望まぬ始まり
「はぁ……」
黒髪の少年は書物の詰め込まれた鞄を肩にかけ、気だるげな顔つきで歩いていた。その目線の先には大きな門を構えた建物がそびえたっている。
ライル・シュタイン。今年十四の歳になる彼は新たな門出を迎えようとしていた。聖教学門校への入学だ。
この大地に住む子供たちはある一定の年齢になると聖教学門校へ入学する必要があった。目的はたった一つ、地上の人々を正しい世界へと導くためだ。
地上には多くの問題がある。犯罪、戦争、飢饉、様々な要因が人々を苦しめ、彼らの心を蝕み、邪悪な存在へと変えてしまう。そんな人々の心を浄化し、光をもたらすために学ぶのだ。そんな話を彼は幼いころから毎日のように聞かされていた。
「創世の子なんてばかばかしい……」
ちょうど学校の門前についてところでライルは立ち止まった。鞄を地面に投げ出し、見上げるようにしてじっと学校を眺めた。
「…………」
逃げ出そうかと一瞬考えた。彼にとって学ぶということはそれほど苦しいものだった。できることなら一生楽して生きていたい。毎日ご飯を食べるには苦労せず生きていける程度の金を稼いで、誰にも関わらないよう自由に暮らしたい。彼はそんな夢も希望もない思想を持ち合わせた少年だった。
――母親のようにはなりたくなかったから。
ただ、今逃げたところで現実から逃げられないのは彼もわかっていた。
「逃げるなら今のうちじゃぞ」
「うわっ!?」
いつのまにか彼の隣には人が立っていた。あまりに突然のことでライルは思わず
叫んでしまう。
「なんじゃ、そんなに驚かんくてもよかろう」
「え、あ、はい」
冷静になってライルは改めてその人物を見つめた。自分よりも一まわり大きい背丈の老人。白い顎髭を伸ばし、全身を黒いローブで包んだいた。その風貌はどこか威厳を感じさせるものであった。ライルの様子を気にも留めないまま老人は再び口を開く。
「学校に入るの嫌か?」
「嫌っていうか……」
ライルは言葉をすこし詰まらせ、目線を逸らした。現在の状況に加えて、見知らぬこの老人に自分の気持ちを打ち明けたところで何が変わるわけでもない。好きなように話して嫌われたり白い目で見られたりするようなことになれば、それこそ彼にとっては無用なめんどくささに繋がりそうだった。
そんな彼の様子を見て老人はニコリと笑った。
「安心せい!おぬしが何を話そうと男同士の秘密にしたるわい!」
「お、男同士の秘密って」
老人の積極性にライルは根負けするように話し始める。
「この地に生まれたからって地上の人間を導くとか、神に選ばれる創世の子とか、なんか傲慢で違和感を覚えるというか……」
「傲慢と来たか!ハハッ!これは面白いのう!」
老人の反応はライルにとっては意外なものだった。
「怒らないんですか?こんな教えに歯向かうようなこと言って」
「なぜ怒るんじゃ。若者の正直な心が見られたというのに」
ライルはあっけにとられた。
「それに、おぬしの言うことはもっともじゃ。突然知らない人が現れてあなたを導きますなって言われても普通は塩まかれるのがオチじゃろうな。ただ……」
「ただ?」
老人は長い白髭をスリスリと触りながらライルの顔をまっすぐ見て優しい声で続けて話す。
「ただ、人には信じることで開ける道があるのも確かじゃ。誰かにすがり、信仰し、希望を見出す。それで絶望が希望に変わることもある。わしらはその手助けをするだけの力があるのじゃよ」
ライルは少し眉をひそめ、老人に向かって言葉を発する。
「……でも、それって俺たちが正しい人間であるという前提ですよね?俺たちは信仰されるほどの聖人なんですか?」
「ほぉ、聖人か……」
ライルの言葉に老人は困った表情を見せながら少し髭を触った後、再びニッコリと笑って答える。
「わしにはわからん!ガハハハ」
「えぇ、そんな無責任な……」
「そりゃそうじゃろ、自分の人生の意味すら完全に理解できんというのにこの大地の人間全員の正当性なんてわかるかい!アルテリア様にでも聞いとくれ、ガハハハ!」
「はぁ」
あまりにも投げやりな言葉にライルは落胆してしまう。このまま話しても仕方がないと思い、転がっている鞄を手に取って老人を背にして歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待っとくれ!」
「まだ何か用ですか?」
呼び止められたので仕方がなく振り返る。見ると老人が手のひらに何かをもって差し出していた。
「それは何ですか?」
「このままおぬしを目標のない道へ歩ませるのも忍びないしな、少しばかり占いでもしてみようではないか」
「占い?」
「そうじゃ、この容器の中身をじっと見つめてみなさい」
老人に言われた通りライルは差し出されたものを見つめた。見ると、透明の瓶のような保存容器に薄緑色の液体が満たされている。そして、その中には球体が浮かんでいた。球体は液の中でゆっくりと回転し、裏側が見えるとライルはその球体が何なのかを理解した。
「ひ、人の目!? 」
目が合った瞬間、背筋が凍るような感覚に襲われる。死体から抜き取ってすぐに保管したのだろうか、瞳の周りの血管が無数に浮き上がったままだ。ライルは老人に対して初めて恐怖した。だが、何故かその球体から目を逸らすことはなかった。
「おぬしはこれを見て何も感じないか?」
怖いとか、気持ち悪いとか、そう言った感情は彼にはあった。だが、老人の質問の意図はそうではないらしい。
「き、気持ち悪いです……」
「……そうか」
老人はライルの言葉にすこしがっかりした様子だった。球体の入った容器をさっと袖の中に隠してしまう。
「おぬしは創世の子ではない!ガハハハ!」
「はい?」
老人はさっと背中を向けて歩き出し、別れ際にこういった。
「じゃあの、少年。母親のように勉学に励むのじゃぞ」
老人のその言葉にライルはピクッと反応する。母親という言葉に。
「また母さんかよ……」
苦虫をすりつぶすような表情をみせたままライルは荷物を抱え門をくぐった。