろうとしても
きっと落っことした金魚鉢のように
どこかへかしこも水びたしに
なってしまうから
そっと気兼ねして
そっと気が遠くなって
この湖のほとりの
朽ちた電柱のむだのように
静かに狂いたい
感電死したあのときを
死ぬまで忘れない と
あなたの棺おけの
隅っこを飾る造花のひとつ
年老いてわかったことは
山ほどあるけれど
地すべりの恐怖におののく先を
知ることはいまだにないのです
生き埋め愛
化石発掘 誰も知らない
見つからないままこの僕は
あまりにさびしくそこにある
子供のころにおいてきた
思い出の中に両手をつっこみ
あなたの真実を探ろうとしても
きっと朽ちた電柱のムダ
ダム大ムダ
決壊と水一滴も
泣きなさい
(「ダム大ムダ」 作 ティロットン)
「それ、よこしなさい」
ティロットンは声を震わせドス低く脅すように言ったが、弟子はへらへらしたまま手に持つものを振り上げた。
「これのこと? どう見てもなにかを封印してあるよね、この札で……」とつかんで軽く引っ張ると、先生は恐怖の叫びをあげた。
「やっやめなさいっ! それに触らないで!」
「やっぱ、はがすとまずいんだぁ、ふうん」と、まだ紙の端を指先でぺらぺらめくるので、相手はついにキレかかった。
「あ、あんたねえ、人を苦しめて楽しいの?!」
「うん、楽しい」と無邪気に笑う。「特に先生だと、反応がおもろくて、いじめがいがあるんだよねえ」
ティロットンはぞっとしたが、ビビってる場合ではない。それに奴のこれは、ある程度知っていたことだ。
「とにかく、なにも言わずにその人形をわたしなさい」と手を出す。「わたせば、なんでも願いをかなえてあげる。すぐに卒業させてもいいわ」
「まぁ、魔法はあらかた覚えたし、もうこのへんでオサラバしてもいいかな、とは思ってたんだけどぉ」と、あごに指をあて天井を見て考えるので、師匠は目が輝いた。
「い、いいわよ、卒業証書あげる! だからそれを……!」といきなり寄ってくるので、人形をさっと後ろに引っ込めて身を引く。
「おーっと、そう簡単には渡せないね」
そして、すぐ出られるようドアのあたりまで下がり、
「事情くらい説明してよ。いちおう弟子なんだからさ」
「言ったでしょ、実験に参加したのよ。眠っているあいだに、魔力を増幅させる新薬を投与されてね」と暗い目で足元を見る。「で、そのう、大失敗して……」
「死んじゃった、と」
「その前に、あわてたマリーが……友達ね、科学省の……その、彼女が、念のために呼んどいた魔道士に頼んで、私の体に魔法をかけたの。薬の作用で腐敗が猛スピードで進んだそうだけど、現状維持と回復の魔法を何度も重ねて、やっと元通りの肉体にしてくれたわけ。
私はなにも知らずに目覚めて、『実験はなんとか上手くいった』とか騙されて。しばらくはなんでもなかったけど、その薬はことのほか強力だったみたいで。いきなりガーッと腐敗状態に戻っちゃって」
「へえええー、どんな? どんな?」
好奇心いっぱいに聞くので、けげんな顔になる先生。
「な、なんでもないわよ、たんに腐ったってだけよ」と、口惜しそうに横目を暗い壁のほうへ走らせる。「体は上っ面が戻ってただけで、実際はとうに命が尽きていたわけよ。まったく、こんな不幸な人間、ほかにいないわ」
「それ見てみたいなぁ」
「えっ」
嫌な予感がして見ると、弟子は今にもよだれたらしそうな、しかし邪悪ないたずら小僧の顔で、こっちをじっと見つめている。
「先生の腐敗状態。さぞおもろいんだろうなぁ……」
「なにバカ言ってるの! いいから、それをおよこし!」と、キレた悪役令嬢みたくなって手を出す。「その封印で、かろうじて今の状態をたもって……はっ」
ジェノスのにやにや顔に気づき、ぞっとして後ずさる。
「ふうん、すると……この札がないと、先生、腐っちゃうんだね……」
「そっ、そうよ! わかったら、はやく!」と今度は両手。「師匠が困ってるのよ! 弟子なら助けなさいよ!」
「なんで、あんたなんか助けなきゃなんないのさ」
