第三章「腐乱先生」4
長いすにひっくり返って雑誌なんかを読みながら、勝手に作ったリンゴジュースを飲む。修行がない日はめったにないが、今日は先生がお出かけで、朝から晩まで帰らない。課題をさぼったことがほぼ皆無の生真面目な弟子は、珍しい休みに最初は戸惑ったくらいだが、一分もしないうちに本性むき出しでゴロゴロしだした。
雑誌をめくると、ファッションに興味がないので、おしゃれよりは男の記事が目に入る。あのしょうが焼き事件から一年がたち、ジェノスは十七歳になっていた。
ティロットン師匠は早朝、「休みだからって気を抜かないように」と言って出て行ったが、そう言われて抜かない奴はいない。先生はいつもの濃い紫のでかトンガリ帽にローブの正装だったから、遊びではない。なんでも故郷のナハトット・クリスタ共和国の科学省に勤める古くからの友人に頼まれて、研究を手伝うとかなんとか言っていたが、弟子の自分に関係あるじゃなし、と聞き流しておいた。
一日かかるので帰りは遅い。ざまーみろ、日ごろの恨みだ勝手なことしてやる、ひひひひ、などと思っても、結局だらけるぐらいしか思いつかない。というか日ごろの疲れがどっと出て、長いすで夜まで眠ってしまった。意味ねえ。
目を覚ますとほぼ同時に、先生が帰ってきた。というかドアが乱暴にあいた音で目が覚めた。
寝ぼけながら聞いていると、なにかあわただしく、どたどた廊下を走って自分の部屋に入り、そこでまたばたばたやる音がしばらく続いた。どうしたのかと起き上がり、あいたままのドアをのぞいて「先生、おか――」と言いかけて固まった。ティロットン先生はいきなり目の前にすっと迫り、まるで部屋の中を隠すかのようにしばらく立ちふさがったのだ。
だがジェノスを驚かせたのは、その顔だった。
いつもの先生ではまったくない。目は飛び出そうに見開き、顔は蝋のように蒼白、肩で息をして、食いしばる歯のすきまから、ぜえぜえと激しい息を吐いている。三年も一緒にいて、こんなのは前代未聞だ。急いで走ってきたらしいから息が荒いのはわかるが、たったいま世界崩壊でも見たようなこの様子はどうしたことか。いったい故郷でなにがあったのか。だが、この状態では聞くのも気が引ける。
すると彼女は、前にずんずん出てジェノスを部屋から押し出し、ドアを後ろ手にバタンとしめた。これも見たことのない荒っぽさだ。
「……寝てたの?」
不意に聞かれて、気まずくなった。
「は、はい、すみません」
朝、だらけるなと言われたので、てっきり怒られると思ったが、なぜか先生は急に我に帰ったように目を細めた。そして眉をひそめて口元に指をあて、なにか考え込む感じになった。
「そうすると……今夜は眠れないわね、朝まで……」
また目が不安げにぎょろぎょろしだし、急に食い入るように弟子を見た。背は相手より上なので、見下ろす逆三白の目が妖怪じみて恐ろしかった。いや魔女だからこれでいいのか。
などとアホを思う暇はなかった。いきなりドスのきいた声を地鳴りのようにとどろかせたからだ。
「起きてるわね、朝までっ! わ、わたしが、わたしがっ! 眠っている、あいだにいいいっ!!」
ジェノスはあわてて弁解するように、
「ね、寝ますよ! このくらいで眠れないとか、ありません!」
「ほ、ほんとうに……?」
ぐったり安堵したように言うので、ほっとして続ける。
「はい、いつもどおりに眠れます。だいじょうぶです」
柄にもない気遣いの苦笑に、師匠はやっと納得したようだったが、やはり顔色は悪いままだ。
「私はすぐ寝るけど、あなたも食事したらすぐ寝なさい」
「はい」
返事を聞くと、師匠はくるりと背を向けて部屋に入り、ばたんとドアがしまった。
いったい、なんなんだ。
その晩、案の定眠れずに寝返りばかり打っていたが、いきなりドアを激しく叩かれた。もちろん、そんなことをするのは一人しかいない。
「そのへんを散歩してくるけど、」
隙間から顔の右半分を出して言うが、相変わらず顔色は悪く、目つきもすわっていて不穏だ。
「くれぐれも、私の部屋には近づかないように。いいわね?」
最後の「いいわね」の「ね」で目が見開いて口元がくくっと吊りあがり、それがカエルの化け物っぽくかなり怖い顔だったが、ジェノスにはウザいだけだった。「はい」と返事すると、くるりと背を向けて行ってしまった。
この良くできた素直な弟子は、すぐに机に向かうと、両手の間に念をこめて、もくもくと小さな雲を作った。雲の中に光があらわれ、雲いっぱいに広がると、先生の後ろ姿が映し出された。すでに外を歩いている。見ていると、西の渓谷に向かっているらしい。それならすぐには戻るまい。辺りは真っ暗のはずだが、前方と足元は魔法で透視しているのだろう。こっちもやっているから、相手がよく見える。
ジェノスは頭上に雲を浮かし、ちょい自分の前へ持ってくると、そのまま薄緑の縦じまパジャマにスリッパの格好で廊下に出た。雲は目先に浮かんだままついてくるので、先生の様子を常に監視できる。
