無償の愛
ユノは枝を使って、屋敷の塀を殴り付けていた。
「このっ!バカ!あんたから同情なんかされても、一銭にもならないじゃない!貴族ならともかく!」
ユノはとても腹を立てていた。
娼婦と聞いて馬鹿にされるならともかく、エドワードは同情をした。庭師なんてそれ以上になることもない職業のくせに、ユノを心の底から可哀想だと思いやがった。ユノにはそれが許せなかった。
「なによ!あたしはあんたよりも出世して、顎で使ってやるんだから!覚えておきなさい!」
ブンと枝を塀に叩きつけると、バキッと折れて吹き飛んだ。短くなった枝を一瞥して、新しい枝を手に入れようと振り返る。すると、少し離れたところでドーランがユノのことを見ていた。
「な、なによ」
つぶらな瞳をぱちぱちと瞬かせるドーランに、ユノはバツが悪くなって勢いを失う。
チラチラと顔色を窺うと、ドーランは目尻の皺を深くして笑った。
「これは。思いの外逞しいお嬢さんだ」
ユノは顔を赤くさせた。しかしすぐにフンと鼻を鳴らし、澄まし顔を作る。腕組みをしながら、無意識に左肩に触れていた。
「エドの代わりに謝りに来たんでしょうけど、心配しなくても旦那様に告げ口なんてしないわ。…………殴って悪かったわね」
「いえ……。奥様が謝られることは何もありません。あれは人の繊細な気持ちなどまるで解さない、粗雑な男ですから。罰ならばこの老いぼれがいくらでも引き受けましょう」
「………………」
ユノは親というものを知らない。だから、エドワードのしでかした責任は自分のものだと言うドーランのことが、よくわからなかった。
「それ、本気で言っているの?」
指先で左肩を撫でながら尋ねる。
ドーランは、何かを慈しむように目を伏せた。
「ワシは老い先短い身です。この身がどうなろうとも今更構いますまい。しかし、あの子はまだ若い。その行く末を案じてしまうのは、親のさがというもの」
「………………」
エドワードはまだ半人前だ。加えてあの性格ときたら、弟子に取ってくれるところはなかなか見つからないだろう。だからドーランはエドワードのためにも、まだこの屋敷から追い出されるわけにはいかないのだ。
ユノはムスッと唇を歪めた。
この身一つで生きてきたユノには、ドーランのように無償の愛をくれる存在などいなかった。ユノを守ってくれるのはいつだってユノだけ。だからユノは自分自身のことを深く愛している。
「…………心配しなくとも、もうあなたたちに会いに行ったりしないわ」
ユノはドーランに背を向けて、さっさと屋敷の中に入った。ドーランもエドワードも、もう視界に入れたくないと思った。
誰かを羨ましいと思うのは、随分と久しぶりだった。
エドワードが羨ましい。心配されて、守られて、愛されているエドワード。
ユノはどんなドレスも宝石も手に入れてきたが、それはユノが一夜の楽しい時間を創造したからだ。ユノが金を持たない男を相手にしないように、男達もユノが美人でなければ見向きもしない。ここには明確な等価交換がある。
どんなに努力しても手に入れられないものというのは存在する。この先絶対にユノが手に入れられないものを、エドワードは持っている。通りで同情されるわけだ。
ユノは自室に戻ると、ベッドに飛び込んだ。体を包み込むように沈むベッドの心地良さも、今のユノの心を満たしてはくれない。
「あたしは幻想を追いかけたりしない。これが結果よ。あたしは間違ってない。絶対に、あたしの方が幸せな人生を送るの」
ユノは自分に言い聞かせるように呟いて、薬指にはめられた指輪を撫でた。光を反射させてキラキラと眩い輝きを放つ真紅の宝石。うっとりするほど美しい宝石。一生かかってもエドワードには手に入れられっこない。
惨めだ。なんでこんなに惨めなんだろう。
ユノは指輪を抱きしめて、体を縮み込ませた。そうしなければ、自分の体がバラバラになってどこかに行ってしまいそうだった。
「愛しているわ、アルベルト様……あたしにはあなたしかいない……」
赤眼の魔術師などどうだっていい。心を操る?やれるものならやってみろ。ユノにとって大切なのはユノだけだ。アルベルトがダメならば他の貴族に取り入ればいい。ユノはまだ若く美しいのだから、何度だってチャンスはある。
ユノは左肩を撫でて、目を閉じた。少しだけ眠ろう。
この日もユノは一人で夕食を終えた。
寝支度を整えてもアルベルトは帰ってこなかったため、ユノは自室にフェリを呼び付けた。
