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泥かぶりと負け犬

 冷たい石の壁に覆われた地下牢で、ユノは壁の隅で膝を抱えて小さくなっていた。右頬は赤く腫れ上がり、いかにも哀れだったが、膝に伏せられたそのエメラルドの瞳は、決して折れてはいなかった。

 一体どうやってここから逃げ出すかを、ユノは必死に考えていた。身も凍えるような床の冷たさなんて気にならない。生きてさえいれば、後はどうにだってなる。

 地下牢に見張りはいない。屋敷に来たときから人の気配をまったく感じないため、もしかするとあの双子の他には誰もいないのかもしれない。カトラス邸の人間がどうなったのか、ユノには知る由もない。

 ヴェスペルティリオから貰った笛は、地下牢に入れられてからこっそり吹いておいた。ここからの距離でヴェスペルティリオに届いたかどうかは怪しい。彼の言った通り、音色のようなものは何も聞こえなかった。

 助けは期待できない。牢屋の鍵はどこにあるかわからないし、鉄格子の間隔は狭く、通り抜けることはできなさそうだ。後は壁を削って抜け穴を作るという手があるが、いつあの双子が来るかわからない状況でそんな地道な手段は選べない。つまりは手詰まりだった。ヴェスペルティリオにあんな大口叩いたくせに、情けない。

 ジャンヌは『拷問』と口にしていた。あの女ならば、言葉通りユノを痛めつけて口を割らせようとしてくるだろう。今更そんな手に屈するユノではないが、できればご勘弁願いたい。


「はぁ……」


 ユノは睫毛を伏せて、小さくため息を吐き出した。右頬は痛いし、お腹は空いたし、お尻が冷たい。暗い地下牢に一人で閉じ込められていると、心まで暗い牢獄の中に閉じ込められそうになる。


「なに諦めてるのよ、ユノ……あんたはこんなところで終わるような女じゃないでしょ……考えるのよ……考えるの……」


 自分を鼓舞するように、ユノは左頬を軽く叩いた。──と、その時だった。

 錆び付いた蝶番が軋む音と共に、暗い地下牢に一筋の光が差し込む。暗闇に慣れた目に突然の光は眩しく、ユノは目を細めた。光の中に立っていた人影は、ゆっくりと階段を降りてユノの檻の前まで歩いてくる。


「……お、お腹、空いたよね……ご飯、も、持ってきたよ」


 目が慣れると、そこにジャックが立っているのが見えた。食事の乗ったプレートを手に隈の濃い虚ろな眼差しを細めて、ヘラヘラと笑っている。

 ユノが無視すると、ジャックは焦ったように鉄格子の前に膝を突いた。


「ご、ごめんね……か、可哀想に……。綺麗な顔が、は、腫れちゃってる……。ご、ごめんね。……で、でも、キミが悪いんだよ……キミが、ね、姉さんに、あんなこと言うから……」


 ジャックは目の前のユノの機嫌を取りながらも、時折背後を窺うようにして、双子の姉の機嫌も気にしているようだった。


「姉さんは、自分の美貌を貶されるのが、い、一番キライなんだ……。だ、だから、キミのことも、あの男のことも、すごく……キライ、みたい」


 指先をちょんちょんと合わせながら、ジャックはボソボソと呟く。


「……僕も、あ、あの男、好きじゃない。ぼ、僕のこと、いつも、見下してるみたいだった……。実際、僕が汚くて、ダメなヤツ、だから、だけど……」


「ジャックはあたしのこと、綺麗だって思う?」


「えっ……?」


 終わらない独り言を遮るようにユノが口を挟むと、すっかり自分の世界に入っていたジャックはビクッと肩を飛び上がらせた。

 ユノは真っ直ぐにジャックを見つめた。初めは恥ずかしそうに視線を泳がせていたジャックだったが、次第に視線がユノの瞳に吸い込まれていく。


「あたしのこと、お姉さんより綺麗だって思ってる。違う?」


「そ、それは……」


 ジャックは怯えた様子で肩を窄め、キョロキョロと周囲を見渡した。ユノはその様子を眺めながら、脚を伸ばしてゆったりとした格好でジャックを上目遣いに見上げる。ジャックはユノを見下ろして、ゴクリと喉を鳴らした。


