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第三章「腐乱先生」3

 ジェノスが本性を現したその日は、魔女見習いになってからちょうど一週間後であった。ティロットン師匠にとっては、炊事、家事全般など基本的なことをこなして道場の雰囲気に慣れてもらい、そろそろ本格的な修行に移るか、という折だったので、ちょうどよかった。


 その日からの修行は苛烈を極めた。午前中に杖を何千回も振るとか、手から規定量の気が出るまで飯ぬきとか――それで一日水だけの日もザラであった――そんなのは序の口で、山奥の虎の穴に入らされて虎の子を取ってくるという、まさに虎穴に入らずんばの実践や、わざとナイフで自分の腕を切りつけ、それを自分で治す回復魔法の鍛錬など、日を追うごとにハードになり、しまいには百キロはあろう岩に紐でくくりつけられ、でかい滝に突き落とされさえした。ただの殺人である。


 だが、すぐに音をあげるかと思いきや、この十五歳の殺人鬼志望の少女は、一言の愚痴も言わず、黙々とすべての修行に耐えた。本人の魔力が足りず、あまりに危険なときに限っては師匠が助けたが、基本的には、どんな過激な修行も、ジェノス自身の力量にまかされた。そして、それらのほとんどを根性で乗り切り、日に日にプロの魔女に近づいていくと、今度は教える側が不安になってきた。

(いけない、このまま本当に魔女になると、まずいことになる……)


 相変わらず本心を隠した仮面の素直さかもしれないが、それでもこの小柄な弟子は、一見しょうもないただの無駄にしか見えない重労働にもきわめて真摯に取り組み、つねに前向きで、どんな過酷な課題にも遅れずについてきているので、鬼の師匠もそれを評価せずにいられなかった。いくら魔女になる目的がろくでもないからといって、弟子にしたからには責任がある。将来悪さするのを防ぐために嘘やデタラメを教える、などは、とても出来なかった。




 そこで気づいたのは、この子に必要なものは、ただの肉体のしつけだけではない、精神の修練と解放である。それにより心を入れ替えてもらい、愚かな考えをしない正常な人間に育ってもらうこと。

 素直なふりはしているが、腹の底では邪悪が息を潜めていることを、こちらは知っている。なんせ入門当時、向こうから話してくれたのだから。わざわざ手の内をあかしてくれたわけで、対策も立てやすいはずだった。

 が、修行一年目、山をすずしい風が吹きぬけるさわやかな秋の晩に、ティロットンは大きな過ちをおかした。



 人生の目的を師匠にぶちまけたあの日から、ジェノスは今日までおとなしく従い、一度もあんなふてぶてしい態度を見せていないが、本心の性悪さは変わっていまい。そろそろ、そこをつつかなければダメだ。

 なんせ度を越した放任主義で、必要な教育をいっさいしないという、ある種のネグレクト、育児放棄をかます毒親に育てられ、愛情がいちじるしく欠如しているから、彼女のプライドは恐ろしく高いはずである。それをとりもなおさず、ぶち壊さなければならない。

 教育には時として叱るという荒療治も必要だが、この子ほどに病んでしまっている場合、心を根底からバキンとへし折るほどの残酷さすら必要である……とティロットンは判断した。


 ただきつい修行だけで済ましていれば、まだよかったかもしれない。この判断が、のちに取り返しのつかぬ恐ろしい悲劇を生むことになる。




  xxxxxx




 ジェノスは固まった。

 なに、これ。



 夕げの食卓は、いつもなら楽しい歓談の場であるはずだった。修行中は鬼畜のように厳しいティロットン先生も、決して豪華ではないが、白くきれいなテーブルクロスの上に並ぶ、つつましくおいしい料理に舌鼓をうつこの時間だけは、明るくて気さくなお姉さまに変わる。が、それはあくまで「労働時間外」のときだからだ。ここまでが彼女の仕事場かつ自分にとっての修行の場になってしまっては、もはや一日に安らぎはない。

 弟子入りしてこの一年、食事時に二人の仲が険悪になったことは一度もない。

 だがその記録は、この夜、いとも簡単に破られた。



 先生が食堂に入るや、向かいの席に行かずに、ジェノスのところへつかつかとやってきた瞬間、「修行はつらいけど、ご飯だけは楽しい」の法則は、すでにガッタガタに揺らいで倒壊寸前だった。彼女は弟子の前に並ぶ二枚の皿をさっと取ると、いきなりその中身を、床に思いっきりドッパアアーンとぶちまけたのである。せっかくの薄切りの豚のしょうが焼き数枚とフライドポテト、そして甘酢のドレッシングをかけた、きれいな緑黄色野菜のサラダが、すべてぐちょんぐちょんの汚物になった。

 

 あまりに突然のことで、床に転がる夕飯の残骸を、席に着いたまま、ただ呆然と見つめるジェノスに、先生は薄笑いで言った。

「補習です。この夕食を、魔法で完全に元通りになさい」と、卓に空の皿を置く。

「は、はあ……」

 解せなかったのは、今のジェノスなら、そのくらいのことはちょちょいっとできるレベルだったことだ。そして、それは先生も知っているはずだ。なにも、わざわざ補習と称して食事時間にすることではない。