急に冷たく言われ、絶句するティロットン。が、このままでいるわけにはいかない。あわててまくしたてる。
「い、今までいろいろ教えてあげたでしょう? そりゃ修行は厳しかったわよ、でもそれはあなたが憎くてやってたんじゃない! あなたの成長がうれしくて、それでつい……」
視線がまるで変わらないので、さらにあわてた。だが、しゃべるほどに相手は汚いものでも見るような目つきになった。
「わ、わかったわ、厳しすぎたことは謝ります! ごめんなさいっ!」と頭を下げる。とにかく必死だ。なりふりかまっていられない。「罰金でもなんでも払うし、そ、そうだ、奴隷になってもいいわ! あなたの身の回りのお世話でも、なんでもする! だ、だから」
「先生、私、修行のことで恨んでなんかいないよ?」
きょとんとする女に、目を細めるジェノス。
「忘れた? まあささいなことだし、忘れるよねえ、そりゃ……」
「あ、まさか」と目を丸くする。「踏みつけたご飯を食べさせたこと? あ、あれは……」
「ピンポーン! よく覚えてたねえ!」
指さして、口がニタアと笑うが、目はぜんぜん笑っていない。いまさらだが、この時代に「ピンポーン」はない。
「あのことは死ぬまで忘れないよ。あの屈辱を何倍にもして返してやる」
「待って、ちがうのよ! あれは、あなたのためを思って」
「そうだよねえ、私の生意気な鼻っ柱を折って、社会に適応する良い子にしたろうと、親切でやっただけだよねえ」
目が悪魔のようにギラギラと光るジェノス。口だけが変わらずニヤけている。
「そのよけいなお世話のために、あんたは私の繊細な心を深く傷つけ、完膚なきまでにぶっ潰した。さぞ満足したろ、サド先生!」
「お願い、どうか話を」
「でも、一番許せないのは……」
ジェノスの眼光が、いきなり黄金色を放ったように、ティロットンには見えた。
「お父さんとお母さんを、毒親呼ばわりしたことさ!!」
「だっ、だって、あれは」と必死に言い返す。「仕方ないでしょ! 誰がどう見てもまともじゃないんだから! どこの世界に、人を殺した娘をべたほめする親がいますか!」
「へえー、息子ならいいんだ」
「ふざけないで! 私はねえ、あなたのことを案じているから……」
「あーあ」
わざとでかいため息でしゃ断し、細い目をあさってのほうに向ける。
「束縛と教育を都合しだいで使い分ける。教師にはよくある手だよ。その自覚は微塵もなさそうだが。お母さんがこいつを見たら、きっとかわいそうな奴だと上から哀れむだろうな。天下のミケーネ母さんなら……」
「ちょ、ちょっと待って!」
いきなりぎょっとして指さす。
「い、いま、ミケーネって言ったわね?!」
「うん」
少女は究極のドヤ顔で誇らしげに言った。
「史上最悪の極悪魔女、ミケーネ。私の母さんだよ」
ティロットンは凍りついた。
ミケーネ。それは今から百年前、魔女がまだ人々から恐れられていた時代にヨーロッパじゅうを荒らしまわった、伝説の凶悪魔女である。
今でこそ魔女は一般事業に大人しくたずさわる、オカルト関係の少し変わった職業、という地位を得ているが、かつては魔女狩りが行われたように、とんでもなく反社会的・冒涜的イメージの存在であり、基本は「悪」であった。今の彼らは、暴力団が犯罪をやめて普通の仕事をしているようなものだ。
中世のキリスト教全盛期には、一般人の貧困層や落ちこぼれのうち生来魔力を持った者たちが、同じく魔法を使うプロに弟子入りすることで、女なら魔女、男は魔法使いや魔道士になり、修行によって増長させた魔力を使って仕事を行っていたが、宗教的に忌み嫌われる闇の力を使うせいで世間から信用されないので、もっぱらマフィアや盗賊団などの、裏家業の汚れ仕事を担っていた。
だが魔女狩りでキリスト教の権威が失墜してからは、徐々に魔女や魔道士が一般の職業と同等にみなされるようになり、こんにちのような国に認められた魔法使いの協会まで出来るほどになったのである。
しかし、そうなる何十年も前の時代。破壊と殺人に特化し、目をつけられたら即地獄行きだと、もっとも恐れられた魔女の大親分がいた。
