エピローグ「天国の扉」
白くまばゆい光に包まれた世界を、三人の親子連れが歩いていた。真ん中の五歳になるジミーは、この輝きばかりでほかには何もない世界を見まわし、ものめずらしそうにしていたが、右にいる父親は生来のいかつい顔をいささかも崩さず、しっかりした足取りでゆっくりと歩いていた。そのどこか探るような雰囲気に、息子の左にいる母親は優しく微笑んで言った。
「大丈夫よ、こんなに素敵なところなんだもの」
「わかってるよマリア」と父親。「この先が地獄なんて、とても思えない」
「ねえねえ、ぼくたち死んじゃったから」と息子。「天国に行くんだよね?」
「ああ、もちろんさジミー」
父は彼を見下ろして言い、ニコニコと笑ったが、内心はやはり不安だった。
自分は死ぬ前に人を殺そうとした。たとえ相手が最低の人殺し魔女でも、いちおう人間にはちがいない。殺人未遂を犯した自分が、この二人と共に楽園に入れるのだろうか。
しかし自分だけ地獄落ちとなると、二人を悲しませることになる。それだけは嫌だった。すぐ死ぬと知らなかったとはいえ、バカなことをしたものだ、と彼は後悔した。
(一時の憎しみで人をあやめようとしたなんて)(しかも相手を苦しめて、それを堪能しようとした)(これじゃ、あの魔女と変わらない)
だがあのときは、本当に理性がきかなかった。それほどまでにマリアを愛していた、と最初は思ったが、ここへ来ると急に、本当にそうだったのかと疑いはじめた。
もしやあれほどに心が荒れ狂ったのは、マリアのためではなく、自分のためだったのではないか。あのとき心を占めていたのは、怒りというより、むしろ恐怖だった。マリアを失った事実が、それほどまでに恐ろしかったのだ。
(なんてことだ、彼女のためじゃない)(マリアに極度に依存していた俺は、俺自身を保つために、あそこまで度を失って復讐しようとしたのだ)(あのとき俺は悪魔にとりつかれていた)(こんなのが救われるとは、とても思えない……!)
彼は笑顔の裏で苦しんでいた。それを妻は察していたが、口には出せなかった。自分の弱さを見せたがらない男である。もっとも、見せたがる男など見たことがないが。
ちなみに三人とも、真っ白いシーツのような、膝下までの長いポンチョを着ている。人が死んで天界へ行くと自動的にこのような衣装になる。彼らも他の死者と同じく、事切れて気がつけばこの姿で、このまばゆく白い世界を歩いていた。親子水入らずで。
しばらく行くと、前を一人の男が歩いていた。声をかけて振り向くと、パーマのかかった髪に、戦士を思わせる精悍な顔つきだったが、どこか悲しげにも見えた。
彼はボブ・デンジャラスと名乗った。父親が、彼の曲をラジオで聴いたことがあり、自分の国ではレコードも売られていると言うと、かなり驚いた。彼のいたヤパン国は、科学至上主義のわりには電気がなかったので、その場で演奏していないのに曲が聞こえるというのは、異常なことだったのである。
だが彼が「祖国は俺が死んだあと、おそらく滅んだろう」と言うと、今度は父親がもっと驚いた。
ふとジミーがボブに、「なにか歌って」とねだったので、父はたしなめた。
「この人は反戦歌専門だ。聴いても意味がわからんだろ」
「すまん、じつは歌いたくても」
ボブは頭をかいた。
「歌を向こうに置いてきちまったんだ。だから、もう歌えない」
置いてきたというのは、歌詞を書いた紙とかいう意味ではなく、自分の中にあった「歌」というものそれ自体を置き忘れてきた、ということらしい。ここに来たときに歌おうとしたが、鼻歌さえ出ないという。
彼を先頭に、再び三人家族がついていくように歩き出すと、彼が不意に振り向いて言った。
「ずっと歌いたかった歌がある。ラブソングさ」
そしてまた前を向き、背中でため息をつくようにぽつりと、
「いろいろあって、歌えなくてね。出てくるのは、誰かの悪口みたいのばっかだよ」
「天国に行けば、きっと歌えるよ!」
ジミーが叫ぶように言うと、ボブはまた振り返り、さびしげに笑った。
四人は天国の門に着いた。神の楽園の入り口であり、山のようにそそり立つまっしろな二つの柱のあいだに、これも純白の巨大な二つの扉が、左右からかみ合って固く閉じられている。
見れば先客がいた。彼女も同じ白いポンチョで、長い黒髪を腰までたらし、門の右端のところを、丸めた指でコツコツとしきりに叩いている。すると小窓があき、女性の無感情な目が出た。