もちろん行く先は先生の部屋だ。だいたい、帰宅してからの彼女は、あまりに怪しすぎる。部屋でどたばたしてたし、なにもないはずがない。
そう思っても、もちろん心配してではなく、なんかおもろそうだからだ。だがジェノスのように下世話な好奇心でなく、たんに師匠を心から尊敬している弟子の鑑であっても、こういう場合は、なにがあったか知りたくなるんじゃなかろうか。あれだけうるさく部屋に来るな近づくなと言うからには、なにかを隠しているに決まっている。ジェノスはわくわくしながら部屋のドアにつくと、ポケットから万能トカゲを取り出し、鍵穴にすべりこませた。
この全長五センチほどの小さなトカゲは、こんな名前だが別に万能でもなんでもなく、細い隙間に入ると額にある第三の目が光り、そこから発する魔力で近接するものを動かす。主に泥棒がドアの鍵をあけるのに使う犯罪道具である。
なんでこんなものを持っているのかといえば、魔法雑誌の記事で見て、自分でこさえたのである。べつに窃盗犯志望ではないが、いつか役に立つはずだと、ほんの一週間前に自分の部屋で野生のトカゲを縮めて秘密裏に作ったのだが、こうも早く出番が来るとは、トカゲ自身も思わなかったろう。
「カチャリ」と鈍い音がして、ドアはたやすくあいた。雲の中の先生は、相変わらずとぼとぼと暗い山道を歩いている。そんなに部屋を見られたくないのなら、こんな低レベルな技はきかないようにと、鍵を魔法でガッチリとガードするはずだが、それすら忘れて行ったらしい。よほどの放心状態である。魔女の大先生にあるまじき態度、彼女をそこまでおとしめるほどの秘密とは。
これは期待できそうだと、口元をニタアと吊り上げる。ジェノスは、世にもまれなおもろい事実が判明すると確信した。
だが部屋の中は、以前に入ったときとなんら変わらなかった。壁際に無機質な机とベッドがぞんざいに並び、その殺風景な空間に、向かいの窓にかかるさらさらした白いレースのカーテンだけが、かろうじておしゃれ感を出している。一見、なんも面白みのない住居だ。
が、初めて見るものがあった。
部屋の隅にでんと置いてある、一メートル四方ほどの大きさの黒い金庫である。いつもは押入れにでもしまってあるのを、さっき帰宅したときにあわてて引き出したのか、うっすらかぶっているほこりを払ってもいない。
どうやらこれが秘密の鍵だと知り、寄っていってしゃがみ、ダイヤルに手を当てる。ただの金庫なら、ダイヤルをまわした時間に戻す「逆行魔法」を使えば、番号をあわせるのは簡単だ。しかし、これは偉大なティロットン先生の金庫である。部屋のドアはあいたが、これが、そう簡単にあくわけが――
カチッ。
あいた。
扉の角をつまんで引っ張ると、イーッと嫌な音をたててひらく。
中が見えた。
一瞬、目を疑った。
(なに、これ……?)
いささか拍子抜けである。が、それでも不可解には違いないので、手を伸ばして引き出し、しげしげと見た。
それは人形だった。クリーム色の生地に綿を詰めた、長さ五センチ、幅二、三センチほどの胴体に、それより一回り小さい頭を乗せ、さらに両側と下には、だ円形の袋をそれぞれ二つずつ下げて手足にし、人型を作っている。だから人形というよりはぬいぐるみなのだが、そうは呼びたくないほどに見た目が簡素で、何かを作る途中ですらない、店で売っている製作用の素体にしか見えない。片手で楽に持てるほどの大きさで、動かすと頭が前後にゆれて、ぶっといソーセージのような腕と両足がぶらつく。
なぜこんなものをわざわざ金庫に、という疑問もあったが、いちばん奇怪だったのは、その顔と胴体、手足の先に、それぞれくすんだ白い札が一枚ずつ貼ってあることだ。顔が隠れるくらいの大きさで、どれも古びて端の一部がめくれてたりして、使いまわしている感じ。
顔の奴を少しめくると、黒丸の目と、カーブした笑う口が、インクでいい加減に描いてあるのがわかった。素人なら「なにこれキモい」で終わりだろうが、魔術に通じていれば、これはなにかを封印しているとわかる。
そのとき、後ろでコトッと音がした。はっと見れば、あけ放ったドアの向こうに、彼女がまるでたった今地球の破滅に出くわしたようなすさまじい形相でこっちを見つめ、石のようにたたずんでいる。雲を見ると、変わらず山奥を歩く後ろ姿が映っているので、魔法返しをされたのだ。この人なら、このくらいは難なくできる。今までのボケきった様子から大丈夫だろうと思っていたが、そうでもなかったようだ。
しかしジェノスは、悪さを見られても特にあわてることもなく、雲を消して向き直ると、むしろ余裕の笑みで恩師を見返した。相手は今すぐぽろっと落ちても不思議はないほどにまん丸い目をぎょろぎょろにむき出し、怒りなのか恐怖なのか、それとも悲しいのか、とにかく異常な焦燥に、ガクガク歯噛みして震えている。
そのありさまを見て、ジェノスはふと気づいた。口元がたちまち、ニーッと大きく裂ける。
「先生……」
弟子は、これ以上ないほどに邪悪な笑みを浮かべ、しかし無感情に言った。
「あんた……死んでるね?」