 なにかあるのでは、と思ったそのとき、目の覚めるようなそれが起きた。そのときの光景と衝撃を、今も彼女は、たったいま見たように、まざまざと鮮明に思い浮かべることができる。


 ティロットンは残骸のところへ行き、いきなり右足を振り上げて、木靴の底で何度も何度もそのか弱い肉や葉を踏みつけ、ぐちゃぐちゃに踏みにじった。これで夕食は完全に原型をとどめなくなった。

 これを戻すのは高度な技術がいるから、確かに補習レベルではある。が、問題はそこではなかった。



 ジェノスは顔色が一気に蒼ざめ、目が見開いたまま過呼吸になり、ぜんそくのようにぜえぜえ息を吐いた。悪い水をたっぷり吸った雨雲がもくもと空一面を覆うように、今にも戻しそうなほど耐えがたい嫌な気持ちが押し寄せ、自分のチンケな体など一瞬で押しつぶされると思った。そこまで気持ち悪かった。こんなに嫌な気持ちになったのは生まれて初めてかもしれない。

 ちなみに料理は二人で一日交替のローティーションを組んでおり、今日はジェノスの当番だから、この無残な元料理は彼女が作ったもので、そのことも不快感をいっそう押し上げた。



「なにをしてるの。はやくおやりなさい」

 済まし顔で言い、向かいの席に座る先生。なにもかも、ただの普通のことだ、と言わんばかりである。

「夕食が遅くなるわよ。私、先にいただくわね」

「えっ、それって……」

 弟子はこの世の終わりのような顔で、あえぐように言った。

「戻した料理を……食え、ってことですか……?」

「そうよ、あたりまえじゃない」と薄笑いで自分の肉をかじる。「床に落ちたものでも、完全に戻ったんなら問題ないでしょう。食べなきゃもったいないわ」

「落ちた?! 床に、『落ちた』?!」

 連呼し、思わずガタンと立ち上がる。

「ジェノス、椅子がひっくり返ったわよ。壊れたらどうするの」

「なに言ってんですか、落としたあと、むっちゃ踏んづけたじゃないですか! そんなもん、食えると思ってるんですか?!」

 吊り目をさらに吊り上げ、怒りにぷるぷる震える弟子に、師匠は変わらぬ薄ら笑いでカップの紅茶をすすってから、さとすように、

「なにも、それをぐちゃぐちゃのまま、犬のように這いつくばって口で食え、ってんじゃないのよ。元に戻してから口にしなさい、と言ってるの。もし不完全だったら、それはもうひどいものを食べることになるから、がんばってやるしかない。

 これ以上、立派な修行はないでしょ?」

「た、たとえ完全に戻ったって……」

 ジェノスの頭は、今の無残に食べ物を踏みつけている汚い木靴のビジョンでいっぱいだった。

(なんだよ、食べ物を粗末にするなといつも言ってるくせに、思いっきりしてるじゃんよ……)


「じゃ、いまの記憶を消してください」

「え?」

「先生が踏んづけてるのを見た記憶を、私の頭からきれいさっぱり消し去ってください。それなら、戻した夕飯を食べます」

「ダメよ」

「なんでですか」と口をとがらす。「回復魔法の練習なら、なんか回復させたら、それで終わりでいいじゃないですか。それを踏んづけてから食わすとか、意味わかんない。たんに私がやな思いするだけじゃないですか」

「意味なら、あるわよ」

 目を細めて見つめてからそらし、自分の食事に集中する。

「なにしてるの。夕食の時間、終わっちゃうわよ。今夜は抜きでいいの?」

(……そうか)(そういう意味、か……)

 ジェノスは悟り、もう黙った。



 私にやな思いさせて意味がある、ということは、要するにいじめなのだ。今の立場はこっちのほうが弱い。弱いものいじめが楽しい、という感覚はよくわかる。今まで、この人はそんなレベルのことはしないもんだと勝手に思っていたが、そうではなかったのだ。


 昼の修行だって、見てくれはほとんどいじめだが、あとでほめてくれたり、アドバイスされるので、どんなにつらくて過酷でも、こっちは納得してきた。

 が、これはちがう。とても納得できるものではない。そして、そうだと伝えたにもかかわらず、無視して押し付けるってことは、ようは私を傷つけて笑いたいということだ。

 いやもしかしたら、終わったら何かのフォローがあるかもしれない。謝りさえするかもしれない。だが、これほどまでに嫌なことをさせられたら、もう許すことは出来そうにない。ジェノスは不快な澱のようなものが、腹にどんどん溜まり、じっとりと重苦しい層をなしていくのを感じた。

 しかし、いつまでも突っ立っていたらラチがあかない。できることをするしかない。


 ジェノスは、考えるのも感じるのもやめた。ただロボットのように歩き、床の汚物の前に行くと、それに向けて両手を突き出す。

 回復魔法は、ふつう怪我を治したり(医者の治療のように長丁場でなく、一瞬で跡形もなく消し去る)、壊れたビンや椅子などの日用品を元の形にそっくり戻したりするのだが、破壊された食べ物の再現となると複雑である。まず形を戻し、次についたゴミやほこりを全て取り除く。時間を戻せば手っ取り早いだろうが、そこまで高度な魔法は、今のところ魔法大学の大先生にも無理だ。