大魔女ミケーネは、娘のジェノスがつぐ豊富な空色の髪をした、鋭利な刃物を思わせる面長の顔の、常にきつい眼光を放ついちおうは美女のたぐいの女性だったが、貧困からやむを得ずというのが多い中で、彼女だけは自ら進んで魔女になり、趣味と実益を兼ねて、本当に好き好んで人を殺しては金をもらっていた。
主に儀式で呪い殺すのだが、わざわざ出かけていって、魔法でターゲットを直接殺害したりもした。そのうち殺人しか仕事が来なくなった。あとは建造物の破壊とか、雇いの魔法使いによるガードが固くて一般魔女には無理な、権威のある宗教的施設の焼き討ちや、政府の要人暗殺などである。
ミケーネの魔術の腕は最強クラスで、彼女を暗殺しようとした凄腕の魔女や魔道士は、ことごとく返り討ちにあった。また軍事施設の爆破を他国から要請され、いそいそと「出稼ぎ」に行ったこともある。ちなみに彼女の旦那も、子殺しや裏切りを平気でする悪名高い極道魔道士だった。
そんな両親から生まれ育てられた娘が、殺人魔女になるのも当然である。人の死や苦しみ、不幸を心から楽しむジェノスは、明らかに母親の血を引いていた。この極度のサドっぷりは魔女というよりほとんど死神だが、死神だって本来は職業だから、それより酷いといえる。
極悪魔女ミケーネは何十年にもわたり欧州を股にかけて暴れまくったが、前述のようにキリスト教が廃れて魔女から怖さが抜け、一般職として認知されるようになると、「もう私の時代ではない」と、あっさり隠居してしまった。まるでマフィアのボスの晩年である。
その隠れ家のありかは、現在も誰も知らない、娘のジェノスすら知らない。魔女は魔力でほとんど不老不死の寿命を持つうえ、いつまでも若くいられるので、おそらく今も地球のどこかで、そのとがった顔の美女のまま、つつましく暮らしていることだろう。
こんな最悪の魔女が親になれば、子供の殺人をほめるような異常教育をほどこしても不思議はない。というか、しないほうがおかしい。
ティロットンは、ただでさえ蒼ざめた顔が完全にまっしろになった。まさかこいつが、あの恐ろしいミケーネの娘だったとは!
むろん自分が大魔女として認知されるころには、奴のことははるか遠い伝説でしかなく、ただその数々の悪評を耳にしたのみである。が、それは実は遠くはなかった。こんなに近く、すぐそばにそれは「いた」のである。
知らずに弟子にした自分の落ち度だと、今さら後悔しても遅い。こいつの身元を徹底的に調べるべきだったのだ。知っていれば、弟子になぞ絶対にしなかった。
もうだめだ。足がよろけた。
完全に絶望し打ちのめされ、呆然と自分のスリッパを見つめる。
「すっ、すいませんでしたああーっ!!」
いきなりトチ狂ったように叫び、床に伏せって震えながら土下座しまくる。もはや大魔女の威厳はおろか、教育者のかけらもない。
「私がわるうございましたあああー! どっどうか、おゆるしおおおおー! じぇのすさまあああー!」
当然、軽蔑しきった目で鼻を鳴らす弟子。
「なんだよ、てめえの保身のためなら、師匠のプライドも平気で捨てるのかよ。最低だな、あんた」と、人形を目の前に持ってくる。「こんな虫けらにゃ、遠慮は無用だねえ、くっくっく……」
含み笑いに思わず顔をあげると、弟子の指が、人形の顔に貼られた白い札の端をつかんでいる。恐怖におののき、「ぎゃあああ! やめろおおお!」とゴキブリのごとく這ってきたが、到達寸前、ジェノスはぱっと札をはがした。
とたん、相手はいきなり「うっ」と目をむいてびくんと立ち上がり、次の瞬間、なんと口からおびただしい血と臓物をげぼげぼ吐きだした。
「げえええええええー!!」
獣が絞め殺されるような汚らしいうめきを発し、まっかな血でつやつやときらめく胃や腸をずるずる吐き続けて血溜まりに浸かる恩師を見て、感嘆の声をもらす弟子。
「うわぁ、すっげえ」
「げげっ、ぜ、ぜのずう……」と膝をつきながらも、手を突き出して必死に教え子の名を呼ぶ。「ぶ、ぶだ(札)、もどじで……ど、どうが……」