「あたしはジャンヌより美しい。そうでしょう?」


 ジャックの額から冷や汗が流れ、頰を伝って顎に落ちる。

 一度目を伏せ、ジャンヌの姿がないことを確認すると、小さく頷いた。

 ユノはジャックを褒めるように、桜色の唇を美しく持ち上げる。美しい笑顔を向けられたジャックは、ヒクヒクと不恰好に口角を引き攣らせて、ユノに微笑み返しているようだった。


「ねぇジャック。あたしの肌、舐めてみたくない?」


「えぇっ……!?」


 ジャックはさっと顔を青くしたかと思えば、次には顔を真っ赤にさせた。ユノはクスクスと笑い、スカートの裾をするりとたくし上げながら脚を組み替える。晒される白い素肌に、ジャックは目を奪われていた。


「アルベルトの女を好きなようにできるチャンスは今だけよ。嫌いなんでしょ? 最高の仕返しじゃない?」


「え……で、でも……き、キミは、それでいいの……?」


 ユノの脚を食い入るように見つめながら、ジャックは軽く首を傾げる。


「ジャックは優しい子ね。また食事を持ってきてくれるならいいわよ」


「そ、それくらい、いつでもするけど……で、でもっ、ね、姉さんに……叱られる、かも……」


「これは男と女の問題でしょ? 姉さんは関係ないわ。鍵は持ってるわね?」


「ン、ンンン……うん……」


 ジャックは茹で蛸のようになった顔を俯かせ、ポケットに入れていた鍵を使って牢屋を開けた。ユノは入り口でモジモジしているジャックの腕を強く引っ張った。体勢を崩したジャックが、上に伸し掛かってくる。

 ユノはぐいと頭を抱き寄せ、首筋に埋めさせた。予想通り、ジャックはカチンコチンに硬直する。その間にユノは準備を済ませた。


「い、いい匂い……ずっと嗅いでたくなる……ハァ……あの男は、ま、毎晩……こんないい匂いを、好きなだけ、か、嗅いでたのか……」


 ジャックはスゥッと深く息を吸い込むようにして、ユノの香りを嗅いだ。一度そうすると他が見えなくなった様子で、ユノの髪を触りながらクンクンと匂いを嗅ぐ。時折首筋に触れる指先は冷たいのに、吹きかかる吐息は生温かい。

 ぞわぞわするような手付きだった。女に触れたことがないのだろう。相手のことなどまったく考えていない、自分勝手な愛撫だった。


「んぐっ……!?」


 意識をどこか遠くに向けてやり過ごしていた、その時だ。突然、首を絞められた。

 ユノは突然の奇行に目を剥いた。ぎりぎりと加減なく喉を圧迫され、口の中の物が端から溢れる。

 ジャックはひどく興奮した様子でユノを見下ろしていた。


「ハァ……あ、あの男の物が……今は、ぼ、僕の物……僕の好きにしていいんだ……イヒ、ヒッ、ヒヒ……」


 本当に信じられない。どこまで自分勝手な男なのだろう。

 ユノは刈り取られそうな意識を振り絞って、ジャックの首に手を伸ばした。


「ん……? 何? 頭を撫でてくれるの? それとも、キ、キキ、キッ……す……し、してくれる……? ぼ、僕、女の子とするの、は、初めて……」


 ふっと、首を絞める力が弱まった。ユノは鼻で酸素をかき集める。冷たく薄暗い地下牢に、荒い呼吸が二つ木霊する。


「は、恥ずかしいから……キミから、して……や、優しくだよ……」


 ユノは上体を軽く起こし、ジャックの首に腕を絡めた。ジャックは長い前髪の隙間から、じっとユノのことを見つめていた。

 ユノは目を閉じて、押し付けるようにキスをする。


「んぅっ……!?」


 突然口の中に何かを流し込まれたジャックは、驚いて目を開けた。ゼロ距離で目が合ったユノを突き飛ばし、口元を押さえる。


「き、キミ、僕に、何を……」


 呟きながら、ジャックは気を失うように倒れた。耳を澄ませると、スヤスヤと寝息が聞こえる。

 ユノは唇をごしごしと拭って、口から酸素を取り込んだ。絞められた首がズキズキと痛む。

 作戦が成功したことにユノは得意気な笑みを溢し、胸の谷間からガラスの小瓶を取り出して目の前に翳した。


「娼婦と口付けするときは用心した方がいいわ。命まで吸い取られてしまうから」


 ジャックが愚かな男でよかった。ユノは床でスヤスヤと寝こける男を一瞥して、さっさと牢屋から抜け出した。階段を駆け上がり外に出る。屋敷の構造などまったくわからなかったが、とにかく廊下を走って出られる場所を探した。