「リボーン、リターン、リプレイス……」

 呪文をとなえ、指先から発した光で、残骸を少しずつ再生していく。薄切りの豚のしょうが焼きと角柱のフライドポテトたちが、奇跡のようにむくむくと元の姿に変わる。レタスやアスパラのサラダが完璧な形に花開き、甘酢ドレッシングが、つややかな表面にわきだして、ぴかぴかに光る。


 一分もかからずに回復は終わり、魔法で皿にひょいと乗せてテーブルに置くと、ついに試練のときがきた。

 椅子に座ったジェノスは、憔悴しきった顔で料理を見た。一度踏みにじられてクソ汚れたことのある夕飯。もう一ミクロンの汚れもなく、食べても全然大丈夫なはずなのに、見るのも気持ち悪くてしょうがない。先生がサドなのはどうでもいい。食えるのなら、べつに汚いまんまでもかまわない。


 問題は、自分の内面だった。プライドを思いっきり穢されたのだ。足蹴にされ、心を無残に潰されたまま、こんなゴミを食わされるのだ。

 べつに落ちたまんまを犬みたいに四つんばいで食えってんじゃない、と先生は言ったが、ジェノスにとっては、それとほとんど同じだった。いや、相手がまともな状況を「つくろって」いるぶん、さらにタチが悪かった。


 だが、やらねばならない。

 心を鬼にし、薄い肉をフォークに刺して、口に入れる。いつもはおいしいしょうが焼きは、かめば、ただ下水を流れるにごった水のような気持ち悪い肉汁がじゅわりと口じゅうを満たし、飲み込めば死ぬと思った。

 だが、このままでいるわけにはいかない。心を鬼神にし、飲み込む。

 ごっくん。


 戻しそうになり、なんとかこらえる。まずく感じるとかいうレベルではない。いったん汚物になったものは、いくら小細工して元に戻そうが、もうそれは汚物でしかないのだ。

 涙がでそうだが、こらえた。


 サラダもぜんぶ食べ終わり、消え入るように「ごちそうさまでした」とつぶやくと、椅子をたち、よろけながら自分の部屋に去った。今日が皿洗い当番でなかったのは幸いだった。そんな気力はみじんも残っていなかった。





 その晩、ベッドに突っ伏して枕をぬらした。(ちくしょうちくしょうちくしょう)(くやしいくやしいくやしい)と、全身が上ずった声で連呼していた。私が深く傷ついたんだから、奴はこれで満足だろう。


 思えば、こうされる理由は腐るほどある。奴はそもそも私のやりたいことや性格が気に食わない。だから変えようとしている。そこで、まずはプライドを踏みにじって、潰してやるって魂胆だろう。そして、それは大成功した。


 だが、そんなことで世間で言う「よい子」になんかなるもんか。脅せば言いなりにはなるだろうが、代わりに心底で、その真逆の感情が芽生えるだけだ。それは、こんな「教育」を繰り返すほどに堆積し、膨れあがる。火種はいつしか爆弾になり、やがて大自然のカタストロフ、地震や雷に匹敵するほどのすさまじい殺意に成長する。

 ティロットン師匠に対し、地球の中心よりもさらにその先の、反対側にまで突き出すほどに深い恨みが出来た。

(やってろやってろ)(おめえなんか、いつかボロボロにして泣かせてやる……!)



 だが、次第に悲しみのほうが勝った。めそめそ泣くうちに、泣き疲れて眠る。

 夢に両親が出てきた。

 母は変わらぬ聖母のほほえみで、傷つき折れた娘の頭を優しくなでた。

「ジェノシーはなにも悪くないわ。悪いのは先生よ。だいじょうぶ、なにも心配しなくていいのよ」

「そうだぞ」

 隣で父もあたたかく笑いかける。

「お父さんとお母さんがついてる。私たちは、ジェノシーのことを心から愛しているんだよ」

「お――おとうさあああん! おかあさああん!」

 ジェノスは二人に抱きつき、顔をくしゃくしゃにして号泣した。そのぬくもりに、少しずつ安堵し、癒されていった。二人の胸に交替で顔をこすりつけ、「おとうさん、だいすきー! おかあさん、だいすきー!」と、子供のように全身をわななかせて何度も叫びまくった。枕に押し付ける寝顔が、うっとりとしあわせな笑みになった。




 翌朝、居間でけろっとして冗談まで言う彼女に、ティロットンは首をかしげた。

(あれじゃ足りなかったのかしら)(いや、そうとう効いたはず)(強がってるだけだわ)


 そこでわざと思い出させようと、昨夜のことを口にした。すると「いや、ああいうのはもう、かんべんしてくださいよ」などと苦笑するだけなので拍子抜けし、まあいいかと、今日の準備をしに道場へ引っ込んだ。その背を見つめる少女の瞳の奥に、鉛のように重い光が不気味にともっていた。

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