2 GO WEST
セラフィムはもう一度準備が整っているかどうか確認した。二泊三日の予定なのに大騒ぎであった。チェックリストをよく見て、不足のものがないかどうか調べる。それから手配した人員が足りているかどうか頭の中で整理した。
「一緒に行くのがわたくしと姫、それからサンダーさんとワンダさん。留守番がサーキュラーさんとファイさん、それにグランデさん。同行する近衛が二十名、移住者が三十名。で、近衛と移住者は人界に戻ってしまうので、帰りは荷馬車一台にして戻る、と」
そんな感じですかね、と彼はつぶやいた。あと伝令兼監視をサーキュラーが手配しているはずである。魔界で何かあった時にすぐさま人界から戻れないと危険だ。セラフィムは次のメモを見た。
「伝令の名前がハエトリさんですね。わたくし、この方知りませんが引き合わせてもらえるんですかねえ」
メモの名前は新人だった。彼はサーキュラーと伝令について打ち合わせようとして、今日は外出していることに気がついた。なんでも大事な用らしく連絡を受けると急いで出て行ったのである。戻りはいつか分からなかった。仕方なく彼は魔王軍統括総司令本部に行き、そのドアを叩いた。
「失礼します」
返事がない。彼はドアを開けた。誰もいなかった。
「なんですかね、もう」
それぞれの机の上は散らかっている。部屋にいないだけで皆、城内のどこかにいるようだった。セラフィムは諦めてハンスを探しに行くことにした。ハンスは庭師見習いだが、最近はサーキュラーのおやつ係も兼ねている。
「あ、ハンスさん」
彼は庭師のゴーレムと作業をしていた。なんですか、とハンスが作業の手を止めてやってくる。セラフィムは簡単に用件を伝えた。
「サーキュラーさんが来たら、わたくしがハエトリさんと会わせてほしいって言っていたと伝えてもらえますか。顔を知らないとまずいので」
「分かりました」
サーキュラーはこの城に来ると、まず最初にハンスのところにやってくる。そして箱いっぱいのコガネムシだのコオロギだのを受け取るのだ。つい先日はタガメであった。そのタガメをクッキーのようにかじっているところに、セラフィムはうっかり出くわしてしまった。
「いつ出かけるんですか」
「明日の昼です」
「じゃそれからしばらくずっとサーキュラーさん、ここにいるんですか」
「そうなりますね」
ハンスはため息をついた。あの、とセラフィムにこぼす。
「箱いっぱいに虫を取ってくるってけっこう大変なんです。時間もかかるし。どうにかなりませんか」
サーキュラーは暇だとその箱を持って、敷地内にある古い物置小屋にこもってしまう。そして天井付近に網を張って寝転がり、おやつを食べながら半日以上もそこで遊んでいるのだ。
「自分で取らせたらいいですよ。どうせ暇ですから」
セラフィムは言った。はあ、とハンスはまたため息をついた。
「言ってやってくれる人じゃないです」
それもそうであった。セラフィムは頑張って下さい、とハンスに言うとまた自分の仕事に戻った。
そのサーキュラーが戻ってきたのは昼過ぎであった。セラフィムは司令本部に飛び込み、伝令と会わせてくれるように頼んだ。
「あ、ああ。そうだな」
サーキュラーは少しぼんやりしているようだった。珍しいことである。箱に入っているマメコガネをぽりぽりやりながら、彼はおい、とその辺に大声で言った。すると天井付近からぴょんぴょんと何か黒いものが跳ね飛んできて、彼らの足元にうずくまった。
「お呼びですか」
立ち上がるとそれは、真っ黒い毛皮を着ぐるみのように着込んだ少年だった。上下つなぎであり、顔だけがかぶりものから出ている。顔の半分くらいありそうな大きな黒い目をしていて、まばたきをするとその目がなくなって変な感じになった。
「セラ、こいつがハエトリだ。なかなか有能だぞ」
ハエトリはセラフィムに丁寧に挨拶をした。
「新しく配属になったハエトリです。よろしくお願いします」
少々戸惑いながらセラフィムは右手を出した。
「近衛隊長と魔王様の侍従を務めているセラフィムです。こちらこそよろしくお願いしますね」