「何度来ても同じです。あなたの名前はリストにありません。お帰りなさい」
「そうですか……」
長髪の彼女はぽつりと言うと、きびすを返して四人を過ぎ、彼らが来た道を歩いていった。
「ねえねえ、なんであの人、帰っちゃったの?」
ジミーに聞かれ、わが身を思ってぞっとしていた父は言葉が出ず、かわりにマリアが答えた。
「私たちと同じところから来たんだけど、入れなかったのね」
「どうして?」
「リストに名前がないとダメだって、いま言ってたわ。だいじょうぶ、私たちは入れるわよ。ねえ、あなた」
「あ、ああ……」
顔色が悪い夫の手を握る妻。
「あなたは私もジミーも、本当に心から愛してくれた。天国に行けないはずがないわ」
「マリア……」
つい泣きそうになって顔をそむけ、こっちを向いたときは、抜けるようにいい笑顔になっていた。ありがとう、とその目は語っていた。マリアも笑い、ジミーも笑った。
一連の光景を見て、ボブはふと「君が欲しい」というラブソングを思いついた。
「さあ、行こう」
四人で扉の前にたち、父がノックすると、また小窓から目が出た。四人を見回すと、「お入りください」と引っ込み、扉が向こう側へスーッとあいた。これだけ巨大なのに静かで、あたたかな雰囲気に満ち、まさに天国へ入る門、という感じがした。
四人は笑って顔を見合わせ、入っていった。神の楽園で新たな生活を始めるために。
ティロットンは元来た道を戻りながら、なんの感情もない顔で、次第に重苦しくなってくる空気を肌で感じていた。光に満ちていた世界は、次第に不吉を帯びて薄暗くなり、現世が近いことがわかる。なんのことはない、来たところに戻るだけだ。
夢の中で、こうして天国の扉をたたくのはもう三度目だった。行くたびに、もしやと思って胸が高まるが、いつもあんなふうに受け付けに冷たくあしらわれて帰るだけ。
それでも彼女は毎晩眠りに落ちるときに、この死んだまま生き続けるだけのつらい人生が終わり、苦しみのない楽園に生まれ変われるのでは、と期待してしまうのだった。しかし結果は、天国から拒絶され、再びこの世に帰ってきたところで目が覚める。この世といっても、彼女にとっては苦しみに満ちた地獄に等しかった。
歩きながら、ため息が出た。
(また夢の中で天国への道を歩いても、こうして、またとぼとぼ戻ってくるだけなんだろうな……)
が、今回はちと違った。背後のずっと遠く、さっきいた門よりずっと遠いと思える空の彼方から、かすかに歌声のようなものが聞こえてきた。消え入るようだが、耳にしただけで、思わず気持ちがほっとするほどにあたたかく、そっと慰めてくれるような、やさしい歌声だった。男の声でアイ・ウォン・チューと言っているように聞こえたが、進むにつれて小さくなり、やがて消えた。
かわりに、前から男の怒り狂ったような、ゲロを吐くようなおぞましい叫びが響いてきた。今の天使のさえずりに比べると、まるで化け物の咆哮である。人殺し、人殺し、と連呼する歌詞に、思わず皮肉な笑みが浮かんだ。
そうだ、私が戻るのは、人殺しがいる身の毛もよだつ地獄だ。
あの殺人魔女。
きっと私が酷い目にあいまくるのは、あれを作ってしまった罪のせいなのだ。奴の素性を知らなかったとはいえ、やってしまったことは消えない。私にできることは、奴に協力するかたわら、奴をこの世から永久に葬る方法を見つけることである。
私は贖罪のため、奴と戦い続けねばならない。どうせ、死してもあの世へ行けない身。ならば、この世に害をなす、あのケダモノを抑えることこそが、私に残された使命であろう。それまでは、もう夢に光の道が出ようが、そちらへは行くまい。
ティロットンは覚悟を決めた。
楽園へ行くのは、私が指名を果たすまでの、おあずけだ。
ジェノス。
あなたのハッピーでラッキーな人類の虐殺……ジェノサイドを、この私が師匠の責任を持って止めてみせる。そして、最後にはその邪悪な性根をただし、人として生きるにふさわしい魂を取り戻させ、正しい方向へ導いてあげる。そうだ、そもそもあなたも私も、共に毒親の犠牲者。一緒に、この地獄を乗りこえようではないか。
妄想するにつれて感極まった彼女の目に、いつしか熱い涙があふれた。
ああ、世界を変えるのだ!
