雨宿り
雨だから、迎えに来て。
一
来た。
直感的にそう思った。ぽつぽつと石畳の上に落ちていく雨音の隙間から、ぱしゃり、と水たまりを踏みしめる柔らかな足音が聞こえてくる。あの人だ。姿も見えないうちから女はそう確信する。東屋の屋根の下に、ひょろりとした人影が見えた。
「ああ、おはようございます」
笑って声をかけた青年に女は軽く会釈を返しただけだった。はらりと紺色の傘を閉じたその人は女が返事をしなくても笑みを崩さない。L字型のベンチの先に腰掛けた彼は、荷物を置いた後にノートを広げ、何か書き始めた。東屋の下で物を書くなんて人はあまりいないかもしれないけれど、女にとってはいつもの事である。最初は少しだけ驚いたけど、もう慣れた。
雨の降る、朝だった。この東屋は壁がないタイプだから雨音がよく聴こえる。それでも屋根は大きいから雨粒がこの中に入ってくるのはあまりない。
さらさら、とシャーペンが紙を擦る優しい音が不意に聴こえてきて、女はちら、と文庫本から顔をあげる。向こうは気づいていないようだった。
軒先からする雨だれの音に時折耳を傾けて、思いついたように書き出して、消して。少し考え込んだ後に、また書き出す。先ほどからそれを繰り返している。その様はなんら目立つところはないけれど、それでも静かで美しいと思わせる所作だ。その姿を見て、胸の奥がじくりと疼くのを女は感じ取る。
軒先から、また雨だれが落ちる音がする。綺麗な音だな、と思った。
他人行儀に、それでも人のよさそうな柔和な微笑みをする彼に逢ったのは十日ほど前の事である。
五月最後の週だった。あの日、通っている大学の午前中の講義が突然休講になり、どうしたものかと手持ち無沙汰に近所の公園をぶらついていたのである。市内でも有数の広さと美しさを誇るそこはいつも多くの人がいたけれど、その日は雨が降っていたせいか、ほとんど誰もいなかった。丁度よかった。人混みは苦手だし、なにより今は、あまり人に会いたくはない。そう考えて公園の象徴ともいえる広い湖畔の前を通った時に、東屋に腰掛ける彼を見つけたのだ。
人に会いたくないって思っていたくせに、わざわざその東屋に入っていった理由はなんだったのだろう。それは今でも女はよくわかっていなかった。腰を下ろしたかっただけかもしれないし、パンプスに雨水が染み込んできたからかもしれない。ともかく、雨の降る公園の中、東屋の下で二人は出逢った。ここで終われば、それだけだったのだろうか。
その日から、大学に行く前はこの公園を寄るようにした。
彼はたまに女より後に来るけれど、大半は朝早い時間帯から此処にいる。そして、来るのは雨の日だけだった。理由は知らないので、雨の日の方が公園の人が少ないからだろうか、などと女は推測する。ランニングをする元気な老人。学友と喋りながら通学する中高生に、散歩に来ている親子連れ。この公園は、晴れていれば朝でもかなり人がいる。
最初こそ目立った反応は見せなかった彼も、回数が重なるごとに話しかけてくるようになった。その度に女は一貫して無表情を決め込んでいたが、それでも彼は笑って話しかける。一回、気が緩んで―――― 女は感情が表に出やすいのだ―――― 彼の話に聞き入ってしまったからかもしれない。悔しいことに、彼の話は面白いのだ。饒舌な彼の語りは、穏やかでまろい口調でありながら、間延びしすぎず聞きやすい。しかし、その話し方だけで女の胸は掻き毟られたように痛くなる。
いつだっただろう。彼が落とした消しゴムを拾って渡した時、向こうのノートの中身が見えてしまった。登場人物、あらすじ。女がその文字に釘付けになっていたことに気づいた彼は、珍しく動揺してノートを閉じたのだ。
見ちゃい、ましたか。
しまった、というような顔をする。先ほど言ったように女は感情が表に出やすいけれど、彼も大概である。なんですか、それ。返答は大体察せたけれど聞いてみた。やがて諦めたように、その人は口を開いたのだ。
「小説を、書いているんです」
―――― ああ。疼く胸の奥から何かが漏れる。それを反射的に、女は堪えた。言葉にしては、形にしてはいけないと、ほとんど即断して息を詰める。
