プロローグ 光を失った日
メイ・シュタイン。創世の救世主と呼ばれた母さんはこの天空の地の誰もが信頼する善人で、とても優秀な伝道師だった。自分の優秀さをひけらかすこともなく、いつも他の誰かの笑顔の為に自らを犠牲にする人だった。俺が生まれてすぐに父さんが死んだらしいが、母さんはめげずに俺を育てた。そんな母さんを俺は誇りに思い、自分もこんな風になりたいと思っていた。
「ライル、誰かの為にしたことはいつか自分に返ってくるのよ。だから優しい人間になりなさい」
夜な夜なアルテリアの絵本を読み聞かせながら母さんはいつもそう語っていた。俺はいつも大きく頷いて、母さんはそれを見ていつもニッコリ微笑んでいた。その暖かな空間は八年経った今でも忘れていない。
ある日、俺は外で友達と遊んでいた時に転んで膝をすりむいてしまった。血が流れたその足を引き吊りながら家に帰ると、俺の足を見た母さんが血相を変えて慌てて駆け寄った。母さんはそっと両手を傷跡に近づけて、祈るようにして目を閉じた。次の瞬間、淡い光が俺の膝を包みだし、見る見るうちに傷が癒えた。完全に傷が塞がったのを確認したら母さんはいつものようにニッコリと笑いこう言った。
「さぁ、明日からも元気に走り回って傷をつけてきなさい。どんなことがあってもお母さんが治してあげるから。」
ちょうど俺が六歳になったころ、母さんが地上に降りることが決まった。この天空の地・ロルノティアで伝えられている教えと、アルテリアの力とやらを使って地上の人々を救うためにだ。自分にとってはそもそもこの大地が空に浮かんでいることすらよく理解していなかった。なぜなら実際に端っこまで見に行ったわけではないから。それでも、特別な場所であることはいつも教えられていた。
当時の俺は母さんとの別れが悲しすぎて、まだ母さんと別れていないにも関わらず少し母さんの姿が見えなくなると泣くじゃくっていた。俺が騒ぎ出すとどんな時だろうが母さんはすぐに駆け付けてくれた。だけど、どんなに悲しくても、逃れられない運命は確かにある。
その日、何故か朝早くに目が覚めた。いつも母さんが起こしに来てくれる時間よりもずっと前に。ベッドから体を起こして部屋の扉を開けて廊下にでると、心なしかいつもより静かだった。その瞬間、幼子だった自分は悟った。母さんはもういない。
どうしてか、母さんは何も言わずに行ってしまった。対面してお別れすると俺のトラウマになってしまうと思ったからなのか、はたまた何か事情があったのか。どちらにせよ、もういなくなったことには変わりない。俺は泣きそうになった。が、涙が零れ落ちるギリギリのところでこらえた。泣いたって意味ないから。それに母さんを失望させたくない気持ちもあった。だけど、もしかしたら泣けば母さんが駆けつけてくれるかもしれないと一瞬思ってしまい、ダムが決壊してしまう。俺の大きな鳴き声と打って変わって辺りは静かなままだった。
一日中家にこもっていたら、町のみんなが心配してやってきた。どうやら周りの大人たちにも知らなかったみたいで驚いていた。その中でもアリアとローレンはとりわけショックを受けていた。アリアは昔からいつも俺について回っている女の子で、家族同士も仲がいい。それでも彼らにすら伝えられていなかった。
「うぐっ……なんで、おばさん……」
アリアの泣き顔を見て、なぜか自分はホッとしていた。悲しいの自分だけではないとわかったからなのかもしれない。
「ライル!俺だけは……俺だけはずっとお前の友達でいるからな!」
「ローレン……」
涙を流し鼻水を垂らしながら息巻くこの少年はローレン。アリアとローレン、そして俺はいつも一緒にいた。ローレンは何かあるたびに俺に勝負を挑んでくる負けず嫌いなやつだが今日に限ってはその熱さに救われた気持ちになる。
アリアもローレンもよく家に遊びに来ていたからほとんど家族みたいなものだった。誰の母親とか、誰の子供とかそんなのじゃない、全員で家族。きっと母さんも同じように思っていたと思う。
そうこうしていると誰かがもう一人家の扉を開けて入ってきた。
「こんにちは、ライル君」
自分に話しかけてきたその人は、丸眼鏡をかけ、よぼよぼなシャツを身にまとい、ボサボサの髪を手で押さえていた。
