爪先立ちの少年
眩い朝日が差し込む食堂。昨夜のことがあったユノは、無事に朝を迎えられたことに心底ホッとした。結局夕飯も食べ損ねてしまったので、とてもお腹が空いている。しかしとてもじゃないが、がっつけるような雰囲気ではなかった。
ユノは正面に座るフェリとセレンディアに、そろりと視線を向けた。二人は目を伏せて、黙々と食事を口に運んでいた。『怒っています』という雰囲気が全身から滲み出ている。昨日の昼食の席でユノに睡眠薬を盛られたことに、二人は大層ご立腹しているようだった。
ユノはもそもそとパンを口に運びながら、二人にかける言葉をずっと考えていた。しかし何も思い付かなかったので、先にメルヴィンに質問することにした。
「あたしはメルヴィンの物って、どういうこと?」
──カチャンッ!
フェリがスプーンをスープの中に落とす。
皆の視線が集まると、フェリは慌てた様子でスプーンを拾い、ナプキンで丹念に磨いた。
ユノの隣でちびちびとスープを啜っていたメルヴィンは、身長に似合わず態度だけは大きく、大仰にフンと鼻を鳴らした。
「俺はアルベルト大佐の魔力を封じた功績で、大佐の持ち物を貰い受けたんだよ」
メルヴィンの言葉に、フェリとセレンディア、そしてヴェスペルティリオまでもが反応する。特にセレンディアは顔を青ざめさせ、口元を覆い隠した。まるで恐ろしいことを聞かされたような反応だった。
「魔力を……? そんなことが、可能なのか……?」
「並の魔術師では無理だろうな。まずその発想にすら至らないだろう。俺も陛下に持ちかけられるまでは考えたこともなかった」
メルヴィンは自身の才能に胸を張るでもなく、淡々とした口調で呟いた。
プライドの高いアルベルトは、自身の魔力が封じられていることや、右腕が動かせなくなっていることを他人に悟られないようにしていた。ゾーギン村の人々は恐らくアルベルトが右腕を不自由にしていることは薄々勘付いていただろうが、まさか魔法が使えないとは思っていなかっただろう。
「……そんな……まさか……魔力が……」
赤眼の魔術師であることを期待して皇女ネモフィアーネを預けたのだとしたら、この事実はショックだっただろう。ただでさえ不安を募らせていたセレンディアは、忌々しそうに負傷した己の足に拳をぶつけた。
「……じゃあ、サジタリアスと、その……アリーズは……」
ユノは訊くのが怖かった。王都が火の海に包まれたあの夜以来、アルベルト邸の人間がどうなったのか、ユノはまだ知らない。
「大佐の後ろ盾がなくなった以上、サジタリアスが軍に残るメリットはそうない。俺もちょうど王都を出る予定だったから、護衛役に選んだんだよ。俺は亜人が嫌いだが、現状信用できて腕も立つ奴なんて、大佐の所持品の他になかったからな」
随分な言い様だったが、端の席で既に食事を終えていたサジタリアスに気にした様子はなかった。
ユノの窺うような視線に、爽やかな笑顔を返す。
「メルヴィン殿はガーデン復興のために王都を出られたんです。俺はアルベルト大佐に義理も通せるし、報酬も貰える。文句はないですよ」
妹のアリーズと違って、サジタリアスは柔軟な性格をしているようだった。他人から向けられる悪意に慣れていて、受け流す術に長けている。帝国軍で、この世界で生き抜くには必要なスキルだったのだろう。ユノは胸が苦しくなった。
「──だが、アリーズは陛下が手出しを禁じた亜人だ。王都に残した方が何かと役に立つと思って置いてきた。本部を我が物顔で歩く亜人に、今頃アーク家の連中はイライラしてるだろうな」
メルヴィンはコーヒーに口を付けながら、意地悪くクツクツと笑った。複雑な思いがして、ユノは笑えなかった。
しかし、少しだけホッとする。アリーズは無事だったのだ。アルベルトの持ち物がメルヴィンの物になったのだとしたら、屋敷も、使用人達も、恐らくメルヴィンがしかるべく対処してくれたのだろう。
それから沈黙が落ちると、頃合いを見計らってサジタリアスが口を開いた。