ハエトリが目を見張る。それからサーキュラーを振り向いた。
「この方がセラフィムさんですか」
「そうだ。電撃を食らわないように気をつけろよ」
サーキュラーが言った。マメコガネをぽりぽりやりながらである。一方のハエトリはセラフィムの右手をつかみ、ぶんぶんと振り回して握手をした。
「なんですかそれは。危険人物みたいに言わないで下さい」
セラフィムはあきれてしまった。ただでさえ忙しいのにつまらない冗談にかまっている余裕はない。彼はもう一度ハエトリの顔を確かめ、それから司令本部を出ようとドアを開けた。
するとサーキュラーが後ろから言った。
「セラ、ウリエルって知ってるか」
一呼吸おいて彼は振り向いた。
「知ってますよ」
浮かない顔でサーキュラーはマメコガネをつまんでいる。ハエトリはもういなかった。
「ずっと煉獄にいたヤツなんだが、スパイを申し出てきやがった。どんなヤツか少し教えてくれ」
セラフィムは正面に向き直った。
「あとミカってどんなやつだ。知ってるか」
ショックを表に出さないように、セラフィムはまた一呼吸置いてサーキュラーの顔を見た。サーキュラーは続けた。
「新しい天軍長候補だそうだ。お前と同じくらいおかしいって話なんだがほんとか」
セラフィムはサーキュラーの顔を見た。マメコガネはもう半分くらいなくなっていた。
「もっとたちが悪いですよ。御使いですからね」
ぱたん、とサーキュラーはマメコガネの箱のふたを閉めた。食欲がなくなったようであった。
「後でワンダさんも呼んで話したほうがいいでしょう。今は時間が取れませんので、夜にでも声をかけてくれれば行きます」
「分かった」
ふう、とサーキュラーのため息が聞こえた。セラフィムは失礼します、と言ってドアを閉めた。
セラフィムがサーキュラーの部屋を訪ねたのはもう深夜である。いくら不眠不休でも動けるとはいえ、ここ数日の忙しさはきつかった。なので彼は、すぐ話し合いが終わることを願いながらドアを開けた。
「失礼します」
「おう。待ってたぞ」
何かには水精将のワンダもいる。セラフィムが言ったとおりにサーキュラーが呼んだらしい。遅いわね、とぶつぶつ言いながら彼女はセラフィムのことを見た。
「じゃ早速だが話してくれ」
彼が中に入るとサーキュラーが言った。まず最初は、とセラフィムは話し出した。
「ウリエルさんですね。彼はわたくしが煉獄に繋いだんです」
「なんでだ」
困ったようにセラフィムはサーキュラーを見た。
「あれは目に余ると言われまして……本当はどうでもよかったんですけどね」
勝手にさせるな、そう言ったのは唯一神であった。セラフィム自身は天軍長という役職を持っていたものの御使いのことなどどうでもよく、むしろ彼らを締めるのは唯一神だと思っていた。なぜなら御使いは唯一神の被創造物だからである。
「放っておいたらおおっぴらに禁輸品の売買をやりはじめたので、さすがに言われました」
その禁輸品もたいした量ではなかった。ただ目立ったので仕方なく彼はウリエルを断罪し、門番として煉獄の入口に繋いだのである。
「なんであんなところに繋いだんだ。通路のど真ん前じゃねえか」
サーキュラーは言った。やっぱり、とセラフィムは思った。
「お知り合いでしたか。まあそうですよね」
門番なのであえて正面入口に置いたのだが、最初、唯一神からは奥の独居房に罪人として繋げと言われていた。しかしおとなしくしているとは思えなかったので、彼は唯一神を説得し、保安のためと称してウリエルを正面の門柱脇に繋いだ。何もないと何かやらかしそうだったので、彼のために小さな掘っ立て小屋も用意してやった。
「御使いのくせに通るたびに俺に話しかけてきやがった。煙草くれとか酒持ってきてくれとか、うるさくてしょうがねえ。夜中通ると鼻歌歌ってたりとかな」
数百年も投獄されていたのにまったく変わっていなかったことを知り、セラフィムはそうですか、とだけしか言えなかった。
「それで今、彼はどうしているんです」