「えっと……」
正直、知らない人だった。母さんの知り合いだろうか。
「あははは、いつも引きこもって研究ばかりしているからね。知らなくても無理はないよ。でもこの子なら知っているんじゃない?」
その言葉ともに彼が横にそっと移動すると隠れていた女の子ができた。彼の言う通り、この子は見たことがあった。
「僕の名前はベラミルージ。そしてこの子はソフィア。僕は君のお母さん、メイとは同級生でいつも一緒にいたんだ」
「ベラミルージさんと、ソフィア……ちゃん」
ソフィアというこの子はちょっぴり有名人だった。何せいつも本を何冊も抱えて街を歩いていたから。家の中で本を読めばいいものを何故か木の下とか、噴水の近くとか外で読んでいた。そんなちょっと変わった子ということ以外は特に知らないけど。
「僕に似てしまったのか誰とも話さずにずっと本ばかり読んでいてねぇ……そこで相談なんだけど……」
「相談ですか?」
「ライル君、ぜひわが娘の親友になってくれ!」
「し、親友!?」
「ちょ、おおおおおおお父さん!?」
ベラミルージさんの言葉に驚かされる。が、それ以上に驚いたのはソフィアという少女がこんなにも大きな声を上げたことだった。
これがきっかけとなって俺はベラミルージさんの家で世話してもらうことになった。初めはアリアがうちに来なよって言って聞かなかったけど、それだけは嫌だった。普段身近にいる人たちに優しくされると、同情や哀れみの感情を強く意識してしまいそうだったから。その点、ベラミルージさんのお誘いは嬉しかった。彼らとの希薄な関係性は当時の自分にとっては好都合だったから。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ソフィアの家にやっかいになってからの毎日は笑顔の絶えない日々だった。
ベラミルージさんは自分のことをベル呼ぶように頼んできた。ベルは毎日くたびれた様子で家に帰ってくる。研究がよほど困難なものらしい。それでもベルは母さんと同じようにいつもアルテリアの話を笑顔でしてくれた。300年以上前聖神アルテリアが邪神イムガルデとの決戦に勝ち、その身をロルノティアへと捧げ、この大地が天空へと昇った、そんな伝承を。
「アルテリア様はねぇ、今も生きているんだよ」
「もぉ、お父さんったらまたその話?」
晩御飯になると彼はいつもそう言っていた。アルテリアはまだきている、と。子供のようにスプーンを天に掲げ熱弁していた。もちろん実際に存在しているって意味じゃない。今も俺たちの生活を支えてるとか、平和を守ってるとかそんな話だ。毎度毎度言うもんだからソフィアですら愛想をつかしていた。そんなベルを見て、すこしちょっかいをかけてみたくなった。
「アルテリアなんて実際いるわけないでしょ、馬鹿馬鹿しい……」
俺がそういうと、その場の空気がピタッと氷のように静止した。しまった、言い過ぎたか?
内心の焦りを隠せないほど動揺したが、ベルはそんな俺にこう言った。
「いや、アルテリアはいるよ。僕はこの目で見たんだ」
「……この目で見た?」
不思議そうな表情で彼を見つめると、笑顔になって話してくれた。
「そうさ、僕は見たんだ。君の母親、メイの中にアルテリアを!」
「母さんの、中?」
彼のその言葉を聞いた時、母さんによく傷を治してもらっていた日々を思い出した。母さんが特別な存在だということも同時に。忘れようとしても決して忘れることのできない母に対する気持ちは日に日に大きくなっていた。
「母親に会いたいかい、ライル」
俺は小さく頷いた。それ見てベルはこう言った。
「安心してくれ、僕が君と彼女をもう一度会わせる」
「連れて帰るって、まさか地上に降りるの?」
「……あぁ、今日通達があった。どうやらメイにトラブルがあったらしい。助けに行くことになったんだ」
表情を急に曇らせ、少しうつむきながらそういう彼の言葉には後ろめたさのようなものを感じた。直感的に、彼は何かを隠しているのかと気づいた。その何かを知ることは彼が地上に降りるその日までついにわかることはなかった。
数日後の早朝、本を大量に鞄に詰め込んだベルを俺は眠い目をこすりながら手伝った。母さんのこともあって、ベルにはどうしようもなく期待してしまっていたから自分にやれることは何でもやりたかった。パンパンに詰め込んだ鞄を背負い、ベルと一緒に家を出た。