助ける気は毛頭なかったが、戻すとどうなるか知りたいので、また貼りなおしてみた。すると、なんと映像の逆戻しみたいに、吐いた臓物が口に吸い込まれてごくんごくん飲み込み、元に戻ったではないか。
口元から血をたらしてぜえぜえ言う先生を見て、これ以上ないほどに目をきらきら輝かす鬼畜弟子。
「うわー、なにこれー?! おもろー!」
今のが腐敗の状態らしいのだが、腐っているというよりは、ただの人体破裂である。だがジェノスにはそんなことはどうでもよく、ただ面白ければそれでよかった。気づけば恨みも消えていたくらいである。
子供のころに動物や人を殺していたときも、憎くてやったことは一度もない。彼女にとって殺しはわくわくする娯楽であり、人の苦痛と悲しみは、秋風のようにさわやかな悦びであった。
そんなわけで、今度は人形の腹の札に手が行く。「だめえええ!!」と飛びかかったのをさっと後ろにのき、ぺりっとはがす。たちまち先生のシャツの腹部がぐぐっと山のように持ち上がり、ビリリッ! と裂けて、中から口のときと同じく、まっかな内臓がどばどば流れ出た。
「ぐへええええ!!」
うめいて膝をついてのけぞり、口から血をたらして苦しむさまを、けらけら笑って堪能するジェノス。腹のかっと大きくあいた裂け目から、ぬるぬるの大腸や小腸が二種の蛇の大群の絡まるようにずるりずるりすべりだしては、床にたまっていく。のけぞる血まみれの女に、血の海で腸がぎらついてとぐろを巻いているさまは、まさに地獄絵図である。
だが、腐っても大魔女と言おうか、ティロットンの理性のタガは、このとき完全に外れ、とつじょ己の中の野獣が目を覚ました。いきなりがばっと這いつくばり、激痛に狂う身を両手で引きずって、トカゲのように弟子のところへぺたぺた寄っていく。
「じぇのずううう!!」
顔をあげ、ゲロ吐くようなダミ声で叫ぶ。血まみれで髪があごの下までべたりと張り付き、見た目は心霊スポットに現れた幽霊そのものだ。実際、死んでいるから、ゾンビと一緒ではある。
「ぞれ、よごぜえええ!! にんぎやううう!! よごぜえええー!!」
「おっとっと」
ジェノスは楽しそうに後ろに下がり、そのままドアから廊下に出た。バタバタ這ってくる亡霊に人形を向け、「ほーれ」と顔の札をはがす。たちまち「ぐぎゃああああ!!」と口から残りの臓物を吐きちらして悶絶する先生。胃や心臓まであらかた吐き出しても死ねず、ただ死の苦痛にもだえまくる。が、それでも根性でずるずる這ってくる。
「ぜっ……ぜの……!」
「おおー、さすがは先生だねえ。じゃあ、これは?」
にやにやして人形の右腕の札を取る。
「ひぎゃああああ!!」
叫びとともに先生の右腕が裂けて血が派手に吹きだし、腕の骨すら何本か飛び出して床にぽろっと落ちた。激痛に腕を押さえて丸くなる。
「ひいいいい!! ひぎいいいい!!」
歯噛みして泣きまくる悲惨な姿も、ジェノスにはうれしいおかずでしかない。「イイよおー、イイよおー!」と、ヌード写真を撮るカメラマンのように赤ら顔でニヤつき、今度は左足の札。ぺりっ。
「ぎゃはあああーっ!!」
絶叫しのけぞり、左の太ももが大きく裂けて血がだらだら、これも同じく骨がずぼっ、ずぼずぼっ、と飛び出して床に撒き散らされる。
無様にひっくり返って全身を引きつらせ、裂けた左足は特に激しく痺れる。もがくように指が閉じてはひらく形のいいつま先まで、感電したようにびくびく痙攣する。ジェノスは顔がほころんだ。すごくイイ眺めだと思った。
全部はがしたろうかと思ったがやめて、札を元通りに貼りなおした。戻った先生は、横向きに倒れて、しばらく転がっていた。内臓も裂け目もきれいに消えてはいるが、多少の血は残り、それはコップの水をぶちまけたように冷たい石の床に広がって、その上に寝転んでいるので、発見された惨殺死体みたいである。口からもしたたり、あごまでたらたらと濡らして、吸血鬼のようにも見える。人の血を吸うような妖魔は、見ているほうなのだが。
「……先生、」
妖魔がぽつりと言った。