「それで、大佐夫人。この二人は信用してもいいんですか? 少々変わったニオイがしますが」
サジタリアスは、鋭い瞳でセレンディアとヴェスペルティリオを一瞥した。
疑いの眼差しを向けられたセレンディアは、毅然とした態度で食事を続ける。一方でヴェスペルティリオといえば、スープの豆を右に左に移して遊んでいた。
ユノがセレンディアに視線を送ると、今日初めて目が合った。しかしすぐにフイと逸らされ、セレンディアはナプキンで口元を拭ってからサジタリアスに向き直った。
「私はセレンディア・フィーレリア。──グランキシュル王国皇女近衛騎士だ」
グランキシュル王国という言葉にサジタリアスとメルヴィンは素早く反応し、軽く腰を浮かせた。瞳に警戒と敵意が浮かんでいる。
「グランキシュル人が肌の色まで誤魔化して、帝国に一体何の用だ」
メルヴィンが鋭い口調で詰問する。発言によってはその手から文字通り火が噴くだろう。セレンディアもメルヴィンが見た目通りのただの子供ではないことを感じ取ったのか、居住まいを正して彼の方を向いた。
「私の願いは、皇女様のお望みを叶えること。皇女ネモフィアーネ様はこの戦争を終わらせるため、摂政の魔の手を逃れ帝国へ亡命なされたのだ」
思いもよらない言葉に、メルヴィンは目を見張る。テーブルに突いた手が微かに震えていた。
「ま、待て。それはつまり……」
「ああ。皇女様は生きておられる。今はアルベルト殿と共に行動し、竜王に謁見すべく王都に向かっておられるだろう。私はこの怪我のせいでお側を離れることになったが、少しでもお力添えすべく、今出来ることをしている」
メルヴィンは顔を押さえると、膝から力が抜けたように椅子に座り込んだ。
「まさか……そんな……」
「あたし達は一刻も早くレグにこの話をするために旅をしていたの。メルヴィンも力を貸して」
ユノは身を乗り出してメルヴィンに懇願する。メルヴィンはそんな声も届いていない様子で、一人で考え込んでしまった。
ブツブツと何事かを呟いていたメルヴィンが、不意に顔を上げる。
「……まずいな。今から王都に向かっても、恐らく行き違いになる」
「え?」
「陛下は近く戦場に出られる。狙うはグランキシュル大聖堂。中枢都市を陥落させ、この戦争を終わらせるつもりだ」
──ガタン、と椅子が倒れる音が響く。セレンディアが急に立ち上がったせいで、椅子がひっくり返っていた。
セレンディアは目を見張り、言葉も出せない様子でメルヴィンを睨み付けた。一度思考して落ち着いたのか、メルヴィンは冷ややかな視線でそれを受け止める。セレンディアに対して何の感情も抱いていない目をしていた。
「……それなら、なおさら急がないと。皇女が公の場に出られれば、これ以上の血は流れないわ」
二人のやり取りを見ていられず、ユノは口を挟んだ。
メルヴィンとセレンディアの間には、明確な線が引かれている。エルキデ帝国とグランキシュル王国の間にある溝と同じものが、二人の間を真っ二つに引き裂いている。
「肝心の皇女がいないことには話にならない。──サジタリアス、地図を」
メルヴィンの指示で、サジタリアスは荷物の中から地図を出してテーブルに広げた。メルヴィンは腕を一振りしてテーブルの上の食器を宙へと浮かせる。スープを飲んでいる途中だったフェリは、あっという顔をして頭上に漂う器を見上げた。
「大佐はどのルートを通ったと思う? 面倒事を避けて、都市近郊は迂回しただろう。となるとこの辺りか」
「でしたら、この渓谷を利用した可能性が高いかと。大佐はこの辺りの土地勘がありますから」
「確かに合理的だな。まだ国境付近にいるとすれば都合がいい」
メルヴィンとサジタリアスは地図をなぞりながら、話を進めていく。その横顔に、かつてずぶ濡れで屋敷を訪ねてきた時の面影はない。
しばらく会わない間に、随分とメルヴィンは大人になった。自分の無力さを嘆き、ユノに縋り付くことしかできなかった少年とは、まるで別人だ。あれからメルヴィンは想像もつかないほどに努力し、考え、実行してきたのだろう。