目を細めて、頬を少しだけ染めて、恥ずかしそうに、はにかむように、その人は微笑んでいた。おそらく人に言ったことがなかったのだろう。言葉を、息を飲み込んだ女はたどたどしく、そうなんですかとだけやっと言えた。
関東の梅雨入りが発表されたのは、確かその日だったと思う。
「それ、進んでいますか?」
「ん、ん?」
「あの、小説です」
「……あ、ああ。うーん、ぼちぼちですね」
進捗状況を唐突に聞かれた彼は少し驚いたようにこちらを見て、それからまた微笑んで返事をした。邪魔をしてしまっただろうか。少しバツが悪くなって女は俯く。けれどそんな心も青年の穏やかな笑顔を見てまたきゅ、と締められた。
外の明るさが増してきたことをなんとなく感じ取った女は時計を見る。八時半だった。もう行かなければ。ろくに内容が入ってこなかった文庫本を仕舞った女は、桜色の折り畳み傘を開いて東屋を出た。柔く笑って会釈をした彼に、小さく頭を下げることを忘れないで。
濡れた石畳を歩いていると、不意にぱしゃっと足元から音がした。慌てて下を見ると、うっかり水たまりを踏んでしまったらしく、柔らかいベージュのパンプスに泥が染み付いてしまっていた。
やっぱりこの靴、雨には向かないなぁ。ゆっくりと溜息をついてから、女はとぼとぼとまた歩き出す。石畳の左手には、行きでは気づかなかった幾つもの紫陽花が、淡い彩りを雨に添えていた。
二
「今日はお弁当ですか」
傘を閉じて東屋に入ってきた彼の第一声がそれだった。おはようございます。今日も早いですね、と笑って続ける。自作のだし巻きを頬張っていた女はもぐもぐと咀嚼しながら会釈した。
「ご自分で作るんですか?」
「……ええ、まあ」
「凄いですね。自分、料理はてんで出来ないので、羨ましいです」
かく言う彼は、ノートとシャーペン、消しゴムだけを取り出して今日もまたなにかを書き始めた。その様子を横目に、女は昨日の晩御飯の残りである煮物を口に運ぶ。にんじんの甘さがじんわりと口に広がる。
たん、たたん、と水が空から落ちて屋根と石畳を下手くそに叩いていく。湖畔には数多の波紋が描くように広がっていた。朝ごはん代わりだったお弁当を全部食べ終えてから、帰ってからの洗い物が多くなってしまうということにやっと気がついた。そんなどうでもいいことを考えて、ずきずきと疼いている胸の奥の痛みに目を向けないようにする。
「…………ここのところ、毎日此処に来ていますね」
お弁当を片付けて口を拭いて、一息ついてから女は弱く聞いた。どうしてですか、と。問われた彼はといえば、長く豊かな睫毛を伏して少し思案してから、素晴らしく綺麗に笑って、答える。
「雨が、好きで。だから、来ているんですよ」
さあさあ、と。湖畔が雨を受け止める音が柔く聴こえてきた。
「雨、」
「はい。静かだし涼しいし、綺麗、じゃないですか」
お嫌いですか、とこれまたまろい口調で問われる。雨。雨、か。女はひとりごちた。口の中で転がしたその言葉は、反芻させればなんだか不思議な音を持っている。そんな気がした。
「あんまり、好きじゃないです」
さあさあ、と。また、雨が湖畔に溶けていく。溢れるような木の葉が、雨に濡れていく。
答えてすぐに、取り出した文庫本に視線を移したせいで彼の顔は見えなかったから、彼がどういう顔をしていたのか女には知る由がなかったし、なぜだろう、あまり見たくなかったのだ。またあの綺麗な微笑みをしているのでしょう、あの柔らかくて、少し困ったような微笑を、どうせ貴方は湛えているのでしょう。私がそんなこと言ったから。
胸の奥が、また、痛みの呻きをあげた。
「……では、貴女こそどうして、こんな雨の中毎日来ているのですか」
文庫本を捲る手が、今度こそぴたりと止まった。
すうと顔をあげる。案の定、彼は静かな微笑をしていた。黒曜石のような瞳は緩やかに、けれど真っ直ぐ女を見据えている。その色が、怒っているわけでも責めているわけでもないことを女は知っていた。
「此処が、」
雨に濡れて湿った、六月の匂いがする。
「この東屋が、好き、で」
たどたどしく答えた女の口に、苦い心地がこびりついた。見つめられた視線を逸らす。これ以上、その人の目を見ることはできなかった。それに気づかなかった彼は納得したかのようにほう、と小さく声を出した。
水が落ちる、音がする。雨だれが、また軒先から落ちている。