「死ぬほど苦しいときってふつう、『お母さん』って叫ぶもんだけど……言わなかったね」
「お……ママは……」
暗く押し殺すようにつぶやく先生。横になったまま床をじっと見つめ、恨みがましく続ける。
「呼んだって来ないわ。そうよ、来やしない……。わ、私がどんなに苦しもうが……あ、あの人は、どうせ……ふふふふふ」
自嘲の笑いが静かに響き、ジェノスは真顔だった。先生は観念したように目を閉じた。
「そうよ、毒親だったわ……パパもママも……。愛されてたなんて、みんな嘘……。わ、私は……私なんか……うううう」
両手で顔をぐっとおさえ、泣きじゃくる涙が血にまじって流れる。さっきから家じゅうに満ちている濃厚な鉄のにおいに、とつぜん海の潮のかおりが絡んで、廊下にぱっと大きな花が咲いたようだ。
ジェノスは目を見ひらいた。
先生が、すごくきれいなのだ。
こんなに宝石のようにきらきらした、美しい先生は見たことがなかった。突っ立ったまま、感動に震えさえした。自然と口元がゆるんでくる。
「先生」
なにか優しい言い方で聞いた。
「ぜんぶ吐いて、すっきりした?」
「……そうね」
ぽつり言うと、自分で起き上がって部屋に戻った。ばたんとベッドに倒れる音がすると、ジェノスは弟子らしくモップを持ってきて床の血を拭いた。上機嫌なので、魔法も使わなかった。
そのまま廊下じゅうを掃除した。部屋からの高いびきと鼻歌のデュエットが、月がたかむくまで続いた。
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先生はもう、以前の彼女ではない。
あとでわかったことだが、人体破裂の発作が起きたとき、先生の師匠が呼ばれ、あの人形を持ってきた。彼女の体に魔法をかけて腐敗前の状態に戻し、腐敗を起こす悪い気をすべて人形に吸わせて、体のもっとも壊れる部分すべてに封印の札を貼った。もはやゾンビなのは仕方がないが、これが効いているうちは、少なくとも発作は起きない。ただし万全ではないため、忘れたころにいきなり起きる可能性はあるという。
そう説明されて、ティロットンは絶望のどん底に落ちた。つまり、いつまた臓物を吐きまくるかわからない、そういう日々をこの先ずっとすごしていかねばならない、ということだ。死んでいるから寿命もなく、肉体のある限り、ほぼ永久に恐怖の中で暮らすしかない。これが地獄でなくてなんなのだ。いったい自分が、なぜこんな仕打ちを受けねばならないのか。
理不尽にもほどがあったが、なってしまったものは仕方ない。魔法でなんとかできないかやってみたが、死んだ体には、もはや魔力はろくに残っていなかった。
大魔女ティロットンは、完全にこの世から消えたのである。
ジェノスは無理やり卒業させてもらったが、しばらく滞在した。人形がこの手にある限り、先生の生殺与奪の権は自分のもの。自分は安楽椅子でゆったりし、先生はメイドのようにあごでこき使い、気が向いたら人形の札をはがし、内臓を吐かせてはけらけら楽しんだ。人形は服のうちポケットにしまい、魔法をかけて眠っているあいだに誰かが手を触れたら感電するようにした。なんだかんだで、きつい修行を二年もさせられたことに不満がなかったわけではなく、かつてないほどのざまあ気分で王侯貴族の暮らしを満喫したのである。
もちろん、しいたげられ、いじめ抜かれる先生の憎悪は、日を追うごとにつもりにつもっていった。
そうして数日がたった朝。
目覚めたジェノスは、いつものようにメイドが来ないので手を叩いたが、来ない。痛くなるほどやっても聞こえてないのか無反応なので、むっとして廊下に出た。と、外でドドーンと木が倒れる音がした。それも一本や二本ではなく連続で、まるで将棋かドミノ倒しのようにたやすく、しかし大地をゆるがす轟音が何度もとどろく。
ドドーン。ドドドーン。
なんだこれ。
こんなの、魔法でも使わなきゃ、まず……。