私たちにこそ、それが出来る!
この体にたぎる、あふれんばかりの愛と魔法の力によって……。
ガンガンガンガンッ!!
「うわああああーっ!!」
すさまじい轟音に飛び起きると、枕もとの「ジェノス警報機」がけたたましく鳴っていた。逆さにした鉄のバケツが鉄の棒で激しく叩かれる仕組みで、奴から連絡があると発動する自作の魔法アイテムである。
棒の根元についているボタンを押して叩くのを止め、バケツをひっくり返して耳をあてると、あの無駄に明るく元気な声がした。
「やっほー! 腐乱先生、今ね、フランチュって国のレストランでフルコース食べてるんだけど、厨房の料理人をぜんぶ殺しちゃって、最後のデザートが出ないのね。今すぐ来て、リンゴのヨーグルトあえ、作ってくんない?」
「知るかああああー!!!」
あまりのくだらなさに、思わずバケツに怒鳴ったが(糸電話のように、聞く、話すを交互にやって会話する)、結局、五分後には支度して箒にまたがり、宿をあとにしていた。こんなことで腸を吐かされるのは嫌だし、どうせ自分も犯罪者で流浪の身だから、どこへ行こうがかまわない。
(ったく、毒でも盛ったろか)
と思ったとき、それは素晴らしい考えだとわかった。
魔法使いを殺すのは、じつはたやすい。不意を打てばいいのである。要は魔法を使って反撃したり、自分を治療できなければ、連中もしょせんは人間だから命は尽きる。不老長寿とかいっても、あくまで魔法の力でやってるわけだから、それが衰えれば、普通の人のように歳くって死ぬ。すぐに即死するほどの強力な猛毒なら、魔法で治す暇なく、ころっと死ぬだろう。これはいいぞ、けけけけ。
だが慎重な奴のことだ。食う前にいちいち分析されて、盛ったことがバレる可能性はある。ジェノスは適当に見えて、かなりずるがしこい。なら、魔法でわからない毒を選べばいいが、そんなのあったかな。
考えたら、奴が家にいたときに一服盛らなかったのは、身近にバレそうな毒しかなかったからだ。これは、調べて調達してからでないと……
「げろげろげええええー!!」
口から腸がにゅるにゅる出て、落ちそうになって、あわてて旋回して腸を手で抑える。向かいに来たカラスがビビってUターンした。その上の白い雲から、クソガキの甘えた声が響いた。遠方に魔法を投げて通話する、高度な伝達技法である。
「まーだー? おっそー。あーあ、この国の保安が来ちったじゃーん」
死ねこのガキャア、てか殺されろ、と思ったが、「い、いまふぐ、ひくわ」と言って口に腸を戻した。箒が急降下して、つい地面に降りたが、そこはどこかの幼稚園の庭だった。全身血まみれで目を血走らせた魔女のご登場に、保育士たちはビビって逃げたが、園児たちは「あっティロットン先生だー!」と大喜びで輪になって囲んだ。
ここは魔法学校へエスカレーター式にあがれる施設で、彼女は園児たちの憧れだったのだ。このナリでは困るなと思っていると、いきなりまわりの園児が次々に膨張した。実はそこはもうフランチュで、保安隊の隊員が幼稚園児に化けて、待ち伏せしていたのである。だんだん、なに書いてんだかわかんなくなってきた。
「きさまを人質にする。恩師の命と引き換えなら、あの殺人魔女も投降するだろう」
などと、常識ではいいセン行ってるが、この場合はトンチンカンきわまることを言われ、頭くる先生。