 一本道の先に窓が見えた。向こう側に庭が広がっている。ユノは救われたような気持ちで走るスピードを速めた。


「──あなたっ、どうやって……!?」


 通りに飛び出すとちょうど、ジャンヌが角を曲がって現れる。突然のことにお互い驚いた様子だったが、動き出すのはユノの方が早かった。

 窓に飛びかかると、幸運にも鍵が掛かっていなかった。ユノは飛び込むようにして外に転がり出る。屋敷を回り込むと、アザミの花壇の先に門が見えた。ユノは一目散に駆ける。

 ジャンヌの怒鳴り声を背中に浴びながら、ユノはもう一度笛を吹いた。すると同じタイミングで門が開いた。もしかするとヴェスペルティリオが助けに来てくれたのかもしれない。


「──ぐっ……!?」


 わずかに気を抜いたその瞬間。突然首に何かが巻き付き、ぐっと後方に引かれる。

 地面に背中を叩き付けられる衝撃もかなりのものだったが、首を絞める力もこちらを本気で殺しに来ていると感じた。この双子は容赦というものを知らないらしい。ユノは声も出せずに喘いだ。

 首を捻って後方を見ると、首を絞めているものはジャンヌが手にしている鞭だった。ジャンヌは怒りに顔を歪め、長い髪を逆立てている。


「この子ブタが! 死ね! 死ねッ! 死ねぇッ!」


 首の骨が嫌な音を立てて軋む。ユノは薄れゆく意識の中で、何かが頭上で閃くのを見た。


「何っ……!?」


 パチパチっと火の粉が散るような音がしたかと思うと、ふっと首を絞めていた鞭が消滅する。急激に酸素が肺に流れ込んで来て、ユノは噎せ込んだ。

 膝を突くユノを庇うようにして、誰かが前に立つ。


「ヴェス……?」


 顔を上げたユノは、思っていた位置に頭がなくて眉を顰めた。視線を下げていくと、随分と低い位置に見つけた。

 金の刺繍が入った白いローブに、大きな丸い帽子。

 それは、宮廷魔術師の装束。


「どうして……」


 ユノは目を見張った。信じられない。

 目の前に立っていたのは、メルヴィンだった。


「それはこっちのセリフだ。訊きたいことは色々あるが、今はそんな場合じゃない」


 メルヴィンは鋭い視線で前方──ジャンヌを睨み付ける。対するジャンヌも怒りで瞼をヒクつかせていたが、口元だけはかろうじて笑顔を作ってみせていた。


「……あら。誰かと思えばアークノーツ家の恥さらしじゃない。騎士にでもなったつもりかしら? ……負け犬のくせに」


 わかりやすいジャンヌの挑発に、メルヴィンは眉さえ動かさなかった。


「久し振りだな、ジャンヌ。泥かぶりの姫君は相変わらず、汚れ仕事ばかり押し付けられてるんだな。同情するよ」


「出来損ないのガキは黙ってなさい。お父様に言い付けられたくなかったら、さっさとその子ブタをこっちに渡して」


「生憎と、もう父親が怖いような歳じゃない」


「そう。じゃあ痛い目にあいたいのね」


 ジャンヌは燃えて短くなった鞭を放り捨てると、身体を斜めにして腕を構えた。魔法を放つつもりだろう。メルヴィンも相手を牽制するように腕を前方に突き出す。


「私に足を折られて泣いてた坊やが、まさか私の前に立ち塞がるなんて。人生わからないものね」


「お前が処刑人になったように、俺は宮廷魔術師になった。お互いもう遊んでばかりはいられないんだよ」


「そうね。我慢することばっかりで、嫌になるわ」


「──言っておくが、俺は竜王の密命を遂行している最中だ。任務に失敗したとなれば、アークノーツの名を更に汚すことになるだろう。まぁ、俺には関係のないことだ」


「……本当に嫌になる。陛下はどうしてこんなブタ野郎を庇うのかしら……」


「俺がお前らより優秀だからだよ」


 お互い初めから攻撃し合う意思はなかったのだろう。ジャンヌが嫌味を言いながら腕を下ろすと、メルヴィンも構えを解いた。


「アルベルト大佐の物は、今は俺の物だ。だからこの女は俺の物だ。連れて行っても問題ないな?」


「フン。早く連れて行ってちょうだい。その子ブタも、獣も、臭くてしょうがないわ。よく側に置けるわね」


 ジャンヌは嫌そうな顔をして鼻を摘んでみせた。メルヴィンは相手にせず、ローブをはためかせてジャンヌに背を向ける。

