タイパ
コンビニの雑誌がなくなり、喫茶店での自習をおやめくださいする頃、わたしはタイパという概念について考える。
人がある空間を占める、よって金を出すべき。
ここに、土地から離れても、時間的空間に縛られている人間の虚しさがある。
サラリーマンという月給制、パートという時給制、時は金と労働が叫ばれていたが、時は金なりは、労働から余暇にまで広がった。
回転率や売上を考える消費者こそ、倫理的で正しい消費者となる。ここでは、購買力のない若者は排除されるだろう。都会だと座る場所もなく、唯一の居場所は、ただ自分の部屋のみとなる。
タイパは、集まるという場所性を否定する。
集まるということの非効率性は、集合時間を決めて、何かをした経験のある人間には明らかだ。
集まるというのは、タイパが悪いのだ。講義はデジタル化し、飲み会はオンライン、会議もオンラインーー、気づけば、わたしたちは集まらなくなった。できるだけ集まるのをやめようとする。
タイパというのは、よくよく思考すると、場所パなのだ。場所という費用の極端な向上。
コンテンツが格段に安くなる中、映画を映画館で見るというのは、ほぼ場所代だ。喫茶店も、場所代を払っているようなものになる。
場所に人が集まるーー、その現象は否定され始める。集まるのは、感染症のリスクで、環境に悪くて、タイパが悪い。
コミケという同人誌の祭典も、あまり盛り上がりに欠けるようになった。電子でいつでも発刊できるのだから。
場所に集まらないデメリットは、そこでしかないライブ感のなさ。同じ時間を共有しているという確かさ。熱気のなさ。
オンライン、電子空間は、集まりと場所が作る過剰性を無にする。
小説家になろう、に蔵書量がどれほどあろうが、図書館の蔵書という圧倒的な量の感覚を与えない。デジタルの量は、アナログの量と差がある。
タイパで失っているのは、早送りで消費するための鑑賞の深さとともに、場所に、集まったり、だらりと町中で過ごす時間だ。
コンビニに屯する輩、釣りをする少年、街で座っている老人ーー、ああ、時間を忘れてただ場所を占めている。
もう、わたしたちは場所を無自覚に無時間に支配できない。そこでは、時間に追い立てられる日常のbusyと、他人が作る場所への視線の憎しみで、そそくさと場所を、移動するしかない。
軽く、ちょっと本でも読むかといれる日常は帰ってはこない。
いつまで立ち読みしているんだ、
いつまで、そこにいるつもり?
いつまで、いつまでーー。
タイパって知ってる?
場所はタダじゃない。回転率って分かる。他の人がそこの場所を欲しているよね。
場所から場所へ。そうだ、先祖は、歩き続けていたらしいよ。
原子狩猟社会は、場所を所有なんてしない。
昔は人間がそんなに集まったりしないさ。
わたしたちは、場所を、失う。
電子空間という、本当の場所のない板状のモノに変えられて。
場所の時間的な切り売り。
土地代ではなく、場所代。
場所は死んでいく。秋葉が変わっていくように。
自生的な場所の聖地化はなくなり、聖地巡礼の胡散臭さだけが場所のデコレーションとして残る。
単発的で、短時間の場所性。
場所。
場所があった。
レンタル屋に借りに行くだけでも、オンラインとは違う場所性をくれる。でもレンタル屋はタイパが悪いのだ。
場所を、贅沢に使っていた。タイパ以前、モノが溢れる以上、場所は、潤沢に準備されていた。人間はモノの片隅に存在を許された。
街なかの椅子も撤去されていく。そもそもタイパ感覚の人間は、人がぼぉーと椅子に座るイメージがない。家に帰って、スマホでもつついている方がいいはずだから。
z世代を超えて、いずれ場所の記憶の薄れが始まり、時間的な記憶が、アーカイブになるのかもしれない。歴史は、snsのように、場所のない歴史となる。アメリカ大統領が、どこで発言したかは、いつ、何を、言ったかよりは重要性がなくなる。
象徴的な場所はなくなる。
場所は象徴たり得なくなる。
空間にあった詩情は、均一なグローバルに薄れていく。