「フェリは字を書けるのよね?」
「はぁ……まぁ……」
フェリは視線を下げたまま曖昧に頷く。書けるのならなんでもいい。ユノはにんまりとはにかんだ。
「ならアルベルト様宛に一筆したためてくれないかしら?」
予想外のユノの頼みに、フェリはギョッと目を丸くした。
「旦那様に、ですか……?」
「そうよ。今朝アルベルト様が残してくれた手紙みたいなものを、帰ってきたアルベルト様に贈りたいの」
「まぁ……!」
フェリはパッと顔を明るくさせて、口元を手で覆った。
ユノがキョトンと目を丸くすると、フェリは慌てて感情を押し殺す。フェリは胡乱な眼差しを向けるユノから逃げるように頭を下げて、「紙とペンをお持ち致します」と言って部屋を出て行った。
程なくして戻ってきたフェリに、ユノは注文を出していく。
「宛名はアルベルト様でいいわ。次には疲れているアルベルト様を労る言葉を入れてちょうだい。それから帰ってきてくださらないアルベルト様に不満を投げかけて、最後に可愛くおねだりするのよ」
娼館で稼ぎ頭だったユノは、客からたまに恋文を送られることがあった。読み書きができないユノは、主人の雇ってきた代筆を専門とする業者に手紙の返事を書かせていた。
それらを専門とする業者がいるくらいだから、手紙を書くには技術がいる。しかし、フェリはすんなりとペンを走らせていった。
ベッドに腰掛けてその様子を眺めていたユノは、ちょこちょことフェリに近付いて背後から手元を覗き込む。レースのような美しい便箋に、さらさらと文字が並んでいた。
「少々お待ちくださいませ。……ふぅ。やっぱりここはこっちの方が…………」
フェリは頭を悩ませて、新しい便箋に文字を書き始めた。
「やっぱりこうね。…………奥様、完成いたしました」
フェリは自信満々に頬を緩めて、ユノに手紙を差し出した。フェリは立ち上がると、手紙の内容を暗唱していく。
「『アルベルト様
夜更けまでこの国のために尽くすアルベルト様は、なんとご立派なのでしょう。そんなあなた様を置いて今日も先に眠りに着いてしまうことを、どうかお許しください。
私はあなた様の香りの残るベッドで、一人眠っております。昨夜あなた様が分けてくださった温もりも、今やすっかり冷えきってしまいました。
あなた様のお心に私が少しでもあるのならば、一目でも私にお姿をお見せください。私が求めるのは、それだけでございます。
あなた様のユノ』
…………こちらでいかがでしょうか?」
気持ちよく読み上げたフェリは、途端に不安げに眉を下げてユノの顔色を窺った。
ユノは手紙を見つめながら、ぽすんとベッドに腰を下ろす。
「フェリ…………あなた…………」
「は、はいっ」
「手紙書くの上手いのね…………」
ユノはぱちぱちと目を瞬かせた。
ぽかっと口を開けたフェリは、次には満足気にニッコリと笑った。
「長年、若いお嬢さん達の恋文のお手伝いをさせていただいておりましたから」
本来のフェリの性格を取り戻した顔は、いつも見ているより何歳か若く見えた。
この屋敷の使用人達は皆それなりに苦労をしてきた顔付きをしているが、根底には善良な性質がある。他人への思いやりや、優しさなどというものがある。それらは心の豊かさがなければ持ちえないものだ。
アルベルトの存在は、それらを押し潰して無個性な人間へと作り替えている。善悪の判断はユノには付けられない。しかし、無償の優しさを向けられると、どうも胸が落ち着かないのは確かだ。
フェリが自身の評価のために手紙を書いたのならまだ理解できた。しかし、どうもフェリはそういうわけではなさそうだ。人に尽くすこと、喜ばせることに価値を見出している。まるで、他人の幸せが自分の幸せでもあるかのように。
「…………。フェリは子供っているの?」
「はい。息子と娘が一人ずつおります」
子供に囲まれて温かな家庭を築くフェリの姿を想像するのは、実に容易だった。きっと二人ともフェリと同じピンクの髪と黒い瞳をしているのだろう。
「もう下がっていいわ。ちゃんと手紙を届けてちょうだいね」
急に素っ気ない態度をとるユノに、フェリは僅かに目を見張った。しかしすぐに表情を消してお辞儀をすると、静かに部屋を出て行った。
一人になったユノは、ベッドに倒れ込んだ。
早くアルベルトに会いたい。アルベルトに会って安心したい。自分は自分のままでいいと肯定したい。
ユノは指輪を握りしめて、ぎゅっと目を閉じた。