 てっきりメルヴィンが助け起こしてくれるものと思ったが、唐突にユノは抱き上げられた。咄嗟にしがみつくと、浅黒い肌が目に入る。弾かれたように顔を上げると、そこにいたのは銀髪の男だった。


「言っておくけれどね、あなたはこれで完全にアーク家を敵に回したわ。せいぜいその首大切にするといいわ、メルヴィー坊や」


 背中にかけられた言葉に、メルヴィンは何も言い返すことなくその場を去った。

 盗み見たメルヴィンの横顔は、しばらく会っていない間に随分と大人びたように感じる。

 しかしそれは頼もしさもあるが、どこか危うい雰囲気もある顔付きだった。

 じっと見過ぎたのか、不意に青い瞳がユノを捉える。


「なんだよ」


「いえ……まだ、驚いてて。どうしてメルヴィンがカトラス邸に?」


「それはこっちのセリフだ馬鹿。無鉄砲にも程があるだろ。俺がいなかったら殺されてたぞ」


 メルヴィンの言葉は反論の余地もないほど正しかったが、そんなふうに言われるとつい反発したくなる。


「なによっ。そんな言い方しなくてもいいじゃない。せっかくお礼言おうと思ってたのに、そんな気なくなっちゃった」


「お前みたいな無鉄砲考えなし馬鹿のお礼なんか、こっちから願い下げだね」


 売り言葉に買い言葉。二人は互いにツンと唇を尖らせて顔を背ける。しかしユノは内心、久し振りのやり取りにニヤニヤと笑ってしまう。窮地から脱出した安堵も相まって、すっかり気が緩んでいた。

 張り詰めていたものがなくなると、急激に痛覚が戻ってきて、全身が鈍く痛み始めた。何度も打ち付けられた背中がズキズキとするし、一番重傷なのはジャンヌに蹴られた頬だ。指先でそっと触れると悶えるような痛みが突き上げる。恐らくかなり腫れ上がってしまっただろう。

 歯が抜けなかったのは幸いだったが、痕が残ったらどうしよう。落ち込んで小さくため息を吐き出すと、ふと自分を抱き上げている男と目が合った。

 男は紫色の瞳をふっと細めて、ユノに笑い掛ける。


「大丈夫ですよ。メルヴィン殿は医療魔術にも心得があるんです。そんな傷、あっという間に治してくださいますよ」


 気の良い男の言葉に、メルヴィンは肩を怒らせて振り返る。


「おい。俺は専門の医者とは違うんだ。かなり疲れるんだから、アテにされたら困るだろ」


「皆、あなたを頼りにしていますよ」


 銀髪の男の言葉に、メルヴィンは満更でもない様子で押し黙る。

 ユノはずっと男が誰かを考えていたが、思い出せそうで思い出せない。どこかで会ったことがあるような気はしているのだが……


「んん~? あたし、あなたと寝たことあったっけ?」


「ブッ!!」


 キョトンと小首を傾げた隣で、メルヴィンが真っ赤になって盛大に噴き出す。


「ばッ! おまっ、おま、お、お前っ! な、なななに言ってんだよバカッ! ばか!」


 ユノはぱちぱちと瞬きをする。

 そして次に、ニタァと悪い笑みを浮かべた。


「あたし達、大人だもの。そういうこともあるわよねぇ?」


 褐色肌の男の肩に手を乗せて、ぐっと身体を押し付ける。それだけでメルヴィンはぼぼぼっと顔を赤くさせて、頭から湯気さえ沸かせた。


「俺は家族の他には、連隊の仲間としか寝たことないですけど?」


 肝心の男の返しに、ユノはガクッと肩を落とす。どうやら少し天然の気が入っているらしい。

 ユノは男の腕から降りた。本当は一歩も歩きたくない気分だったが、甘やかされることに慣れてしまうと、返ってこの先がつらいだろう。


「じゃあ誰だっけ?」


「サジタリアスです。妹のアリーズが大変お世話になりました」


「あっ!」


 どうして思い出せなかったのか。サジタリアスとは帝国軍本部で何度か会ったことがある。アリーズをそのまま男にしたら、きっとサジタリアスになるだろう。

 そこでユノは怪訝な顔をした。どうしてサジタリアスがメルヴィンと一緒にいるのだろう。メルヴィンは亜人が嫌いだったはずだ。サジタリアスも帝国軍人だったはず。どうして二人が王都から離れたカトラス邸を訪れたのか。