* * *
時計の針が八時を過ぎていたことを理由に、女は東屋から出た。いつもならもう少しいるのだけど、駄目だ。今日はもう、駄目だ。これ以上あそこにいられない。石畳に薄く広がった水たまりを乱暴に踏みしめて、女は歩く。パンプスに泥がついたけれど、そんなもの、いい。いい。いい。
じくじくと胸が疼く。心臓がひび割れて血が滲んで痛みを叫んでいる。そんな心を、女はずっと抱え続けている。もう今日はアパートに帰って布団に沈んで、何もかも忘れて眠ってしまおう。そう考えてから今日がまだ始まったばかりだということに気が付く。嘘でしょう。このまま、このままの状態で息をしなければいけないの。ほとんど絶望的に、女は思う。
知っている―――― 知って、いる。噛み締めた唇から零れる、慟哭にもならない声があった。雨よりもずっと熱を持った何かが、一つ二つと落ちていく。なにを言葉にすればいいのだろう。なにを思えばいいのだろう。あの日に全部捨てたはずなのに、いつまで、こんなことを。
「雨が好きなこと、知っていた」
それだけではない。好きな食べ物、好きな色、好きな本。貴方のことなら、なんでも。料理が出来ないことも、柔い微笑みもまろい話し方も、人の良さそうな綺麗な顔立ちも、シャーペンを走らせる、成人を少し過ぎた男性にしてはちょっと細くて白い指も。小説を、書いているんです。知っている。知っているよ。他ならぬ貴方が、かつて私に教えてくれたのだから。雨の中毎朝、東屋に行く理由なんてそんなの、決まっている。
三
もし、この世から存在が消えることを死というならば、
あの日も確か、雨が降っていた。
百貨店に用事のあった女が雨に気が付いたのは、帰ろうとしていた夕方だった。運動がてら、と思って徒歩で来たのでバスに乗ろうにも所持金は少々心もとない。いつもの折り畳み傘は持ってきていなかった。ビニール傘でも買おうか、と思っていた時にバイブ音が耳に入る。
わざわざ電話なのもあの人らしい。いい加減メールも使えばいいのに、そんな風にひそやかに笑った女はスマホを耳に当てる。
『雨、降っていますよね。帰れますか?』
「うーん、バス代ギリギリなんだよね。小雨だし、なんだったら気合で帰ろうかなとは思っているけど」
『危ないですよ。転んだらどうするんですか』
「どんな印象受けられているんだろう、私。でも家までそんな遠くないし……」
うーん、と思案する声が聞こえてからやがて、彼は仕方がないなあ、と笑って言った。
『いいですよ。迎えに行きます。喫茶店とかでコーヒーでも飲んでいてください』
「そう?助かるけど、なんか、ごめんね」
『いいですよ、でも、これからはちゃんとバスで行ってくださいね』
「はいはーい」
『すぐ行くので、待っていてください』
慌てなくていいのになあ、女は笑って電話の切れたスマホをかばんに仕舞った。コーヒー、この所持金じゃ一番安いやつしか飲めないよ、多分。まあ余裕があったら、彼にも一杯奢っておこう。迎えに来てくれるのだ、それくらいはね。というか、同い年なのだから敬語もやめればいいのに。そう、弾んだ気持ちで女は喫茶店へ向かったのだ。同棲している自分の恋人が、雨の中迎えに来てくれるのを待って。
結論から言えば、彼が女を迎えに来ることはなかった。
百貨店に向かおうとしていた彼は、居眠り運転の自動車に撥ねられた。それを女が知ったのは、待ちくたびれた女が結局一人でアパートに帰宅した後のことである。今から二か月ほど前の話だ。
一報を受けて病院に駆け付けた時にはもう既に処置が終わっていた。命に別状はないと医師から聞かされて安堵したのも束の間、脳に衝撃が残り、約三年間の記憶が失われた可能性があると言われた。三年間。ちょうど、彼と出会って恋仲になった年月だった。
つまるところ、彼は事故に遭ったことで、女との思い出も、想いも、存在すらも全て忘れてしまったのである。
他人になった女はそのまま、入院した彼に見舞いに行くこともしなかった。医師から淡々と告げられたあの日、女はアパートに帰って、自分の荷物を棄てるように段ボールに詰め込んだ。一人暮らしで不自然のないように、彼の記憶と辻褄が合うように。二人の写真、自分の分だけの食器、衣服、寝具、全てを持ち出した。彼のスマホから自分の写真を消した。自分のメールアドレスを消した。通話の履歴を消した。