「なに言ってるの、あのバカがそんなことで投降なんか……げろげろげげげえええー!!」
「わあああー!!」
「これが噂の、腐乱先生かああー!!」
魔法専門保安隊の隊員たちが絶叫して納得した直後、先生の大量の腸がいきなりタコ足のように伸びて、隊員たちの首を絞めた。
「なっ、なにをするーっ!!」
「うるせえ! なんか知らんが死ね!」
投げやりになって全員絞め殺すと、裏から小皿に乗せたプリンをスプーンでむはむは食いながらジェノスが出てきた。そして、このザマを見ると、うれしそうな目をした。
「へえ、内臓を操れるようになったんだぁ。よかったねえ」
「うるはいわねえ」と腸を飲み込み、ハンカチで口の血をふく。もはや妖怪である。「あんた、デザートとか騒いでたけど、どうしたの」
「ここの料理人を脅して、これ作らせた。あ、そいつ殺したから、あんたの分はないよ」
「いらんわ! レントランにいたんじゃなかったの?」
「いたら、こいつらが来てさ」と転がる死体をスプーンで指す。「ことのほか多くて、いくら殺しても来るから逃げてたんだ。ここの裏にレストランがあるんだけど」
「ははあ、それでここで園児になって待ち伏せしてたのね。でも、なんで私が来るって知ってたのかしら」
「私が言いふらしてたから。『腐乱先生が来るぞ! お前ら、一緒に腐り果てるぞ!』って」
「お前のせいかよ! はあ、もういいわ、アッホらしー」
すっかり疲れた先生の顔を見て、ジェノスは急にプリンを放ると、右腕を伸ばして組んだ。これには困惑した。
「ちょっと、なんのつもり?」
「ふふん、どうせだから、このままフランチュの街を見て回ろうよー」
「あっそ。やんなきゃまた内蔵ゲロゲロだろうし、いいけどね」
横目で嫌そうに見ながらも、いちおう承諾したので、うれしそうなジェノス。
だが二人で歩きながら、恩師は冷ややかに言った。
「でも、腕なんか組んでいいの?」
「なにが?」
「右腕に、あの人形を埋め込んであるんでしょ。隙を見て、私が魔法で取っちゃうかもよ」
「いいよ取っても、べつに」
妙に悟ったように目をとじて笑い、先生はけげんな顔になった。が、すぐに意味がわかり、彼女も薄笑いになった。
どうせ取ろうとすれば、札が全部はがれる仕組みにでもなっていて、自分は血の海になって終わり、とかに決まってる。こいつが、そうやすやすと私を手放すわけがない。なんせ、私と心中する、と言っていたではないか。
「……ねえジェノス」
ティロットンは不意に言った。
「なに?」
「私の、なにがいいのかしら?」
げーという顔になる元弟子。
「今、すごいキモいこと聞いた気がするけど、聞こえなかったことにするわ」
「バカね、どんなメリットがあるのか、って意味よ」
「なんだ、そうか。
そんなん、腐るほどあるっしょ。先生は大魔女で、私より魔法が使えて……」
「そんなの必要ないじゃない。あなたはもう一流の魔女で、なんでも出来るのに」
「なんでも、は出来ないよ」
「えっ」
それが何かを聞こうとしたとき、通りがかった大道芸人のほうへ「ほらほら、コーヒー人間だってー!」と腕をひっぱられていった。
それはコーヒー豆を飲んで、チンコからコーヒーを出すという最低の芸で、じつはただの膀胱の病気で尿が黒いだけなのを生かした詐欺だったが、誰も飲む奴はいないから決してバレないという、とても画期的なものだった。
人類に幸あれ。