あっと思い、外に飛び出したジェノスの目に映ったのは、家の向かいの森にむけて右手を差し出すティロットンのきゃしゃな背中だった。もう着ないと思われた濃紫の上着にスカート姿で、完全に魔女ルック。そして手から放つ光で、ぶっとい大木を次々に倒している。
後ろに気づいて振り向き、横目でにやりと笑いかけた。あふれる自信と威厳。燃える太陽のような存在感。完全に以前の先生だ。
「あらおはよう、ジェノス」
快活な声が、朝の空気を震わせて響く。
大魔女ティロットン、とつじょの復活である。
「そ、それ、ないと洪水のとき、困るって……」
あまりのことに口をぱくぱくさせて指さす弟子に、ゆっくりと向き直る先生。
「木のこと? ああ、前に言ったわね、確か」
なんでもないような笑みで言う。
「いいのよ、すぐ戻すから。今してるのは肩慣らし。久しぶりだけど、ほんと順調だわ」
しかし、ジェノスは上げかけた指を力なくおろした。なぜなら、そういうことを言う場合、ふつうは肩くらい回しそうなものだが、今の先生は、彼女にビシッとこっちに人差し指を突きつけ、不適な狩人の笑いを笑っているからだ。いつでもぶっぱなすスタンバイ。銃で脅してるのと同じである。
あきらめたように口元をゆるますジェノス。
「なあんだ、魔力は戻ったんだ」
「そう」と指の照準をあわせたまま、顔をあげて見下すように、「次に、私がなにをするか、わかる?」
「大先生は素晴らしい人格者だし」
目をあさってに向け、とぼけた顔で言う弟子。
「なにもしないで、行かせてくれそうだけどなぁ」
「残念だけど」
ニヤニヤする人格者先生。
「私は毒親育ちのクズだからね。あんたには、たっぷりお返ししないと気がすまない。あ、下手なことは考えないで。人形はポケットでしょ? 出すまえに、あんたの腕をもぎ取るから」
「早撃ちの腕は、そっちが上か」
目をとじて卑屈に笑う少女。
「こんどはあんたが、私をいじめ抜いて楽しむわけだ」
そして目を細めて見つめ、ぽつり。
「よかったね」
「ええ、うれしいわ」
「あんたじゃない」
「えっ」
「今のは、私に言ったんだよ」
急に笑いが消えたティロットンに、ジェノスは夢見るように言った。
「お母さん、よく言ってたんだ。『ジェノシーほど運のいい子はいないわね』って。お父さんも、ちょっとしたことで『おっジェノシーは運がいいね。お前は幸運の星のもとに生まれた子だよ』って、いつもいつも言ってくれた」
「やめてよ! そんな話、聞きたくない!」
自分のことを思い出してつい怒鳴ったが、弟子は気にせず続ける。
「だからね、私は運がいいの。この世でいちばん、誰よりもラッキーなんだ。どんなに窮地に陥っても、私だけは必ず助かるようになってるの」
「だ、黙んなさいよおお! さっきから、なにが言いたいのよおお!」
急に不安がどっと押し寄せ、指はそのままだが、泣きそうな顔で震えながらヒステリックに叫ぶティロットン。だが叫ぶほどに相手は落ち着き、口元に余裕の笑みを浮かべるだけだ。
「ポケットに手なんか入れないよ、その必要ない。
私ね、先生をめっちゃいたぶってるときに、すごく楽しかったの。だからね、先生と心中することに決めたんだ」
「はあ? いったいなに言って……」
一瞬、驚いたが、たちまち顔が崩れた。
「ははははは!」
腹抱えるほど笑っても、さすがはプロ、指の狙いは外さない。
「なあんだ、自暴自棄になってたのねえ」と左の指で涙をぬぐう。「あることないこと言うから、つい本気にしちゃったわ」
そして、苦いものでも食ったような嫌そうな顔に戻る。
「まったく、どこまで邪悪なガキなのかしら。こんなにも人を惑わせて、あんたってほんと生まれついての悪魔のペテン師だわ。でも、悪あがきはそこまで」
突きつけた指先が白く光りだす。
「さて、どうしてくれよう。とりあえず、右足でもぶった切ってやろうかな」
にやにやと脅すが、それでも相手の笑みが崩れないので不審になった。だが、気にしてはいけない。どうせハッタリだ。
そうだ、こんな奴に遠慮するな! 私を散々いたぶって赤恥をかかせたこいつだ! いまこそ地獄へ突き落とし、虫けらのように踏みにじって、みじめに泣かせるのだ!