消そう、消そう、消そう。彼から私を、消そう。その一心で、女は三年間の想いにも、此処にはいない彼にもさよならをして、全てを捨てて、アパートを出たのだ。
軋んだ胸から、痛みがこぼれた。どうしてだろう、涙が止まらなかった。あくる日もあくる日も、女は眠りから覚めるときに彼の温度を捜している。目を閉じたまま手探りで、それで冷えた空気に触れた途端、ああ、そうだ。いないんだったと空虚な寂しさに襲われるのだ。その感情は絶望に程近かった。
生きていて良かったと、うねるような温かさを持つ安堵が心を満たしたのは、事実だ。でもそれだけで、生きていればもうそれだけでいいのだと、心から笑って言えるくらいに強くいられたらどれほど良かっただろう。あの日からずっと、女は悔やんでばかりいる。迎えになんて頼まずに、ビニール傘でも買って一人で帰ればよかった。所持金がゼロになってしまってもバスに乗って帰ればよかった。そもそも百貨店に行くのだって別の日にすればよかった。一人で、雨の中で、たとえびしょびしょに濡れてでも歩いて帰ればよかった。考えても仕方がないのに、それでも悔悟は毒のように女の体をぐるぐると回っている。だから、こうしてたった二ヵ月のうちに巡り逢えるくらいに離れることが出来ないのも、女の甘えだった。
いつだっただろう。記憶を失った彼がこんな話なんですよ、と語って聞かせて、主人公と恋仲の女性の名前が名乗っていないはずの女の名前と同姓同名だと知った時、東屋からの帰り道で女は泣いた。名前だけではない。主人公とその女性がデートする場所やさりげない日常のエピソード。その全てが、あの三年間と酷似していたのである。
なんだ。なんだ――――― 覚えて、いるじゃない。
そう叫んで肩を揺さぶることはきっと簡単だ。でも、でも駄目なのだ。忘れてしまっている。今の彼にとってはそんなもの過去ですらなくて、自分が思いついたってきっと信じ込んでいて。あの幸せだった生活も女の存在でさえも、それらはもう彼のものではない。
雨が止まない。帰ってきてと叫ぶ声が止まない。梅雨はこの間入ったところなのに、女の心はずっと、いつかの春の雨が降ったままだ。
すぐ行くから、待っていてくださいって言ったでしょう。
迎えに、来て。お願いだから。
雨が降っているせいで何処にも動けない中、彼が傘を持って、あの柔らかい声で、笑って、お待たせしましたと来るのを女は今でも夢に見る。そんな温かな夢を見て、醒めた時の凍り付くほど冷たい虚無感と喪失感にまた涙が零れ落ちていた。何処にもいない。貴方がいない。この世界から存在が消えることを死と呼ぶならば、女を愛してくれた彼は正しく、あの雨の日に死んだのだ。
四
女の意識を掬ったのはシャーペンの落ちた音だった。かん、と柔らかな雨音の中響いた乾いた音に、女はぱち、と目をあける。
「あっ……起こして、しまいましたか」
申し訳なさそうなその声が、いつかの日々の中で確かにあった言葉と全く同じだったものだから、一瞬自分が何処にいるのか女はわからなかった。雨の、六月の、あの東屋。そう理解してから漸く自分がうたたねをしていたことにも気が付く。羞恥で少し顔が熱くなった。
幾度か瞬きして、湿った匂いを吸って、なんの夢を見ていたのだろうとぼんやりと考える。懐かしくて優しい温度がしたから、もしかしたらまたあの夢を見ていたのだろうか。でも、どんなに思い出そうとしても記憶に霧がかかっていて掴めなかった。
「あの、」
少し乾いた口から、声が出たのは全くの無意識だった。疑問を投げるのはいつものことであったけれど、今回はどうしてかその言葉の先がゆらゆらと彷徨って、どう続ければいいのかがわからなかった。
その一言を聞いた彼が、なんでしょう、と緩やかに先を促す。女は少し視線を泳がせて、そうして躊躇うように言葉を続けた。
「なんで、小説を書いているんですか」
深く理由は求めていなかった。答えを知らない問いがそれだったものだから、場を繋ぐために言っただけである。
だから、驚いた顔をして、どうしたものかと一瞬口を噤んだ彼に女は気づかなかった。
「思い出したいことが、あるんです」