しかしその横顔にあるものは、頼もしさとは少し違う。冷たく、鋭利で、どこか恐ろしい。まるでユノ以外のものを見ている時のアルベルトのようだった。
「俺達はこれから渓谷に向かい大佐を追うが、お前はここまでだ」
「え……」
青い瞳が冷たくユノを見つめる。芯まで凍えてしまいそうな眼差しに、ユノは言葉が出せなかった。
「渓谷は魔獣の巣窟になっている。剣も魔法も使えないお前が行ってどうなる。足手纏いだ」
メルヴィンは切り捨てるようにはっきりと言った。
ユノは俯き、スカートの裾を握り締める。かつてのメルヴィンもこんな気持ちだったのだろうか。出来ることは何もない、大人になれと、かつてユノはメルヴィンを突き放した。
あれからメルヴィンは大人に囲まれた帝国軍の中で、魔法だけを頼りに生き抜いた。魔法のないユノは、一体どうすればいいのだろう。
「……………………嫌」
気付けばユノは、そんなことを呟いていた。
「嫌よ、そんなの。あの人は、あたしを置いていったのよ。戻ってくるつもりなんてない。そんなの、許せると思う……」
ユノはいつまででも待つつもりだった。他でもないアルベルトのことならば信じられた。それをあの男は、一方的に別れを告げ、赤眼でユノを従わせた。
思い出すだけで腹が立つ。
「あたしは、あの人を殴りに行かないといけないの。怒った女を止められると思わないで」
ユノは静かにメルヴィンを睨み据えた。固い意志を宿したエメラルドの瞳で射抜かれたメルヴィンは、小さく息を呑む。
「……本物の馬鹿か、お前」
迫力に気圧されたメルヴィンだったが、何とか言葉を吐き出す。それでいくらか調子が戻ったのか、きゅっと眉根を寄せてユノを睨み上げた。
「大人になれよ、──ユノ」
道理を弁えたかのような、大人のような顔をして言うメルヴィン。それにユノは、いっそ悲しい気持ちにさせられた。メルヴィンをこんな風にしてしまったのは、ユノのせいだ。
肩を落とし、釣り上げていた目をふっと下げる。
「……あたし、まだ大人じゃない。あなただってそうよ、メルヴィン。あたし達はまだ子供なの。子供でいいのよ」
ユノはメルヴィンの前に膝を突き、彼を抱き締めた。びく、と跳ねた肩を強く、強く抱き寄せる。
「あのとき、本当は、こうするべきだった。あたし、最低だった。ごめんなさい、メルヴィン。裏切って、突き放して、守ってあげられなくて……ひとりにして、ごめん」
温もりを分け与えるように頬を擦り寄せる。メルヴィンは拒むようにユノの肩を掴んだが、ユノがより一層強く抱き締めると、ふっと手の平から力が抜けた。
「……わかれよ。わかってくれよ。俺はもう、失うのはごめんなんだ。頼むから、ここで止まってくれ。これ以上俺を、困らせないでくれよ……!」
メルヴィンはユノを掻き抱いて、唸るように叫んだ。小さな身体を震わせて、鼻を啜る。
ユノはメルヴィンの手を掴み、自身の頬に触れさせた。昨夜ジャンヌに蹴られて腫れ上がった頬が、今はすっかり何もなかったかのような滑らかな肌になっている。
「怪我を治してくれてありがとう。わがままばかり言ってごめん。でもあたしは、行かないといけないの。そうでなきゃ、あたしは生きられない」
「……どうかしてる……」
「あの男が選んだ女だもの」
メルヴィンはユノの頬を撫で、慈しむように目を細めた。
「…………本当は、怖いんだ。俺のせいで、お前が傷付くようなことがあったら、俺は……大佐に顔向け出来ない」
「大丈夫よ」
ユノはメルヴィンと目を合わせ、力強く微笑んだ。もう一度大丈夫と告げる。
メルヴィンは目を伏せて、吐き出すように笑った。
「……俺もどうかしてる。根拠なんてまるでないお前の言葉に、どうしてか大丈夫って気にさせられる」
不意に、メルヴィンはユノの頬を軽くつねった。頬袋が伸ばされて間抜けな顔になったユノを見て、意地悪くクツクツと笑う。
「お前を置いてってアーク家の連中に人質にでもされたら迷惑だからな。仕方ないから連れてってやる」
ユノはメルヴィンに微笑み返し、次には思い切り両頬をつねってやった。




