赤眼の魔術師
魔法などという不可思議な力が存在するのは、貴族の世界だけだ。
そのため娼婦街で生まれ育ったユノにとって、魔法というのは別世界に存在するものという程度の認識だった。ユノの周りで魔法を使う人間など誰もいない。
娼館で雇われて上流貴族の相手をするようになってからも、ほとんど生殖機能を失って欲だけが膨れ上がった年寄りの相手ばかりだった。魔力は加齢と共に衰えていくものらしい。ユノに魔法を見せる貴族は誰もいなかった。
だから、赤眼の魔術師と言われてもピンとこなかった。
確かにアルベルトの瞳は血を凝固したような深い赤をしている。しかしそれが何かを示しているとは思いもしなかった。バラが赤いように、宝石が赤いように、アルベルトの瞳もまた赤いのだと思っていた。
「魔力を持つ者の中でも、赤い瞳を持つ者は特別に強い力を持っていると噂されております」
フェリの伏せられた瞳をまじまじと見つめる。フェリは青みがかった黒い目をしていた。
「赤眼は、とても強いってこと?」
ユノが問うと、フェリは諦めたようにすらすらと言葉を吐き出した。
「膨大な魔力を生成出来ることに加え、何でも人の心を操る力を持つそうです。旦那様はその力があったからこそ、今の地位を築けたのだと…………そう噂されております」
いまいちピンとこない話ではあったが、何故アルベルトが使用人達から極度に恐れられているのかはなんとなくわかった。みなアルベルトの力が、赤い瞳が怖いのだろう。
「でも、アルベルト様はあんなに優しくて紳士的じゃない。そんなに気にすることかしら?」
ユノが小首を傾げると、フェリは困惑したように目を泳がせた。
「奥様がいらしてからの旦那様は、まるで…………いえ……」
途端に言い淀むフェリに言葉をかけようとしたとき、ユノのお腹が空腹をうったえて大きな音を鳴らした。ユノがお腹を押さえると、フェリはホッとした様子で着替えの手伝いをする。
フェリが漏らした秘密は、恐らく貴族の間では一般常識のようなものだ。だからこそ言いやすかったのだろう。それ以上のこと、つまりアルベルト個人についての話はやはり、口にしづらいようだった。
これ以上フェリをつつくと胃に穴が開いてしまうかもしれない。
ユノは朝食を食べながら、やはりアルベルトの秘密を尋ねるのはあの庭師見習いが適任だと思った。
思う存分腹を満たしてから、ユノはバラの庭園に向かった。昨日と同じ辺りを歩き、エドワードを探す。今日は動きやすいようにヒールの低い靴を履いていた。
「エド?いるのなら返事をして」
迷路のような庭園をぐるぐると歩いていたユノは、埒が明かないと考えて顔を覆ってしゃがみ込んだ。
「アルベルトさまぁー!庭師見習いの男があたしに乱暴しましたわー!うわぁぁん!」
「ぎゃあああヤメろぉぉ!」
ユノのすぐ側の茂みの中から、エドワードがひょこりと顔を出す。ユノは泣き真似をやめてニヤリと笑った。
「あたしが呼んだらさっさと出てくればいいのよ」
エドワードはユノの顔に涙がないのを見ると、ヒクヒクと頬を引き攣らせた。
「俺達には関わるなって言わなかったか?」
「あたしを誰だと思っているの?この家の主人の妻よ?さっき叫んだことをそっくりそのままアルベルト様に告げてもいいのだけれど?」
「ぐぬぬ……。やっぱり蛇なんて食う女はロクな奴じゃねーな……」
エドワードはガシガシと頭を掻くと、茂みを隔てた向こう側にどかっと腰を下ろした。
「わかったよ。聞きたいことがあるなら答えてやる。だがこっちに来るな。こっちを見るな。これは取り引きだからな」
取り引きとはいっても、立場は圧倒的にユノが有利だ。そのことにエドワード自身も気付いているだろう。
ユノは満足気に笑って、エドワードと背中合わせに腰を下ろした。
「エドはアルベルト様が赤眼の魔術師だってことは知っているのね?」
「あ?あぁ……。そりゃあ、な。一目瞭然だろ」
「使用人達がアルベルト様を恐れているのは、そのせいなの?」
「………………」
エドワードは急に押し黙った。
ユノは立ち上がって茂みの向こう側のエドワードを見下ろす。しばらく旋毛を見下ろしていると、視線に気付いたエドワードが振り返って眉を寄せた。
「見んなって言ったろ。あんたは信用できない」
エドワードは立ち上がると、ユノから離れて一面に咲くバラに触れた。口も態度も粗暴なのに、バラに触れる手付きは驚くほどに優しい。
「……………………今朝、旦那様は手ずからバラを一輪摘んでいった」
灰色の瞳を細めて、エドワードは振り返る。
「あんたのためにそんなことするなんて、あんたは何者だ?あの旦那様をあんな風に変えちまうなんて…………。まさかあんたも、人の心が操れるっていうのか?」
エドワードの瞳には、困惑と恐怖が色濃く浮かんでいた。
強い風が吹いて、バラの花弁がはらはらと舞った。ユノは目を瞬かせて髪を押さえたが、エドワードはじっとユノのことを見つめていた。
「そうよ」
ユノが答えると、エドワードの灰色の瞳が見開かれる。
「だってあたしは、娼婦だもの。人の心に住み着いて、意のままに操るのが仕事」
ユノは強い瞳でエドワードのことを見据えた。
体は売っても心までは手放さないと、強い意志を示すように。
毅然と振る舞うユノに対し、エドワードは哀れみの視線をユノに向けた。
「あんた、娼婦だったのか。…………苦労、したんだな」
その言葉は、視線は、ユノのプライドを深く傷付けた。
「っ──!」
ユノはカッとなって、ずかずかとエドワードに歩み寄った。そして、バチン!とエドワードの頬を打つ。
「なんで、なんであんたみたいな敬語もロクに使えない、庭師見習い風情に同情されなくちゃいけないのよ!」
何が起きたのかわからず、エドワードはポカンと目を丸くした。
ユノは瞳に涙を溜めてきゅっとエドワードを睨み付けると、くるりと背を向けて駆け出した。