―――― その言葉の意味を、理解できるまでどれくらいかかっただろう。数秒の後に瞠目して、呼吸すらも一瞬忘れた女に気付かずに、彼は細々と言葉を続けた。
「二ヵ月くらい前に、事故に遭ったんですよ。それで、三年分くらいの記憶がぐちゃぐちゃになっちゃった、みたいで」
どうやら言葉を選んで話しているらしい彼の口調は少したどたどしく、いつも饒舌である彼にしては珍しいことだった。それでも、女は黙って聞いている。
「それで、何を忘れちゃったのかとかも全然、覚えていなかったし、思い出せなかったんです。……忘れちゃってるから、当たり前なんですけど」
湖畔にまた、無数の空の水が溶ける音が、優しく鼓膜を撫ででいく。溢れんばかりの翡翠から、涙を流すように雨が零れ落ちている。
「それで、記憶を辿りながら書いていけば、なにか思い出せるんじゃないかって。可能性なんて凄く低いのはわかっているんですけど、でも、これ以外思いつかないんですよね」
さあさあと、雨の音が聞こえる。湖畔をすうと泳いでいた鴨が、俄かに羽ばたいて飛んでいく音が聞こえる。東屋の屋根を下手くそに叩く音が、草木に跳ねる音が、湖に落ちてまた溶けていく音が、聞こえる。その中でも、彼の声はよく聞こえた。
「……思い、出したいんですか」
「はい。きっと、大事なものだったと思うので」
柔らかな声が、笑みを含んで落ちてきた。とん、と小さく跳ねた心に、彼の言葉が波紋を広げていく。雨が、湖に落ちるように。そんな気がした。
あ、と思い至って時計を見る。八時四十分だった。いけない、一限に間に合わなくなる。慌てて立ち上がった女は、折り畳み傘をさして東屋に出る。出ようと、する。
「また来ますか?」
動きを一瞬止めて、それからゆるりと振り返った。長い足を組み、すっと伸びた美しい姿勢で問いかけた彼の目が見える。―――― その瞳の奥に、かすかな、けれど確かな熱が見えたのはその時だった。
(あ、)
声には出さずに、言葉にはせずに。息だけを小さく、短く吐いた女はそうして、理解した。
ああ、ああ―――― なんだ、
「はい」
口角が、上がる。
「貴方が来るのなら」
少し驚いたように、彼は美しい瞳を瞠目させた。けれどそれも一瞬のうちに過ぎて、なら、俺もまた来ますね、と照れたように笑う。自分、とか私、と格式ばった言葉でなかったのが嬉しかった。身内以外には同じ年であっても堅い敬語が抜けなかった彼が、こうして少し砕けた物言いをするのはかつての女だけだったから、だからこうして、そんな口調を受けて弾んでしまっている己の心を見て、漸く女は自覚する。
どうしようもなく、堪らなく、いとしいと思った。
かつて自分の名前を呼んでくれたその声が、以前、冷えていますね、と自分の手を摩ってくれたその優しい手が、人の良さそうで、でも意思をしっかりと持った柔らかな微笑みが、彼の全てが、いとしかった。いつかの温もりが、温めていくように女の心を満たして、解いて、溶かしていく。うっかり形にならない言葉が零れそうになるのを、やっと女は堪えた。
勿論、胸の疼きは止まらない。慟哭も止まらない。涙だって止まらない。でも、それでも、ひび割れて痛みに塗れた心の隙間から溢れ出てくる愛があった。彼を愛している。忘れられても、思い出されなくても、女は彼を愛していた。ずっとずっと。なんにも捨てられなかった。きっと、女は何一つ失ってはいなかったのだ。
だからもう一度、彼と逢って、話して、笑って、名前を呼んでもらおうか。かつて愛した人を。今恋している人を。我儘なのは自覚していた。忘れられたという事実は痛かった。それでも、彼がまた自分に微笑んでくれることが、やっぱりどうしても、嬉しかった。葬り去れなかった愛を、また此処で。止まなかった雨だって、きっともうすぐ晴れていく。
『雨上がり』
―――― ずっとまえからすきでした。
紫陽花の花弁から雨粒が零れ落ちた水無月の朝、雨上がりの東屋に腰掛ける女性と、そこに歩んでいく男性がいた。温めるような優しい声で何ごとかを言った、訪れた男性の言葉は湖畔の水が跳ねた音に絡まって消えていく。一瞬驚いたように息を詰めて、それから泣き出しそうな瞳で破願した女性は、探し求めていた温もりに漸く手を載せた。