サーキュラーが答える。
「煉獄を出て上にいる。俺のことを呼び出しやがった」
「知ってたんですね」
「お前のことも聞かれたよ。こっちにいるのかってな」
「なんて答えました」
ちらっとサーキュラーはセラフィムを見た。
「いるとだけ言っておいた。確認を取っているみたいだった」
ウリエルは実はかなり鋭いところがある。ただし行動だけを見ているとただの落ち着かないバカにしか見えない。だがあえてそう振舞っているのだとセラフィムは踏んでいた。実際、彼は煉獄にいたために先代魔王の時代にあった大抗争にほとんど参加していない。他の中級以上の御使いがどんどんいなくなっていく中、彼だけが無傷で生き残っていた。
「ミカってのはどんなヤツだ」
これこそ答えにくい質問だった。うーん、とセラフィムは言った。
「強いです。当時は最強と呼ばれてましたね。わたくしは苦手でしたが」
意外、という顔でサーキュラーはセラフィムを見た。
「お前よりも?」
うーん、とセラフィムは言った。
「御使いですからまあ神々とは違いますが……そうですね、実力はともかく勝ちをとりに行く執念がものすごいんですよ」
彼は話を続けた。
「ただ、すぐ突っかかってくるのでやりづらいんです。強いは強いんですが、もめごとも多くて。大変で後半は放置してました」
セラフィムもメンタルがやられてきた頃には構うことができず、何かあってももうほうりっ放しであった。唯一神が彼にきつく当たってきた時期でもあり、そちらだけでセラフィムは手一杯になっていた。
「何度か喧嘩を売られましたがそれどころではなかったですね。どうも天軍長がやりたかったようですけど」
面倒になったので彼は天軍長の職を辞そうと唯一神にかけあったことがあったが却下された。そうこうしているうちに奥神殿に閉じ込められてしまい、彼は智恵の蛇とともに魔界まで落っこちてきたのである。
「サーキュラーさんはミカに会ったことないんですよね。ワンダさん、覚えてますか」
そこにいたワンダに彼は話を振った。あら、とワンダが答える。
「若い子よね。どの子だったかしら」
「茶髪で巻き毛です」
ワンダは考え込んだ。
「いたような気もするわね。黒髪でオールバックの子は覚えているんだけど」
「それ、ウリエルさんです」
なにしろみんな同じ服装なので分かりづらい。思い出せないのでワンダは言った。
「ねえ、何か他にないの。武器が違うとか、何か服についてるとか。正直名札がないと分からないわ」
御使い達は外見がたいして変わらないので、実はセラフィムですらよく見ないと区別ができなかった。ちょっと見ただけのワンダが分からないのも当然ではある。
「武器は槍です。ええと、テーゼ川の前に多分ワンダさんと会ってますよ」
ワンダはセラフィムの顔を見た。なんとか思い出したようだった。
「あの前? もしかして長い青い槍持ってた子?」
「そうです。茶髪の」
ああ、あの子ね、とワンダは言った。
「思い出したわ。くるくるパーマの子ね。生意気だったわ。むかついたから水蛇で吹き飛ばしてやったのよ」
えっ、とセラフィムは言った。予想外であった。
「ミカに勝ったんですか?」
「そうよ」
勝ち誇ってワンダは言った。
「俺は世界一、みたいなことをほざいてるから、襟元の合わせを開けたのよ。一瞬だったわ」
「それだけですか?」
「そうよ」
免疫がないというのは恐ろしいことである。サーキュラーはさっきから話を聞いていたが、酒と煙草に固執するウリエルのことといい、案外と御使い達も苦労をしていると思った。
「それは……知りませんでした。御使い最強かと思ってましたが、ミカの弱点ってそこだったんですね」
艶然とワンダは笑った。そしてセラフィムを指差してこう言った。
「御使いなんてちょろいわよ。このヒトと比べたらね」
「……え?」
サーキュラーはやれやれ、という気分で二人を見た。
「私があの時に負けたのってこのヒトだけなのよ。ほんとに悔しいったらないわ」
仕方ないけど、とさらに彼女は笑った。吸い込まれるような魔性の微笑みだった。