道中はこの一年の話をあれこれ話した。別に特別なことなんてない、他愛もない話を。
母さんの時とは違い、ベルが地上に降りる時はみんなでお見送りした。大勢に見られて恥ずかしそうな彼を見るのは少し面白い。
「や、やめてくださいよ。すぐ帰ってくるつもりなんだし」
「お前そんな強がりやがって、普段は本ばっか読んでる根暗の癖に。ほんとは怖いんだろ」
「そ、そんなことないよバロン」
からかっているこの人はバロンさん。母さんとベルとは同級生だったらしく、今は聖天なんとやらで色々やっているらしい。暗く深い紫の髪ときりっとした目つきは少し怖いけど、ベルとこんなに仲がいいのなら悪い人ではないと思う。
「……ベル、《《必ずやりきるぞ》》」
「あぁバロン。メイのためにもな」
そう言った後、ベルは地上への門へと向かった。
――そして最後のその時までお見送りの場にソフィアが来ることはなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「おい!ベラミルージが帰ってきたぞ!!」
街の大人が慌てながら家の扉を開けてそう言った。ベルが旅立ってからわずか3日、彼はロルノティアへと帰ってきた。
「すぐとは言っていたけどまさかこんな早く帰ってくるなんて……」
その時、彼との会話を思い出した。
――安心してくれ、僕が君と彼女をもう一度会わせる
母さんがいなくなってから1年、大切な存在がいなくなった時の辛さを痛いほどわかった。でももう、そんな気持ちを抱えずに済む。そう思うと高鳴る気持ちを抑えられなくなり、思わずニヤけてしまう。
ふと周りを見るとソフィアの表情が目に入った。彼の父親が帰ってくるというのにあまり嬉しそうではなかった。
「どうしたんだソフィア、ベルが帰ってくるんだぞ」
「……うん」
「……?」
椅子に座ったままじっと本読んでいる。そういえばベルがいなくなってからソフィアはずっと、ある本ばかり読んでいた。深い茶色の表紙に薄い金色の刺繍の入ったその本をソフィアはこの3日間誰とも話さずに読んでいた。あまりに気になったのでゆっくりソフィアの後ろに回ってこっそり覗き込んだ。見えたのは、何も書かれていない真っ白なページだった。俺の気配を察知してかソフィアが話かけてきた。
「ライル、この世には知らない方が幸せなことってあると思う?」
「なんだそれ」
「パパが言ってたんだ、知らない方がいいこともあるし、知ったとしてどうしようもないこともあるって」
そう言って本をぱたりと閉じて振り返ってきたソフィアの表情は真剣そのものだった。曇りなき眼でこちらを見つめてくる。ベルがそんなことソフィアに言ってたのか。
「知らない方が幸せかどうかなんて、知らないとわからないからなぁ……」
「いいから答えて」
ソフィアの問いに頭を抱えながらも思い浮かんだ言葉をならべる。
「まぁ、知った瞬間は嫌になっても何年か経ったら良かったと思えるかもしれないだろ」
「良かったと思える、か……」
俺の返答に納得したのかしてないのかよくわからない反応だった。
「おいお前たち、何してんだ早くベルのとこにいくぞ!」
街の大人に連れられるままベルの所に向かうために家をでる。だけど、ベルはもう家の近くまで来ていてその姿が遠くからでも分かった。そして、彼は何かを抱えていた。ベルがだんだん近づいてくるにつれてその何をハッキリと認識する。見覚えのある服装、いつも包み込むような優しさのあった手、そうそれは、この一年間ずっと会いたかった母さんだった。
だけど、その大切な母さんの身体には――首がなかった。
「え、あ、え」
脳が目の前の光景を拒否している。認めたくない事実に。逃れられない運命に。
――この世には知らない方が幸せなことってあると思う?
「うぇ、あ、ソフィア……?」
ソフィアの言葉が頭をぐるぐるめぐる、ソフィアは知っていたのか。だとしたらなぜ……。
ベルはゆっくりとこちらに近づいてくる。一歩、また一歩と。そして俺の横を通り過ぎる瞬間にこう呟いた。
「……ライル、すまない」
俺をその日、神を信じるのを辞めた。