「このクソガキいいい!! 死ねええええー!!」
だが、悪態とともに放った白い光の矢は、ターゲットを大きくそれ、雲のほうへ消えた。なぜなら撃つと同時に、右腕に刃物で刺し貫くような鋭い痛みが走ったからだ。二の腕の表面が大きく裂け、爆発したようにまっかな血が吹き出し、鮮やかなシャワーになって草むらにザーッと降りそそいだ。
「ぎゃああああー!!」
ひっくり返って、血まみれの腕をおさえる先生。ゆっくりと近づく弟子。
「な、なんで……?!」
涙目であえぐ女を、ジェノスは半笑いで見下ろして言った。
「私、人形を縮めて、右腕の中に埋め込んだんだ。だから札をはがすのも戻すのも、頭で念じるだけで、ひょいひょい出来る。ポケットに手なんか入れる必要もない」
「な、なんでっ、そ、そんなことを……?!」
疑問符だらけの女に、目を妙に優しげに細めて言うジェノス。
「わたし言ったでしょ、先生と心中するって。先生が大魔女に戻ろうが、関係ない。私とあなたは、これで一心同体。私はいつでもどこでも、好きなときにあんたに血反吐をはかすことが出来る。いや待てよ、あんたが魔法を使えるほうが、利用価値があっていいかな」
「そ、そんな……」
絶望に丸くなる背を、しゃがんでご機嫌な笑みでぽんぽんと叩く。
「まあそういうことだから、これからよろしくね、せんせ」
横目できっとにらむので、さっと飛びのく。
「おっと、下手なことすると、また内臓げろげろだよ?」と右腕を立てる。「まあ早撃ちの腕は、こっちのが上だったね」
(ああ神様……)
ティロットンは全てを呪った。
なぜこんな奴が、こうもついてるんですか。
私はなぜ、こんなにも不幸で、不運で、死という永遠の安らぎからも見放されて……。
いったい、こんな理不尽なことがあっていいのですか。
ああ神様、いったい私がなにをしたのです。
私ばかりが、こんなにも罰されるわけを、
どうか、お教えください……。
……いや、ちょい待て。
急に理性が動く。
……魔法が戻ったんなら、それで発作をなんとか出来るのでは……!
ぱああーっと希望がわいてきたのを、いきなり脇から潰された。
「ああそうそう、調べたんだけど、この人形の吸ってる気って、邪悪さじゃ最強クラスだから、いくら先生の魔法でも発作を抑えることは出来ないみたいよ。そもそも先生の先生が作ったんでしょ、これ。弟子のあんたが、どうこうしようったって無理じゃん」
またガクーンと落ち込み、口元にひねくれた笑いすら浮かんだ。
……ひひひひ、もうダメだあたし。
いっそ消して。
殺してくれないなら、消し去って。
それも無理なら、狂わせて。
……狂いたい。ああ狂いたい。
もう、なーんもわかんなくなって、楽になりたい……。
だが、それもかなわないと、どこかで知っていた。幽霊が発狂したなんて、聞いたことがない。
「まあ、どうせもう死人なんだし、気にしないでいいんじゃないの。ふあー」と、あくびするジェノス。「わたし朝ごはん、まだだった。休んだら作ってね」
そして地に伏す先生を残して歩き出す。その足取り軽い小柄な背に恨みがどっと出たが、いま何かしても、どうせ臓物を吐かされるのがオチである。
が、相手は急に立ち止まり、背を向けたまま言った。
「私がここを出て行けばさ、もう脅される恐怖からは、逃れられるから」
ずっといると思ったので、多少は安心した。
が。
「でもまあ、人形がなくてもいつ起きるかわかんないから、あんま変わんないかな」
ダメじゃん。
札がはがれなくても、発作が勝手に起きる可能性があるのでは、不安が続くから、あまり意味がない。
ただ先生の師匠が言うには、それで勝手におきてしまっても、しばらくすると内臓はまた勝手に自分から戻るので、心配はないそうだ。
残る問題は、発作が起きるときの恐怖と苦痛だけである。
だが、せっかく魔法が使えるのだ。効かないといっても、少しは和らげる手が見つかるかもしれない。
そう思うと、心にかすかな光がさした。
……そうだ、希望を捨てるな。
……ティロットン、がんばれ……!