 ユノがその辺のことを問いかけようとした時、サジタリアスがユノとメルヴィンを庇うように前に出た。腰に差したサーベルに手を掛け、道の脇に立ち並ぶ木々を鋭く睨み付けている。


「気を付けて。誰かいます」


「まさか追っ手か? そういえばジャックの方を見なかったな。あの双子は常に二人で行動する」


「それはありえないわ。強烈な一発を決めてやったから、少なくとも朝までは目覚めないはずよ」


「こんな時に冗談はやめてくれ。ジャックは多才な上に執念深く、残忍性も高い。おまけに会話も通じない、まさに狂犬だ。まだ話が通じるジャンヌが相手でマシだと思ったのに……」


 ユノはムスッと頬を膨らませたが、何も言わなかった。まさか色仕掛けをして、キスで睡眠薬を飲ませただなんてメルヴィンに話すわけにはいかない。多分一生口きいてくれなくなる。


「出てきます。今の所敵意は感じませんが、油断は禁物です」


 サジタリアスが肩越しに告げる。彼は軍人なので戦闘経験もあるし、亜人族特有の鋭い五感も持ち合わせている。これほど頼りになる男はそういない。ユノは大人しくサジタリアスの影に隠れて相手の様子を窺った。

 木の陰から姿を現したのは、ズタボロコートの吟遊詩人だった。両手を挙げて、のそのそと歩いてくる。


「ヴェス! 来てくれたのね」


 ユノは右頬の痛みもすっかり忘れて破顔し、ヴェスペルティリオに駆け寄った。


「ご無事で何より……とは、言い難いですね。美しいお顔が、お痛ましや……」


「来るのが遅かったじゃない。メルヴィンがいなかったら死ぬところだったわ」


「いえ、いえ。丁度それがしが到着する頃に、そちらのお二人も参られまして。これは良い詩になると思い、拝見しておりました。それがしの思った通り、良い詩となりましたな」


「なにそれ。サイテーね」


 ユノに冷たい視線を浴びせられたヴェスペルティリオは、どうしたことか嬉しそうに引き笑いをする。初対面で気持ち悪い一面を見て、メルヴィンもサジタリアスも軽く引いていた。


「紹介したいのは山々だけど、今日は疲れちゃったから、ひとまず宿に戻りましょう」


 先頭に立って一歩踏み出したユノは、そのままぐらりと前のめりに倒れ込んだ。


「おっと」


 ヴェスペルティリオが長い腕を伸ばし、ユノの上体を支える。

 ユノは目を見張る。全身が痺れたように動かせなくなっていた。


「ご無理をされたことに、ご自分でも気付いておられなかったのですね」


 ヴェスペルティリオはひょいと軽くユノを抱き上げると、閉じられた瞳でユノを見下ろした。真っ白い肌に、真っ白い髪。睫毛までも白いのを見上げて、ユノは何かを言おうとした。しかし、ヴェスペルティリオの小指がユノの唇をちょんと塞ぐ。


「冒険は終わりです、美しいお嬢さん。今はゆっくりと、お眠りなさい」


 ヴェスペルティリオは小指を今度は自分の口元に添えて、「シー」と吐息を吐き出した。するとどうしたことか、瞼が重くなって意識がとろんと溶けていく。


「また、魔法……?」


「いえ、いえ。今回は、ユノさんの意思ですよ」


 目を閉じてからも、意識は少しの間残っていた。

 ユノを抱きかかえる逞しい腕が、胸板が、愛しい人のそれと重なる。視覚情報がないだけに、ユノはアルベルトに抱かれているような心地がして、とても安心した。

 胸元に擦り寄ると、穏やかなリズムで頭を撫でられる。それだけで、ユノは涙が出そうだった。

 ユノは唇で、アルベルトの名前を呼んだ。

 それが音になっていたかどうかは、微睡みの世界に誘われたユノにはわからない。

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