あれと思った。
(親は、なにもしてくれなかったのに)
(これは、誰の声なんだろう……)
たちまち頭に浮かんできたのは……。
懐かしい人たちの姿だった。
(そうだ、これは師匠や弟子たち、そして友達、その他大勢の、私を好きと言ってくれた協力者の人たちの声だ。かつてまわりにいたみんなが、私にがんばれと言っているのだ。
そりゃ親よりははるかに弱い、切れそうにはかない細糸のようなそれだけれども、それでも、すがれるのなら、なんだろうが、必死にすがる。ないよりは何百倍もマシだ)
少しずつ、気が軽くなっていった。
(私には、なにもないと思っていた。だから、その心にぽっかりあいた巨大な穴を埋めるために、あれだけ必死になって勉強し、修行を頑張り、魔女の頂点にまで上り詰めたともいえる。
だが本当は、なにもないわけではなかった。私を助けてくれる、本当に大勢の人たちがいたのだ。たとえ親の愛とは比べものにならぬほどに小さくてショボかろうとも、それらは私の生きる真っ暗な道を、持ち寄ったそのささやかなあかりで、ひっそりと、ともしてくれていたのだ)
感謝の念が怒涛のようにわいた。
熱い涙があふれた。
ここまでひどい仕打ちを受けなければ、こんな大事なことにずっと気づかなかったかもしれない。皮肉なことに、性悪ジェノスの虐待が、彼女をある意味救ったのだ。といって、感謝など微塵も出来ないが。どうせまた、しばらくはやられるわけだし。
なぜならジェノスは振り向き、こう言ったのである。
「あと少し、ここにいるから。
よろしくね、腐乱先生」
そして、清純派ヒロインかお前は、というような、さわやかな笑みを浮かべた。それは朝つゆの光のように、みずみずしい笑顔であった。
(補足)
かつてナハトット・クリスタ国の首都において、とつじょ人前で内臓を吐きまくるというすさまじい狂態をさらし、人々を恐怖におちいらせた、あのおぞましい妖怪が、じつは高名なティロットン先生である、と一部の者に知れたことがある。
それは現場に居合わせたとか、他聞からの憶測なのだが、彼らは、そのティロットンという名前から、Rotton(腐った)という語を取り、いつしか彼女を「腐乱先生」と呼ぶようになった。
が、これはあくまで、ごく一部の者によるマイナーな呼び名である。一般には、彼女がいつ肉体が破壊されるかわからないゾンビである、という事実は知られていない。
だからティロットンは、今も魔女の最上位の地位を保ってはいるのだが、それはいつ人前で死者であるとバレるかわからないという、不安と恐怖に彩られた綱渡りの状態である。またこの秘密は、ある性悪の元弟子に利用される原因にもなっている。
その元弟子である、あの悪名高い殺人魔女ジェノスが、かつてアランポラン公国で死刑をまぬがれたのは、この「腐乱先生」の手助けによるものだ、と一部で噂されている。だがジェノスもティロットンも、その後は行方不になっており、真相は藪の中である。
しかし、アランポラン公国の山奥に住む村民の、とある証言が残っている。夕方ときおり、野犬の遠吠えとともに悲痛な女の絶叫が響き、木々の間に鉄と潮のかおりがたちこめたことがあるという。
最初にそれをかいだ木こりは、思わず地に伏せ、それのするほうへ向けて、一心に祈りをささげた。彼はその山の奥深い方角から、あまりにも神々しく、そしてガラスのようにもろく美しく、はかない聖者のオーラを感じたのである。
(第三章「腐乱先生」終)